東海・北陸地方

菰野藩(こものはん)

土方家

土方家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
1.2万石 伊勢国
(三重県)
菰野陣屋 土方家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 土方家

土方雄氏
土方雄高
土方雄豊
土方豊義
土方雄房
土方雄端
土方雄年
土方雄貞
土方義苗
土方雄興
土方雄嘉
土方雄永
土方雄志

1.2万石 外様

徳川家康暗殺事件の容疑をかけられながら存続した土方家

徳川家康暗殺事件の容疑をかけられながら存続した土方家

「菰野藩」(こものはん)は、現在の三重県三重郡菰野町を中心として1万2,000石を知行した藩です。

初代藩主は「土方雄氏」(ひじかたかつうじ)。「豊臣秀吉」に仕えて伊勢国に3,000石を与えられると、1596年(慶長元年)には1万石の大名として諸侯に列することとなります。

しかし秀吉の死後、雄氏の父「土方雄久」(ひじかたかつひさ)が「家康暗殺事件」の容疑をかけられると、これに連座して雄氏も領知没収の上で常陸国に追放され、「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)預かりの身となりました。

なおこの一件は、豊臣一派の弱体化を狙う「徳川家康」と、その軍師である「本多正信」(ほんだまさのぶ)がでっち上げた事件だったと言われています。

しかし「関ヶ原の戦い」の直前になって雄氏は許され、伊勢国から近江国にまたがり所領を与えられると、菰野に陣屋を構えて、これが菰野藩の始まりとなりました。

以降、雄氏は家康に従い、関ヶ原の戦いにおいて東軍に従軍し、1614年(慶長19年)からの「大坂冬の陣・夏の陣」でも徳川方の先陣を務めて武功を挙げています。

雄氏の隠居に伴って家督を相続し、2代藩主となった雄氏長男の「雄高」(かつたか)は、城下町を整備すると、商工業者を集めて産業振興に努めると共に、菰野藩諸法を制定するなど藩政の基礎を築きました。

しかし、以降の藩主が放漫な藩政を続けたために財政は逼迫。7歳にして家督を継いだ7代藩主「雄年」(かつなが)の頃には、藩主が幼いのを良いことに家老や重臣らによる悪政が加速しますが、成長した雄年はそうした状況を打破するために家臣らを追放し、綱紀粛正(こうきしゅくせい:態度を正すこと)を図ります。

さらには実子を廃嫡すると、当時幕府で権勢をふるっていた老中「田沼意次」(たぬまおきつぐ)の6男を養子の「雄貞」(たつさだ)として迎えており、これに藩政を継がせることで幕府との関係を強化して財政援助を得ようとしました。

しかし、結果的にはこのことによって幕府に対する出費はさらに増えてしまい、財政はさらに悪化することとなります。雄貞に家督を譲って以降は、隠居の身となっていた雄年ですが、雄貞が早世すると雄年の甥でまだ幼少だった「義苗」(よしたね)に跡目を継がせて、実際の藩政は雄年自身が握りました。

しかし雄年は、綱紀粛正を図った藩主時代とは異なり、趣味の相撲興行を行なうなど派手な生活を送っていて、結局藩の借金を膨らませることになってしまいます。

雄年の死後に実権を握った義苗は、質素倹約に励み産業振興を図ると共に「臨時準備積立法」を制定。年間225俵の米を1割2分の利息付きで13年間に亘って積み立てることで、1,500両の金利収入を得ています。

これらによって義苗は、雄年の作った9,800両の借金を1,400両にまで削減。このことから義苗は「菰野藩中興の名君」と呼ばれています。

そうした尽力もあって菰野藩では、明治維新まで一度たりとも一揆がなく、また土方家は外様としては珍しく、一度も移封されることなく13代、270年以上に亘ってこの地を治め続けたのです。

相良藩(さがらはん)

田沼家

田沼家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
1万石 遠江国
(静岡県)
相良陣屋 田沼家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 本多家

本多忠晴
本多忠通
本多忠如

1.5万石 譜代
2. 板倉家

板倉勝清

2万石 譜代
3. 本多家

本多忠央

1万石 譜代
4. 田沼家

田沼意次
田沼意明

1万石 譜代
5. 天領 該当なし - -
6. 田沼家

田沼意正
田沼意留
田沼意尊

1万石 譜代

田沼意次を生み出した藩

田沼意次を生み出した藩

「相良藩」(さがらはん)は、江戸中期以降になって、遠江国榛原郡相良(現在の静岡県牧之原市)に置かれた譜代藩です。

相良はかつて、「徳川家康」(とくがわいえやす)が、趣味の鷹狩のため「相良御殿」を造営した地。

江戸前期には、「天領」(てんりょう:江戸幕府の直轄地)や「掛川藩領」とされましたが、1710年(宝永7年)に、「本多忠晴」(ほんだただはる)が1万5,000石で入封したことにより、独立した形で立藩されました。

本多忠勝

本多忠勝

忠晴は、「徳川四天王」として知られる「本多忠勝」(ほんだただかつ)を祖とする平八郎家から派生した陸奥本多家「忠以」(ただもち)の系列にあたる良血で、文武両道の名君であったと伝えられています。

相良御殿跡地に藩庁を置き、1758年(宝暦8年)には、「田沼意次」(たぬまおきつぐ)が1万石で入封。意次の父「意行」(おきゆき/もとゆき)は、紀州の足軽から旗本にまでなった人物で、徳川吉宗の8代将軍就任に伴って江戸に入り、息子の意次も9代将軍「家重」(いえしげ)の小姓に抜擢されました。

意次は、言語不明瞭だった家重の言葉を聞き分けられるよう腐心したことで、信頼を厚くします。度々の加増を受けて、ついには大名にまで出世。家重の死後も、10代将軍「家治」(いえはる)からの重用を受け、天守閣を築く許可を得て「相良城主」となると共に、度重なる加増により5万7,000石の大名にまで出世しました。

そうして老中にまで取り立てられた意次は、贈収賄が横行する「金権政治」と批判されることも多いですが、それまでの「重農主義」から「重商主義」への転換や、「長崎貿易の制限の緩和」などによる幕府財政の立て直しの功績も大きく、「田沼時代」と呼ばれるほどの権勢を握ったのです。

相良藩政においても、「年貢増徴を戒める」との家訓に従ったことで、領内農民からは年貢が軽いと喜ばれました。

また、東海道藤枝宿から相良に至るまでの街道を整備。これはのちに、「田沼街道」と呼ばれます。さらには、養蚕や製塩などの殖産にも励み、藩の財政を安定させたのです。

しかし、「明和の大火」や「浅間山の大噴火」、「天明の飢饉」などが相次ぐと、幕府の財政悪化と共に、意次の評判も低下。最大の庇護者であった家治の死後は、老中「松平定信」(まつだいらさだのぶ)の粛清に遭い、失脚して、強制的に隠居処分となってしまいます。

さらには、意次の家督を継いだ孫の「田沼意明」(たぬまおきあき)も、陸奥下村藩へ移封され、相良藩は廃藩。天領とされました。

それでも松平定信の死後、1823年(文政6年)には、老中「水野忠成」(みずのただあきら)の推挙と「徳川家斉」(とくがわいえなり)の尽力により、意次の4男「意正」(おきまさ)が、相良に1万石で復帰を許されます。

これにより、1868年(明治元年)に、新政府によって廃藩とされるまで、田沼家による治政が続いたのです。

大聖寺藩(だいしょうじはん)

松平[前田]家

松平[前田]家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
10万石 加賀国
(石川県)
大聖寺陣屋 松平[前田]家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 松平[前田]家

前田利治
前田利明
前田利直
前田利章
前田利道
前田利精
前田利物
前田利考
前田利之
前田利極
前田利平
前田利義
前田利行
前田利鬯

10万石 外様

九谷焼を創出した、加賀の支藩

九谷焼を創出した、加賀の支藩

加賀国江沼郡大聖寺地方を領有した藩。

戦国時代から安土桃山時代にかけては、「豊臣秀吉」に仕え、「小早川秀秋」の家臣から独立大名となった「山口正弘[宗永]」(やまぐちまさひろ[むねなが])が領しましたが、「関ヶ原の戦い」で西軍に与すると、居城の「大聖寺城」(だいしょうじじょう)は、加賀藩「前田利長」の攻撃を受けて陥落。

宗永は自害して、以後大聖寺は加賀藩の帰属となりました。なお一国一城の令により、このとき大聖寺城は取り壊されています。

そののち、1639年(寛永16年)になって加賀3代藩主「前田利常」(まえだとしつね)が隠居する際、3男の利治に7万石を分封する形で大聖寺藩が成立します。

利治は、鉱山の開発に注力し、領内に金山や銀山、銅山を発見すると共に、この際に藩領の久谷村で良質の陶土が見つかると、藩士「後藤才次郎」(ごとうさいじろう)を有田焼で名高い佐賀の有田村へ技能習得のために派遣。これがのちの九谷焼の生産につながっていきました。

明治期になると、九谷焼は主要な輸出品目とされ、磁器の制作技術がなかったヨーロッパでは「白い金」と呼ばれて黄金を超える価値を誇ったと言われています。1979年(昭和54年)には、この一帯が「九谷磁器窯跡」として国の史跡に指定され、現在は利治と後藤の顕彰碑が建てられています。

徳川綱吉

徳川綱吉

3代藩主「前田利直」(まえだとしなお)は、家督を継ぐ以前から5代将軍「徳川綱吉」の寵愛を受け、外様でありながら奥詰となり、譜代と同格の待遇を得ました。

藩主となってからも、綱吉の側近ということで江戸定府(参勤交代を行なわず、江戸に定住する将軍や藩主及びそれに仕える者のこと)となり、「生類憐みの令」の際には、江戸郊外(現在の大久保、中野一帯)16万坪に犬小屋290棟、子犬の養育所459ヵ所、犬の日除け場295棟を造る幕命を受けたのです。

この膨大な経費の捻出に、藩邸の消失という事故も重なって、財政は窮乏。藩主不在の領内では、利直の重用する若手家臣の「村井主殿」(むらいとのも)と先代からの老臣である「神谷守政」との対立が激化しました。

これが修復不可能な状態にまで至ると、宗藩(そうはん:宗主的立場にある藩)である加賀藩の裁定を仰ぐこととなり、結果、村井は公金使い込みの咎により切腹処分に。神谷守政も、その悪政により宗藩に送還されています。

1709年(宝永6年)には、利直の弟で、大聖寺藩から1万石を分封され新田藩主となっていた「前田利昌」(通称・采女利昌)が、「寛永寺」で行なわれた綱吉の法会において、大和柳本藩主「織田秀親」(おだひでちか)を刺殺する事件を起こしました。

法会の席で、前田利昌が織田秀親と共に、朝廷からの使者への御馳走役に任じられた際に、秀親から多数の失礼な言動で恥辱を与えられたことが原因だと言われています。

その結果、利昌は切腹。新田藩は廃藩となり、一時天領とされたのち、大聖寺に戻されることとなりました。

田中藩(たなかはん)

本多家

本多家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
4万石 駿河国
(静岡県)
田中城 本多家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 酒井[雅楽頭]家

酒井忠利

1万石 譜代
2. 松平[桜井]家

松平忠重

2.5万石 譜代
3. 水野家

水野忠善

4.5万石 譜代
4. 松平[藤井]家

松平忠晴

2.5万石 譜代
5. 北条家

北条氏重

2.5万石 外様
6. 西尾家

西尾忠昭
西尾忠成

2.5万石 譜代
7. 酒井[雅楽頭]家

酒井忠能

4万石 譜代
8. 土屋家

土屋政直

4.5万石 譜代
9. 太田家

太田資直
太田資晴

5万石 譜代
10. 内藤家

内藤弌信

5万石 譜代
11. 土岐家

土岐頼殷
土岐頼稔

3.5万石 譜代
12. 本多家

本多正矩
本多正珍
本多正供
本多正温
本多正意
本多正寛
本多正訥

4万石 譜代

徳川家康を、死に至らしめた藩!?

徳川家康を、死に至らしめた藩!?

湿地を利用して、同心円状四重の堀(円郭式城郭)を配した、全国的にも珍しい形状を特徴とする「田中城」。

元々は、1537年(天文6年)、「今川家」が築き、当初は「徳之一色城」(とくのいっしきじょう)と呼ばれていました。

1570年(永禄13年)に、「武田信玄」が駿河へ侵攻し攻略。改修し「田中城」と改名したことからはじまります。そののち、1582年(天正10年)に織田信長により武田一族が滅亡。徳川家康が田中城を攻略し、以降、徳川家の城となったのです。

1601年(慶長6年)に、「酒井忠利」(さかいただとし)が現在静岡県藤枝市を中心とする「田中藩」(たなかはん)の藩主として、田中城に入り立藩。藤枝宿を城下町に組み込むなどして、藩政の確立に取り組みました。

忠利が武蔵国川越へ移封となってから、度々、藩主家が入れ替わりましたが、1730年(享保15年)に、「本多正矩」(ほんだまさのり)が「沼田藩」(ぬまたはん:現在の群馬県)からの領地替えで入封すると、明治維新まで7代139年にわたって、本多家が同地を治めたのです。

東海道の要衝で、その守りを任されただけあって、歴代藩主のほとんどは幕閣入りを果たします。田中藩主になることは、幕政参加への登竜門のひとつであったと言うことができるのです。

史跡田中城下屋敷(本丸櫓)

史跡田中城下屋敷(本丸櫓)

本多家の時代に開設された藩校「日知館」(にっちかん)は、水戸藩の「弘道館」(こうどうかん)と共に「武道の二関」と呼ばれ、兵学、弓術、剣術、馬術、砲術、槍術、柔術などを教える武術の総本山として知られました。

また「徳川家康が倒れた場所」としても知られているのです。鷹狩りを趣味とする家康は、周囲を湿地に囲まれて水鳥が多く飛来した田中城をたびたび訪問。

1616年(元和2年)1月21日、記録に残る中では8度目の訪問となったときのこと、家康は田中藩の用意した好物の「鯛の天ぷら」を食べました。真偽は不明ですが、このとき珍しい食し方を教わり、そのおいしさから「大鯛2枚」、「甘鯛3枚」を平らげたとの記録があります。

しかしその夜に、激しい腹痛に襲われた家康は、それからおよそ3ヵ月の間病床に伏し、同年4月17日、駿府城において没しました。

こうした経緯から「家康は鯛の天ぷらにあたって死んだ」と巷間で伝えられてきましたが、食中毒であれば死去までの時間がかかり過ぎています。そのため近年の研究によると、鯛の天ぷらはあくまでもきっかけに過ぎず、当時の家康はすでに末期の胃ガンであったというのが定説となりつつあるのです。

なお田中藩は、飛び地として現在の千葉県柏市の北部を領有していた時期があり、戦前には田中藩の名前に由来する「田中村」が存在しました。

現在の「柏たなか駅」や「柏市立田中中学校」にその名残をみることができます。これは人々が「本多氏」の善政を惜しんで、その名を残したためだとも言われているのです。

津藩(つはん)

藤堂家

藤堂家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
27.1万石 伊勢国
(三重県)
安濃津城 藤堂家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 富田家

富田信高

7万石 外様
2. 藤堂家

藤堂高虎
藤堂高次
藤堂高久
藤堂高睦
藤堂高敏
藤堂高治
藤堂高朗
藤堂高悠
藤堂高嶷
藤堂高兌
藤堂高猷
藤堂高潔

27.1万石 外様

後世まで残る「裏切り」の汚名を受ける藩

後世まで残る「裏切り」の汚名を受ける藩

「津藩」は、伊勢国安濃郡安濃津(いせのくにあのうぐんあのうつ/あのつ:現在の三重県津市)に置かれた藩です。

伊勢国は、鎌倉時代から「藤原南家」(ふじわらなんけ)の一族である「長野工藤氏」(ながのくどうし)の支配下にありました。しかし、戦国時代になると、南北朝時代に南朝の忠臣であった「北畠氏」(きたばたけし)の末裔「北畠具教」(きたばたけとものり)が、勢力を伸ばすようになったのです。

1567~1568年(永禄10~11年)前後より進められた「織田信長」の伊勢侵攻に際しては、北畠、及び長野工藤の両氏で対抗しましたが敗北。そして、信長の弟「信包」(のぶかね)が長野工藤家の養子に入る形で、伊勢安濃津の地を治めることとなりました。

そののち、信包が秀吉の命により近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)へ移ると、秀吉側近の「富田知信」(とみたとものぶ)が5万石で「津城」(別名:安濃津城)へ入城。その死後に家督を継いだ知信の息子「信高」(のぶたか)は、「徳川家康」に接近を図り、「関ヶ原の戦い」では東軍に与しました。しかし、西軍の攻撃に屈した信高は津城を明け渡し、剃髪して高野山(こうやさん)へ逃れています。

関ヶ原の戦いのあと、信高は家康によって藩主への復帰を果たしました。そして1608年(慶長13年)、伊予「宇和島藩」(うわじまはん:現在の愛媛県宇和島市)へ移封となっています。

藤堂高虎

藤堂高虎

信高と入れ替わりに、伊予「今治藩」(いまばりはん:現在の愛媛県今治市)藩主だった「藤堂高虎」(とうどうたかとら)が、伊賀(いが:現在の三重県西部)1国10万石と伊勢国安濃郡・一志郡(いちしぐん:現在の津市)2郡の10万石、そして「今治城」(いまばりじょう)周辺にあった越智郡(おちぐん)2万石を飛び地とした、計22万石で入封。

これ以降津藩では、1871年(明治4年)の廃藩置県(はいはんちけん)まで、藤堂家による治政が行なわれたのです。

高虎は、「浅井長政」(あざいながまさ)の足軽から始まって、仕官先を転々としながら秀吉、家康らからの信任を得て、大名までに上り詰めた才人。一時期出家して高野山に入ったものの、その有能さを惜しんだ秀吉が還俗(げんぞく:1度出家して僧侶になった者が、再び俗人に戻ること)させたほどでした。

10代藩主の「高兌」(たかさわ)は名君の誉れ高く、藩政刷新の範を提示。86万両に上る藩債を処理するために倹約生活を励行し、自身も率先して木綿を着用するなど全般的な生活費を削減。

その一方で、90歳以上になる高齢者への養老米の給付や善行者への表彰、孤児や独居老人の救済、子だくさんな生活困窮家庭への養育費補助などの施策を次々に実施。この仁愛主義に溢れた善政により領民からは大いに慕われ、高兌が病に伏した際には、多くの人々がその回復を寺社仏閣に祈願したと伝えられています。

津藩主14人中4人が、分家であり同藩の支藩であった「久居藩」(ひさいはん:現在の三重県旧・久居市、合併により津市)で藩主の経験を積んでから津藩主になっていました。これは分家を使った、津藩独自の「人材育成システム」とも言えるのです。

津城跡

津城跡

1868年(慶応4年/明治元年)の「鳥羽・伏見の戦い」で当初津藩は、「薩摩(さつま:現在の鹿児島県鹿児島市)、長州(ちょうしゅう:現在の山口県萩市)と会津(あいづ:現在の福島県会津若松市)、桑名(くわな:三重県桑名市)の私闘にはかかわらない」と中立の姿勢を取り、淀川(よどがわ)の台場の守備に就いていました。

川を挟んで同じく台場を守る旧幕府軍は、津藩を味方と考えていましたが、旧幕府軍攻撃の勅命が下ると、津藩はいっせいに砲撃を開始。これにより旧幕府軍は総崩れとなり、勝敗が決定したのです。

旧幕府軍の将兵達は、何度も主君を替えながら戦国時代を渡り歩いた藩祖・藤堂高虎を引き合いに出して、「藩祖の薫陶(くんとう:品格や人徳の力で人を感化し、立派な人間になるように導くこと)著しい」、「裏切り上手」、「藤堂の犬侍」などと、津藩のことを皮肉っています。そしてこの裏切り行為は、津藩の汚名として、後世にまで語り継がれることになりました。

日本刀(刀剣)に秘められた幾多の魅力を皆様にお届けするサイト、バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」。こちらは「主な江戸100藩」内、「東海・北陸地方」の3ページ目です。
50音順に「東海・北陸地方」の主要な藩を掲載。藩主の家紋や、歴代藩主を知ることができるだけでなく、石高や、藩の歴史・逸話を見ることもできます。なかでも藩のエピソードは読み応え十分!写真や画像と合わせて解説しています。
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