左文字の名刀を初期から大成期まで一望できる貴重な体験

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アーカイブ ※この記事は2019年3月15日に発行されたものです。

JR両国駅を降り、寒風にはためく国技館の力士幟を右手に見ながら歩いていくこと数分。大名公園の畔に刀剣博物館。

左文字の特別展が開催されていると聞いて観覧した。今回は平日十一時ということもあろうか、私を入れて十名ほどの来場者であった。週末は大勢の方々でにぎわっているらしい。ほぼ数名、しかも見たことのあるような顔、いずれも男性という移転前からすると隔世の感がある。

さて、入り口の挨拶文を一読して進むと、江雪左文字の名刀が出迎えてくれた。力感みなぎる姿で、精良で詰み澄んだ地鉄、刃紋は抜群の照度を誇っている。拵にも桃山時代の雰囲気が充満している!感動で胸がいっぱいになり「あー、もうこれで帰ろうかな」とつい思ってしまったが、気を取り直し、第一章「筑前鍛冶の先達」へと進む。良西・入西・西蓮・実阿……『日本刀大鑑』などの図鑑で見るような貴重な作例が並んでいる!うれしくなった。

第二章は「左文字の名刀」。左文字の在銘の遺作の多くは短刀である。「左」「筑前住左」と在銘の名品を初期から大成期まで一望できるというのはすごく貴重な体験。「また左文字か……」。贅沢な感想!

第三章は「左文字の門流」。安吉・行弘・国弘・吉貞……。いずれ劣らぬ名品。左文字の作風を継承し、新たな展開を遂げた弟子たちの生きた証である。

特に面白かったのは、物部吉貞の太刀。物部氏といえば、古代武器武具を担い、石上神社の七支刀とも有縁。蘇我氏と争った、あの大豪族である。で、左一門の吉貞も物部、である。

○○部が地名として残る例もあり、古代豪族の足跡をたどることができると、恩師の一人・黛弘道先生(学習院大学教授・古代史)は述べていた。

刀工の長谷部国重・国信は雄略天皇の実名の長谷部(ハツセベ)に何か関係があるのだろうか……と常々考えてはいたが、この左吉貞と物部の問題もとても面白い。展示キャプションには「更なる検討が必要である」とあったが、研究の糸口はあるのか。

物部吉貞は京都国立博物館の寄託品らしい。ならば新進気鋭の、あの研究者先生(第四世代とか称しておられたか?)のご意見を伺ってみたいものだと思った。

古剣書で注目されたのは『正銘尽(能阿弥本)』(文明十五年奥書・刀剣博物館蔵)の正宗と左文字の記事。左文字は技量抜群、それ故、師正宗に讒訴され、揚げ句の果てに鎌倉を追放されたとの異説。今で言うパワハラである。滑稽な説だが、左文字を相州伝屈指の名工として位置づけるべく、室町時代の刀剣人が知恵を絞った痕跡を物語るものと言えよう。

展示品には在銘、年紀作も多々あった。貴重な銘字……しかし、暗くてよく見えなかった。年紀のある作については裏年紀を写真で示していたが、表の銘字や押形も写真で示せば、もっと楽しめたのではないだろうか。

ところで、今回、筆者の関心は、左文字以外に、実はもう一つあった。談議所西蓮である。重要刀剣等図譜では「(西蓮は)銘文から推して博多談議所に仕えた刀工と考えられるこの談議所とは鎮西談議所のこととみられる」とし、『光山押形』の「筑前国博多談議所国吉法師西蓮/文保元年二月」の太刀を引いている。しかし年紀の当時、実は鎮西談議所は存在しない。その一方で、談議所(談義所)を仏教の法論・講義を行った寺などの施設とする論考があり、なるほど、良西・入西・西蓮・実阿の工銘は西方浄土との関わりを感じさせる。

「談議所西蓮」、蒙古の再々襲来に備えて鎮西に詰める武士のために鎚を振るったわけだが、その身分や実態はどのようなものだったのか。そもそも談議所とは何か……。実に難問だな、と思っていた。が、展示キャプションを読む限りではよくわからなかった。

この難問に向き合った論考が図録中にあった。福岡市博物館学芸課主査の堀本一繁氏の論考「左文字鍛冶発祥の歴史的背景」である。左文字以前の博多の政治的・軍事的な状況、都市としての博多、鎮西談議所の問題を細々記し、西蓮や実阿、左文字らと博多時衆との関わりについて述べ、左は「左阿弥陀仏」「左阿」の略ではないかとする仮説を提唱している。

とても面白いと思った。

これで「左阿」とした作例や文献がもしあれば言うことはないのだが、果たして出てくるだろうか。

堀本論考に刺激された研究者、殊に福岡の方が地元ならではの資料に基づいて、さらに説得力のある論考を発表する可能性もある。楽しみである。

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