刀銘:圓龍齋立花圀秀鍛之 嘉永六丑歳八月宮和田平光胤為子孫設之 刃長:二尺八寸 反り:七分

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アーカイブ ※この記事は2016年3月15日に発行されたものです。

幕末期、幕府は諸外国の圧力から鎖国政策に行き詰まり、動乱期を迎えます。

幕府の権威が弱体化した嘉永六年(一八五三)四月ごろ、土佐から江戸へ坂本龍馬が剣術の修行にやってきます。その二カ月後、ペリー率いる黒船の艦隊が浦賀に来航。土佐藩の砲台に臨時兵として召集され、そこで黒船を実際に見た竜馬の人生の歯車は加速していきます。

翌嘉永七年六月、土佐に帰国する際、龍馬は円龍子国秀に製作依頼していた刀を受け取っています。二尺六寸六分と長寸で「相州鎌倉住国秀作嘉永七年八月日」と銘があり、現在、高知県立歴史民俗資料館に寄託されている刀です。

龍馬が剣術の修行に通っていた千葉周作とその弟定吉の道場は、門下生三千人とも言われており、その高弟の中には上州安中藩士もいました。

円龍子国秀も一時期、安中藩の御抱工であったことから、千葉道場と刀工国秀の間に何らかの関係がうかがえ、龍馬が作刀を依頼した縁に結ばれるのではないかと想像しています。

ここに挙げた嘉永六年紀の円龍子国秀の刀は、まさにペリーが来航した時期で、龍馬が江戸に滞在していたときに製作されたものです。円龍子の「子」を「斎」とした珍しい銘で、師である一貫斎義弘の一字を使用しているところから、よほどの注文であったことがうかがえます。

この刀の願主の宮和田光胤は茨城県宮和田村(現取手市)の、代々名主や本陣を務めた家の当主で、古くは桓武平氏から分かれた千葉氏の血筋を引いています。

光胤も干葉周作の道場に通い、北辰一刀流の免許皆伝を受けた剣客です。下総浪人組(新選組の前身)結成の際も活躍しています。

千葉周作も、文字通り千葉氏の子孫で、同じ桓武平氏の血筋を引くことから千葉道場に入門したのではないでしょうか。また光胤は、平田派国学(復古神道)を究め、生涯その思想を変えておらず、勤王家で水戸学(勤皇の儒学)の信奉者でもありました。

長男の胤影が尊皇攘夷運動のために上京することを許し、息子たちの国事運動を支援しています。この胤影は京都・等持院の足利幕府三代の将軍(尊氏・義詮・義満)の木像の首と位牌を、賀茂川の河原に晒したために捕らわれた一人です(足利氏木像梟首事件)。この事件に関わった者は皆、平田派国学の門人でした。

次男の宮和田進は大村益次郎(日本陸軍の創設者)を暗殺した一人で、その際に負傷し逃亡を途中で断念し、同志に頼んで首を刎ねてもらいます。

息子たちの行動には、父光胤の強い影響があったものでしょう。

龍馬が国秀に作刀を依頼したころ、宮和田光胤の二尺八寸の佩刀は既に仕上がっています。同じ千葉一門であることから両人は面識があり、光胤の刀を見て龍馬が国秀に「是非に」と注文した可能性も拭えません。

宮和田光胤は文化十三年(一八一六)に誕生し、明冶二十一年(一八八八)三月に亡くなります。本年はその生誕二百年に当たります。龍馬と光胤の長刀がこのように現存することで、近代日本が誕生する原動力となった個々の強い精神があったことを、あらためて思い描くことができます。

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