九州地方

福岡藩(ふくおかはん)

黒田家

黒田家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
47.3万石 筑前国
(福岡県)
福岡城 黒田家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 黒田家

黒田長政
黒田忠之
黒田光之
黒田綱政
黒田宣政
黒田継高
黒田治行
黒田治高
黒田斉隆
黒田斉清
黒田長博
黒田長知

47.3万石 外様

数々の創作物となった黒田騒動

数々の創作物となった黒田騒動

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」の功績により、52万3,000石、筑前(ちくぜん:現在の福岡県北西部)一国を与えられ、「中津藩」(なかつはん:現在の大分県中津市)より移った「黒田長政」(くろだながまさ)を初代藩主として、「福岡藩」(ふくおかはん:現在の福岡県福岡市)が立藩となりました。

福岡藩は「黒田藩」(くろだはん)とも呼ばれ、「福島正則」(ふくしままさのり)から差し出された大盃を福岡藩士「母里友信」(もりとものぶ)が飲み干し、「天下三名槍」のひとつ「日本号」(にほんごう)を飲み獲ったという逸話を歌った「黒田節」(くろだぶし)でも有名な藩です。

2代藩主・忠之(ただゆき)のとき、「伊達騒動」、「加賀騒動」と並び、「江戸3大お家騒動」に数えられる「黒田騒動」が勃発。長男である忠之の資質を疑問視した長政が、3男・長興(ながおき)に家督を譲ることを決意し、その旨を書いた書状を忠之に送りました。

すると、忠之の後見人であった「栗山大膳/利章」(くりやまだいぜん/としあきら)が、父「栗山善助/利安」(くりやまぜんすけ/としやす)と共に、一時は長政を諌めます。しかし、長政亡きあとの1632年(寛永9年)に大膳は、忠之と疎遠になる際、幕府にそむく意志のない忠之に関して、「謀反の兆しあり」という虚偽の書状を「江戸城」へ送り付けたのです。

福岡城の「下之橋御門」

福岡城の「下之橋御門」

この事件は江戸歌舞伎でも上演され、「森鴎外」(もりおうがい)も短編小説にし、日活映画にもなっています。この栗山大膳をモデルにした舞台や映画の内容は、大膳をかばう美談に仕立てられたもの。

「黒田忠之」は臣下の意見を聞かず、新参者の「倉八十太夫」(くらはちじゅうだゆう)を重用し、禁制になっていた造船を行なうなど専横(せんおう:横暴で好き勝手に振舞うこと)を尽くしたため、福岡藩そのものが幕府から取り潰しにされる恐れがありました。そこで先代からの忠臣・栗山大膳は、自身が罪を被ることで忠之の失政を隠蔽し、黒田家を救ったのだと描かれているのです。

結果、大膳は「盛岡藩」(もりおかはん:現在の岩手県盛岡市。「南部藩」[なんぶはん]とも)へ配流となりましたが、「罪人扱いされることなく、生涯150人の扶持を与えられた」と、伝記にも残っています。

しかし、忠之の祖父・官兵衛(かんべえ)や長政の苦労を知らない温室育ちの御曹司とは言え、その子孫である忠之が横暴で無能であったとは、やはり創作の産物です。

文豪・森鴎外の著作を開けば、忠之について、「生得(しょうとく:生まれつき)聡明な人だけに、老臣等に掣肘(せいちゅう:脇から他人に干渉して、自由な行動を妨害すること)せられずに、獨力(どくりょく:自分ひとりだけの力)で國政を取り捌いて見たかった」(「栗山大膳」[「森鴎外全集第四巻(筑摩書房・1959年刊)」より])と類推が可能。事実、大膳が去ったあとは、忠之は善政を行なったとされています。

1870年(明治3年)には、「松方正義」(まつかたまさよし)が福岡藩士による太政官札偽造事件を告発。その後の明治政府による調査の結果、12代藩主であった「黒田長知」(くろだながとも)が、知藩事を解任されました。

この際、見せしめとして事件にかかわった大参事の「立花増美」(たちばなますみ)と「矢野安雄」(やのやすお)、権大参事「小河愛四郎」(おごう/おがわあいしろう)、小参事の「徳永織人」(とくながおりと)と「三隅伝八」(みすみでんぱち)の5名が実行犯として処刑。そして、10人以上が閉門や流罪などの刑を科されているのです。

また、この事件により、薩摩藩士であった松方正義は、明治政府で出世街道を進み、第4代・第6代の総理大臣を歴任しています。

1884年(明治17年)、長知の子「黒田長成」(くろだながしげ)は「華族令」(かぞくれい)により侯爵となり、華族に列しました。

府内藩(ふないはん)

松平[大給]家

松平[大給]家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
2.22万石 豊後国
(大分県)
府内城 松平[大給]家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 竹中家

竹中重利
竹中重義

2万石 外様
2. 日根野家

日根野吉明

2万石 外様
3. 松平[大給]家

松平忠昭
松平近陳
松平近禎
松平近貞
松平近形
松平近儔
松平近義
松平近訓
松平近信
松平近説

2.22万石 譜代

藩の権威と幕府の威光、続くトラブル

藩の権威と幕府の威光、続くトラブル

豊後府内(ぶんごふない:現在の大分県大分市)は、鎌倉時代より豊後国をおさめた守護大名・大友家が支配する地でした。

大友氏は、三上山の大百足(おおむかで)退治、そして「平将門」(たいらのまさかど)を討った、有名な「俵藤太」(たわらのとうた)こと、「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)の流れを汲むと言われています。

キリシタン大名としても有名な、大友家21代当主「大友義鎮(宗麟)」(おおともよししげ[そうりん])の時代には、九州6ヵ国を支配する大大名となりました。しかし、その後は勢力を拡大する島津氏に破れ、「豊臣秀吉」の庇護を頼り、豊後一国を治めるにとどまります。

義鎮の嫡男、大友家22代当主「義統」(よしむね)の代、1593年(文禄2年)の「文禄の役」にて、救援を要請した「小西行長」(こにしゆきなが)軍を見捨てたという罪で、秀吉の逆鱗に触れ、領地は没収。

その後、秀吉配下による統治を経て、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」において、西軍に与しながら最終的に東軍に寝返り、東軍勝利に貢献したと賞された「竹中重利」(たけなかしげとし)が、豊後高田1万石から、府内2万石に加増され立藩することとなります。

竹中重利は、秀吉配下で軍師を務めた「竹中半兵衛重治」(たけなかはんべえしげはる)の親族です。また、竹中半兵衛は「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と、羽柴麾下(はしばきか)の「両兵衛」として讃えられた名軍師でもありました。

府内城

府内城

「府内竹中藩」(ふないたけなかはん:現在の大分県)2代藩主「重義」(しげよし)は、ご法度であった密貿易を疑われ、1634年(寛永11年)に切腹となり、改易、断絶となっています。

その後、「日根野吉明」(ひねのよしあき)が入りますが、無嗣改易(跡継ぎがいないため家が取り潰しになること)となり、代わって、「松平忠昭」(まつだいらただあき/ただてる)が、「豊後高松藩」(ぶんごたかまつはん:現在の大分県)より入り、統治することとなりました。

「府内藩」(ふないはん:現在の大分県)5代藩主「近形」(ちかのり)の時代、父である4代藩主「近貞」(ちかさだ)の代に破綻した財政を立て直すため、倹約令を発し、産業奨励や藩札発行など、藩政改革を断行しましたが、大洪水や大地震が続き、幕府との道路問題での逼塞処分(門を閉ざして昼間の出入りを許さない、武士への刑罰のひとつ)もあり失敗しています。

「銭瓶峠」(ぜにがめとうげ)と呼ばれている鳴川の谷が、天領(幕府の直轄地)である赤松村と、府内藩田野浦村との境目にありました。

1761年(宝暦11年)、府内藩の人夫が境界の道掃除にとりかかろうとしたとき、天領側の農民が襲いかかり、道造奉行の武士4名を丸腰にして、赤松の「松音寺」(しょうおんじ)へ監禁するという事件(銭瓶石騒動)が起こります。府内藩主が参勤中だったこともあり、西国郡代(さいこくぐんだい:幕府の代官)が、この騒動を天領と私領の争いとして勘定奉行へ報告。江戸奉行へ移され大事件となりました。

道普請(みちぶしん:道づくり)に参加した庄屋、組頭や農民の他、証人として近郷の農民までもが江戸へ駆り出され調査を受けます。府内藩の農民たちは、天領・赤松側が鉄砲を撃ったことなどを訴えましたが、禁制となっている鉄砲持ち出しについて天領・赤松側が口を割るわけがなく、厳しい調査が続きました。

最終的に評定所は、天領・赤松側に非があるとし、主犯格8名は島流し、他の者も手鎖(手錠をかけられたまま30~100日を過ごす)など、厳しい刑となったのですが、被害者となるはずの府内藩側も、5代藩主・松平近形が逼塞(ひっそく:夜間、狭い門からの目立たぬ出入りのみ許される軟禁刑)、家老が御叱を受けるなどの「両成敗」となったのです。

柳河藩(やながわはん)

立花家

立花家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
10.9万石 筑後国
(福岡県)
柳川城 立花家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 田中家

田中吉政
田中忠政

32.5万石 外様
2. 立花家

立花宗茂
立花忠茂
立花鑑虎
立花鑑任
立花貞俶
立花貞則
立花鑑通
立花鑑寿
立花鑑賢
立花鑑広
立花鑑備
立花鑑寛

10.9万石 外様

筑後屈指の名門の領地であったが、最後は九州の名将が治めた藩

筑後屈指の名門の領地であったが、最後は九州の名将が治めた藩

柳河(やながわ:「柳川」とも)地域は、現在の福岡県柳川市であり、同地は鎌倉時代より戦国時代の末期まで、筑後屈指の名族とも言われた「蒲池氏」(かまちし)の治める領地でした。

戦国時代には、一時期は没落寸前であり、蒲池氏が庇護したこともある「龍造寺氏」(りゅうぞうじし:「竜造寺」とも)の「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)が勢力を拡大し、蒲池氏17代当主「蒲池鎮漣」(かまちしげなみ)が騙し討ちにされています。

しかし、1584年(天正12年)の「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)で、「島津氏」(しまづし)に敗れた龍造寺隆信が死亡。その後は、龍造寺家の家老であった「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)が「豊臣秀吉」の傘下に入り、龍造寺家の同地での支配権を継承していったのです。

「柳河藩」は、もとは蒲池氏や龍造寺氏が治めた土地でしたが、豊臣秀吉の九州征伐後は、戦功のあった名将「立花宗茂」(たちばなむねしげ)が、筑後国(ちくごのくに:現在の福岡県南西部)4郡13万2,000石を与えられました。

関ヶ原の戦い」で西軍に属したため立花家は除封され、代わりに「石田三成」(いしだみつなり)を捕えた軍功を挙げた「田中吉政」(たなかよしまさ)が32万5,000石を与えられて、筑後全域を所領。

ところが、田中氏は2代で跡継ぎが途切れ断絶。1620年(元和6年)、じつに20年ぶりに、かつて西軍に属した責を解かれた立花宗茂がこの地へ返り咲き、田中家時代の半分以下の10万9,000石ではありましたが、筑後南部を領して受け継いだのです。

田中氏時代の残りの所領は、「有馬豊氏」(ありまとようじ)が「久留米藩」(くるめはん:現在の福岡県久留米市)を、また、宗茂の甥の「種次」(たねつぐ)が1万石を与えられ、「三池藩」(みいけはん:現在の福岡県大牟田市)を立藩して三分されました。

本家となる柳河藩は明治維新後まで、立花氏が12代にわたってこの地を支配。柳河藩最後の藩主「鑑寛」(あきとも)は、家老に「立花壱岐」(いき)を登用し、「安政の改革」(あんせいのかいかく)で財政再建に尽くしたのです。

立花家は、1869年(明治2年)の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)でも軍功があり、明治政府から5,000石を与えられ、廃藩置県後も華族として続きました。

藩主の邸宅は、現在、料亭旅館「御花」(おはな)として、景観の良い庭園を見渡すレストランや宿泊施設となっています。「立花家史料館」も敷地内にあり、400年前の藩主の暮らしを彷彿とさせる文化財にふれることが可能です。

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