刀剣博物館の母体である「日本美術刀剣保存協会」は、1948年(昭和23年)本間順治氏、佐藤貫一氏を中心として設立。協会設立の背景として、戦国時代までは武器として使用されてきた日本刀が徐々に武器としての側面がなくなっていったことや、1876年(明治9年)に明治新政府が発した「廃刀令」、太平洋戦争後にGHQ(連合国軍総司令部)が行なった「昭和の刀狩り」によって、「日本刀文化」が危機的な状況に陥ったことがあります。このような経緯を受けて日本美術刀剣保存協会は設立されたのです。
刀剣博物館は、日本美術刀剣保存協会の目的のひとつである、美術工芸品として価値のある刀剣類の保存、公開、及び日本刀文化の普及と保護を達成するための施設。両国の大名庭園である、旧安田庭園の一角で新たに開館した新博物館では、美術工芸品としての日本刀を紹介するだけに留まらず、大名屋敷の庭園と共に、日本古来の武家文化を広く発信していくことを目指しています。
日本刀の専門博物館である刀剣博物館では、数多くの日本刀を収蔵・展示しています。その中に3振りの国宝の「太刀」があります。1振目の「太刀 :銘延吉」の作者「延吉」(のぶよし)は、平安時代に大和国で興った「千手院派」(せんじゅいんは)の流れを汲む刀工です。千手院派の刀工は、東大寺に隷属して僧兵たちの日本刀を作っていました。大和国の刀工は千手院派を含め「手掻派」(てがいは)、「当麻派」(たいまは)、「保昌派」(ほしょうは)、「尻懸派」(しっかけは)が「大和五派」と呼ばれていましたが、千手院派は五派の中で最古の流派です。
2振目の「太刀:銘国行」(当麻)の作者「国行」は、大和国の刀工集団当麻派の始祖と言われている刀工。当麻派も、東大寺に隷属していた千手院派と同様に、当麻寺に隷属して僧兵たちの日本刀を作っていました。当麻派の作風の特徴として、細かく鍛えられた「地鉄」(じがね)と刃文が真っすぐで穏やかな点が挙げられますが、この太刀にも当麻派の特徴がよく現れています。また、国行作の日本刀で「銘」が入っている物は少なく、その点においても、希少性が高い1振りです。
3振目の「太刀:銘国行」(来)の作者「国行」は、山城国の刀工集団「来派」の実質的な祖。この太刀は、越前国の松平家の分家である「明石松平家」伝来であることから「明石国行」とも呼ばれています。来派の特徴、刀身の真ん中で反っている形状(輪反り)が見て取れるこの太刀は、国行の作品の中では唯一、国宝に指定されている作です。