1950年(昭和25年)に旧庄内藩主・酒井氏から土地、建物、文化財などが寄付され、「財団法人以文会」が設立されました。1952年(昭和27年)には博物館法の成立により、「財団法人以文会立致道博物館」に改称。その後、1957年(昭和32年)に「財団法人致道博物館」となり、2012年(平成24年)には、公益法人改革により、公益財団法人に移行したことで「公益財団法人致道博物館」となり、現在に至っています。
設立の目的は、地域文化の向上発展に資すること。1956年(昭和31年)に収集した民俗資料を展示する「民具の蔵」を開設したのを皮切りに、翌年1957年(昭和32年)には明治期の「旧鶴岡警察署庁舎」、1965年(昭和40年)には江戸時代の「田麦俣多層民家旧渋谷家住宅」、さらに1972年(昭和47年)には明治期の「旧西田川郡役所」を敷地内に移築、保存公開しています。建物内では歴史民俗資料を常設展示。江戸、明治期の暮らしを肌で感じられる工夫が施されているのです。
致道博物館がある庄内地方は、庄内平野を中心とした山形県の日本海沿岸地域で、その中心は鶴岡市と酒田市。この庄内地方は、「日本刀文化」と切っても切れない縁で結ばれています。太平洋戦争後、GHQ(連合国軍総司令部)が国内の刀剣類を没収・廃棄しようとした際に救済を主張し、その保護に力を尽くしたのが、酒田市出身の本間順治氏と、鶴岡市生まれの佐藤貫一氏でした。
2人は米陸軍第8軍の憲兵司令長官・キャドウェル大佐と交渉し、日本刀は単なる武器ではなく、美術品としての価値が非常に高いことを主張。GHQにこれを認めさせ、接収された刀剣類の一部について審査のうえで、もとの所有者への返還を許可させるなど、当初の廃棄方針を撤回させました。
日本刀文化を存続の危機から救った2人のふるさとに設けられた致道博物館には、国宝に指定されている2振の日本刀が収蔵されています。「太刀:銘真光」と「太刀:銘信房作」です。鎌倉時代の「長船長光」の門下生であると言われている「真光」によって作られた太刀は、「長篠の戦い」などにおける酒井忠次の武功に対して織田信長から贈られたとされています。また古備前の刀工「信房」によって作られた太刀は、徳川家康が「小牧・長久手の戦い」における酒井忠次の武功を称えて授けた物です。