新々刀その一

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アーカイブ ※この記事は2020年1月15日に発行されたものです。

新々刀に関する質問が多く寄せられています。そこで二回に分け、代表的な質問に答えながら、新々刀全般にわたって説明していきたいと思います。

◎水心子正秀が新々刀の祖と言われる理由について

その理由は三つあると考えられます。

①復古刀を唱えたこと。

鍛錬に関して自分で会得した鍛錬方法を秘匿せずに弟子にわかりやすく教え、かつ公開し、また多くの書物を著し、全国に復古鍛法を流布させたこと。

③多くの門人を育て、さらにその弟子たちの元から名工が輩出し、新々刀期に大きな影響を及ぼしたこと。

次に水心子正秀がなぜ「復古刀」を唱えたかの理由についてですが、その一つには当時の風潮が大きく影響していたと考えられます。寛政のころ、時の老中松平定信は復古主義的な思想を持つようになり、世の中全体が復古主義になっていきました。『集古十種』が発刊されたり、甲冑なども鎌倉時代のものを模すようになりました。そのような風潮の下、刀剣も水心子正秀によって、全て鎌倉時代ないし吉野時代の作刀法に復すべきであると唱えられたのです。

二つ目の理由は、当時、助広や真改のような華やかな乱れ刃が最も流行していたのですが、正秀は『刀剣実用論』の中で「助広に限らず大乱、大のたれ、広直刃・・・等鎬際まで刃深きは予が造りし物も同様に折れ易し」と警鐘を鳴らし、日本刀は復古鍛法によるべきであると述べています。古刀製作技術を復興し、刀剣実用論を唱え、秘伝を書物によって公開したのです。

正秀の著作で主なものに『刀剣辨疑』『刀剣実用論』があり、『古今鍛冶備考』の中にある「鋳錬鍛挫略弁」があります。ほかに『剣工秘伝抄』『鍛錬玉函』などもあります。

多くの書物を著して復古刀を唱えると、全国の刀工たちが正秀の門を叩くようになりました。正秀門人の数は、『古今鍛冶備考』には七十九名、南海太郎朝尊の『新刀銘集録』では七十四名、正秀書簡には六十四名を挙げています。

さらに、正秀門人の双璧と言われる大慶直胤には門人十六名、細川正義には門人三十三名がおり、弟子および孫弟子を加えると総勢百二十~百三十名の刀工がいます。

正秀門人の中には刀工のみでなく、身分の高い武士もいます。単なる門人として名を連ねているだけでなく、実際に数多くの刀剣類を製作しています。例えば、

・井伊直中=彦根藩十三代当主 直弼の前藩主
・彦坂紹芳=旗本一二〇〇石
・沼田有宗=直宗同人。熊本藩士 六〇〇〇石
・松村昌直=熊本藩士 三〇〇石
・榊原長良=旗本一六〇〇石

などがおります。

以上のように、新々刀期に大きな影響を及ぼした正秀は、祖と仰がれているのです。

◎新々刀はいつからいつまでを指すのか。その間の作風の変遷について

新々刀期の時代区分ですが、正秀は明和八年(一七七一)二十二歳の時に、短い期間でしたが武州八王子に出て下原鍛冶の後裔宮川吉英について修業を積んでいます。一般的にはその翌年の安永元年(一七七二)から新々刀期とし、明治九年(一八七六)の廃刀令までの一〇四年間を指しています。

その間の作風の変遷についてですが、大きく次の四期に分けることができます。

①新々刀最初期=安永元年~天明四、五年の一三~一四年間。

②濤瀾刃の時代=天明四、五年~文化八、九年の二七~二八年間。

③復古刀の時代=文化四、五年~嘉永五、六年の四五~四六年間。

④勤王刀の時代=安政元年~明治三年の一五~一六年間。

ただし、明確に分けられるものではなく、当然、両期にまたがっている作風もあります。あくまでも目安と考えてください。

次に、おのおのの時代の特徴について述べることにしましょう。

①の時代は新刀期の流れを汲んでいる刀工たちで、それぞれの作刀期間が安永以降に及んでいるところから、新々刀に扱われています。濤瀾刃の時代の時代に入ってからも彼らの作風は変わることなく、従来通りです。

伯耆守正幸や大和守元平は薩摩刀独特のの粗い相伝を焼き、刃中に金筋砂流しなどを盛んに交えた作風です。六代忠吉は肥前刀独特の直刃を焼き、浜部寿格は匂出来の拳形丁子乱れを焼き、それぞれに独自の作風となっています。

安永六年(一七七七)当代の目利き鎌田魚妙が『新刀辨疑』を著し、その中で助広の濤瀾刃を「旭瀾」と号して絶賛しました。その後も再版の都度、濤瀾刃を絶賛していますが、作刀界においてすぐに開花することはなく、五、六年を経て天明四、五年ごろ、ようやく濤瀾刃の時代に入ってきました。

②の濤瀾刃の時代は、特に寛政~享和年間(約一五年間)が盛行期で有、文化の半ばごろから時代に減少し、文化十一年ごろを下限に全く見られないようになります。

濤瀾刃の盛行期には水心子正秀・尾崎助隆・手柄山正繁が活躍し、後期には市毛徳隣・天竜子正隆・加藤鋼英、それに正秀の弟子の直胤や正義の最初期作もわずかに見られます。

新々刀期の濤瀾刃では、助広に近い刃文は助隆・鋼英に見られますが、他の刀工は大互の目乱れや濤瀾刃風といった感じで、おのおの特徴ある刃文です。

そもそも濤瀾刃とは、大互の目の片方の傾斜が緩やかで、片側が急峻となる形状の刃文を言い、それがいかにも波濤を思わせ荒波がうねる様に似ているところからこの名がついており、助広が創始したものであります。

今回は各刀工の相違点について、刃文のみに触れてみましょう。

新々刀の中で助広に近い刃文を焼いているのが、前述のように助隆と鋼英です。

助隆・・・小沸出来で匂口深く、乱れの谷が角張る特徴があり、全体に間延びした感じになります。

鋼英・・・匂口が締まり心に小沸の着いた濤瀾刃で、谷の底がやはり角張り、匂口の締まった硬く見える飛焼が見られます。

大互の目乱れが濤瀾刃風になるのが正秀・正繁・徳隣などです。

正秀・・・濤瀾刃に大小の差が目立って揃わず、横手下辺りに黒い粗めの沸が刃中より地にこぼれてムラに現れる特徴があります。元の焼き出しが直調でかつ長いのも、大きな見どころです。また正秀には一竿子忠綱に似た感じの濤瀾刃もあります。

正繁・・・互の目に大互の目が交じり匂足が力強く入り、焼頭や谷にで尖ったような尖り刃が交じります。また角張った刃なども交じり、刃中に砂流し入り、総体にややいかつい感じがする刃文で、匂が深く沸がよくつき匂口は明るく冴えています。

徳隣・・・大互の目乱れを一つ二つ三つと一定のリズムで焼いています。沸はムラなく均一によくつき、匂口は最も明るく冴えています。

〈参考文献〉『國學院刀剣』第三号、『江戸の日本刀』『水心子正秀とその一門』『刃文と銘字(新々刀編)』『刀剣美術』ほか

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