九州地方

島原藩(しまばらはん)

松平[深溝]家

松平[深溝]家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
6.5万石 肥前国
(佐賀県・長崎県)
島原城 松平[深溝]家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 有馬家

有馬晴信
有馬直純

4万石 外様
2. 天領 該当なし - -
3. 松倉家

松倉重政
松倉勝家

4万石 外様
4. 高力家

高力忠房
高力隆長

4万石 譜代
5. 松平[深溝]家

松平忠房
松平忠雄
松平忠俔
松平忠刻
松平忠祗

6.5万石 譜代
6. 戸田家

戸田忠盈
戸田忠寛

7.7万石 譜代
7. 松平[深溝]家

松平忠恕
松平忠馮
松平忠候
松平忠誠
松平忠精
松平忠淳
松平忠愛
松平忠和

6.5万石 譜代

領民の怒りの結晶・島原の乱

領民の怒りの結晶・島原の乱

島原藩は、肥前国の島原周辺を統治した藩であり、初期は豊臣政権と密接な関係を持った「日野江城」に藩庁が置かれていました。

戦国大名でキリシタン大名としても有名だった「有馬晴信」(ありまはるのぶ)が治めていましたが、1612年(慶長17年)、キリスト禁教令の一因ともなる「岡本大八事件」により、甲斐国に幽閉の上、切腹に処されます。そののち、嫡男「直純」が家督を継ぎましたが、1614年(慶長19年)に日向国に転封となりました。

1616年(元和2年)、有馬氏に代わり、島原に入った「松倉重政」が、手狭となった日野江城から島原に居城を移すため築城を開始し、1624年(寛永元年)に島原城が完成。

3万7,000人が蜂起した日本最大の農民一揆である「島原の乱」。その首謀者「天草四郎」の名はあまりに有名ですが、出自は定かではありません。彼はある種のカリスマ性を持ち、幕府側が城に侵入しようと掘った穴に火を投げ込んだり、年貢の取り立てを減らしたりという懐柔の手紙に対し、饅頭や果物を送り返すことで食料の余裕を示し、降伏しない意を伝えるなど、その戦略、心理的な戦いは巧妙でした。

島原城

島原城

一部では、天草四郎は「豊臣秀頼」の息子であったという説も根強くあり、天草四郎が所持していたひょうたんの馬印が、秀頼の持つ物と一致することなどがその根拠となっています。

しかし、現在では、益田姓であったことから、小西行長の家臣「益田甚兵衛」の子という説が有力です。

さらに、島原の乱では一人の内通者を除いて城内の者は皆殺しにされたと言われていますが、天草四郎は城の地下通路から海へ逃げおおせ、フィリピンで生き延びたと言われる伝説もあります。

天草四郎

天草四郎

幕府の記録には「天草四郎の首を原城三の丸の大手門前や長崎出島の正面入り口前にさらした」とありますが、肝心の幕府は、その顔を把握していませんでした。同記録にはまた、城内に天草四郎と「背格好の似た少年の首が複数集まった」とあり、人質となっていた天草四郎の母・マルタにそれらを見せ、彼女がある生首を見て泣き崩れたのを見て四郎の首と断定したと言われています。

しかし、マルタはのちに「四郎は南蛮かルソン(フィリピン)に逃げた」とも話していることから、生首を見て泣き崩れたのは息子が逃げたことを隠し通す演技だったとも考えられるのです。

この「首複数説」から、天草四郎は実在した特定人物ではなく、乱を首謀した大人達がでっちあげたという説もあります。まさに島原は、近世でありながら、「聖徳太子」並みに謎深い人物を輩出した地なのです。

そして、島原の乱後は、徳川家譜代大名が治め、幕末を迎えることとなりました。

高瀬藩(たかせはん)

細川家

細川家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
3.5万石 肥後国
(熊本県)
高瀬陣屋 細川家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 細川家

細川利重
細川利昌
細川利恭
細川利寛
細川利致
細川利庸
細川利国
細川利愛
細川利用
細川利永

3.5万石 外様

熊本藩の一支藩であったが、九州の近代化を加速させた

熊本藩の一支藩であったが、九州の近代化を加速させた

もとは「熊本新田藩」(くまもとしんでんはん)と呼ばれ、細川家の治める「熊本藩」(くまもとはん:現在の熊本県)の支藩でした。

細川家の本姓は源氏であり、清和源氏の名門・足利氏の支流です。南北朝時代には「足利尊氏」に従って発展し、室町幕府の管領家に列する有力守護大名でもありました。祖先をたどれば、「応仁の乱」で東軍の総大将を務めた「細川勝元」(ほそかわかつもと)もいます。

熊本藩2代藩主「細川光利」(ほそかわみつとし)の次男「細川利重」(ほそかわとししげ)が、1666年(寛文6年)に、熊本藩主だった兄「綱年」(つなとし)から3万5,000石を分与されて立藩。

立藩とはいえ知行地は持たない、江戸に創設された熊本藩の支藩でした。そのため、貢祖(こうそ)は熊本藩が代行しており、参勤交代を行なわず、藩主と家臣が江戸に常駐する「定府大名」だったのです。

初代藩主である利重は、江戸郊外、現在の戸越公園周辺に領地と下屋敷を持っていました。この下屋敷内の泉水を水源として、1663年(寛文3年)、玉川上水から屋敷まで長大な水路を開削。これが「戸越水路」(とごしすいろ)と呼ばれ、現在の「戸越銀座商店街」の下を流れていたと言われています。

明治維新動乱さなかの1868年(明治元年)春、「鳥羽・伏見の戦い」のあとに、本藩である熊本藩の勧めもあって、支藩は江戸を引き払うこととなりました。

10代藩主「利永」(としなが)を筆頭に、熊本新田藩一行は江戸から肥後高瀬町へ移り住み、商家や寺院に分宿。7月に玉名郡高瀬町の奉行役宅を仮の藩庁とし、藩名が「高瀬藩」(たかせはん:現在の熊本県)へと改称されました。

正式な藩庁は、1870年(明治3年)に、玉名郡岩崎村に建設されましたが、同年9月、版籍奉還に際して藩は維持できたものの、知藩事の任命がなく、同じく熊本藩の支藩であった「宇土藩」(うとはん:現在の熊本県)とともに熊本藩に合併されることとなります。そののち、藩主・利永は東京居住、藩士は熊本藩への所属換えとなり、そのため、高瀬藩という名称はわずか3年使用されただけとなりました。

しかし、約300家族700人が、維新を前に江戸から移住してきたことの意味は大きく、遠く九州の地に、当時最先端であった江戸文化がもたらされたのですから、文化・教育の成長度は加速したと言えます。高瀬藩校を受け継ぎ、1870年(明治3年)には、旧藩士達が自主的に運営する「自明堂」(じめいどう)を設立。1872年(明治5年)には学制により、いち早く小学校として認められました。

女子美術大学の創立者で、美術教育を通して女子の社会的地位の向上に尽くした「横井玉子」や、その甥で英文学者の「戸川秋骨」(とがわしゅうこつ)をはじめ、旧藩士とその子孫からは、わが国の近代化に貢献した人物が多数輩出。玉名の町には今も旧藩士邸があり、当時の文化が遺されています。

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)

宗家

宗家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
10万石 対馬・肥前国
(長崎県・佐賀県)
桟原城
(金石城)
宗家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 宗家

宗義智
宗義成
宗義真
宗義方
宗義誠
宗方熈
宗義如
宗義蕃
宗義暢
宗義功
幼名:猪三郎
宗義功
幼名:富寿
宗義質
宗義章
宗義和
宗義達

10万石 外様

朝鮮通信使の蛮行・狼藉に泣かされた朝鮮外交担当藩

朝鮮通信使の蛮行・狼藉に泣かされた朝鮮外交担当藩

1587年(天正15年)「豊臣秀吉」の九州征伐の際、対馬国(現在の長崎県)を統治していた「宗氏」(そううじ)は、豊臣政権への臣従をいち早く決めたことで、本領を安堵されます。

1590年(天正18年)に、初代藩主「宗義智」(そうよしとし)が従四位下侍従(じゅしいげじじゅう)対馬守(つしまのかみ)に任ぜられました。

以降、幕末まで宗氏の支配となったのが「対馬府中藩」(つしまふちゅうはん:現在の長崎県、及び佐賀県)なのです。

長崎の離島「対馬」。歴史的に、朝鮮半島とのかかわりは深く、現在も観光客の多くが韓国人です。

対馬と朝鮮半島がもっとも交流の深かったのが江戸時代。秀吉の「朝鮮出兵」のあと、断絶していた日朝国交を回復するために、江戸幕府は朝鮮側に「通信使」の派遣を打診し、朝鮮もこれを了承したことで、交流が再スタートします。その通信使を、日本で出迎える場となったのが、対馬であり、その最高責任者が藩主の宗家でした。

現在、韓国の教科書では、「日本は朝鮮の進んだ文物を求めて、通信使の派遣を要請してきた」と自民族の対日優位性を強調していますが、実態は江戸幕府への朝貢(ちょうこう:外国人が来朝して、朝廷に貢物を差し上げること)の意味合いが強かったようです。

将軍の代替わりごとに通信使が来日しているところを見ても、それは明らかでしょう。そもそも、通信使とは、後世の歴史家が学術用語として定着させた言葉であり、江戸幕府は彼らを「朝鮮来聘使」(ちょうせんらいへんし)と呼んでいました。「来聘使」とは、「貢ぎ物を持ってくる使者」という意味です。

金石城跡

金石城跡

通信使自体は、その行動を見ても「進んだ文物を運んでくる紳士」とはとても言い難い人物でした。

ロウソクを食べ物と間違って食べてしまったり(つまり、朝鮮にはロウソクが無かったということ)、町人の鶏を盗んで喧嘩になったり、あるいは宿の壁に鼻汁を擦り付ける、階段で排便する、女中を孕ませるなど、彼らの狼藉(ろうぜき)の記録は日本各地に残っています。

随行の待役を果たしていた府中対馬藩の役人も、彼らの「お行儀」には大いに手を焼いたようです。季節外れの野菜料理を所望するので、それを断ると、通信使から唾を吐きかけられた対馬藩士もいたと言います。

1764年(明和元年)には、いわれなき打擲(ちょうちゃく:殴ること)に堪忍袋の緒が切れた通訳役「鈴木伝蔵」が通信使「崔天崇」(チェ・チョンジュン)を槍で刺殺する事件も起こりました。

朝鮮側としては、第11次朝鮮通信使の一員として来日した「金仁謙」(キム・インギョム)の旅行記「日東壮遊歌」が第1級の記録となっています。この中で金仁謙は、たびたび倭人(わじん:日本人)を「犬にも等しい輩」と蔑みながらも、大坂京都府、江戸の街並みのきらびやかさに感嘆し、物欲しそうな目で眺めまわる姿を隠そうとしません。

現代の韓国人の日本に対する屈折した視点と相通ずる物が見え、興味深い記録となっています。なお、第12次通信使は、対馬に留め置きとなったため、江戸に来往した通信使は、金仁謙の第11次が最後です。

1871年(明治4年)、「廃藩置県」によって「厳原県」(いづはらけん)となり、対馬国は消滅。

また、1884年(明治17年)に、宗家16代当主「宗義達」(そうよしあきら)は、朝鮮外交担当者としての功績を鑑みられ、伯爵に叙任されました。

中津藩(なかつはん)

奥平家

奥平家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
10万石 豊前国
(大分県)
中津城 奥平家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 黒田家

黒田孝高
黒田長政

12.3万石 外様
2. 細川家

細川忠興

39.9万石 外様
3. 小笠原家

小笠原長次
小笠原長勝
小笠原長胤
小笠原長円
小笠原長邑

4万石 譜代
4. 奥平家

奥平昌成
奥平昌敦
奥平昌鹿
奥平昌男
奥平昌高
奥平昌暢
奥平昌猷
奥平昌服
奥平昌邁

10万石 譜代

慶應義塾の源流とも言われる人材の宝庫

慶應義塾の源流とも言われる人材の宝庫

「中津藩」(なかつはん:現在の大分県中津市)の歴史は、1587年(天正15年)、「豊臣秀吉」による九州征伐のあと、「黒田孝高/官兵衛」(くろだよしたか/かんべえ)に豊前国(ぶぜんのくに:現在の福岡県東部、及び大分県北部)6郡12万3,000石が与えられたことから始まります。

のちに「関ヶ原の戦い」の戦功により、嫡男「黒田長政」(くろだながまさ)が52万3,100石の加増を受け、「福岡藩」(ふくおかはん:現在の福岡県福岡市)に移封となりました。

長政に代わって、「細川忠興」(ほそかわただおき)が丹後「宮津藩」(たんご・みやづはん:現在の京都府宮津市)より入封し、中津藩が成立することとなります。1602年(慶長7年)に、忠興が藩庁を「小倉城」(こぐらじょう:現在の福岡県北九州市)に移したことにより、藩名は一時期「小倉藩」(こくらはん)となりました。

それまでの藩庁であった「中津城」は支城となり、城代が置かれることに。そして、細川氏は2代藩主「忠利」(ただとし)の時代に、肥後「熊本藩」(ひご・くまもとはん:現在の熊本県熊本市)に移封となっています。

同年に、譜代大名として、茶人としても名高い「小笠原忠真」(おがさわらただざね)が小倉城に入って小倉藩主となり、支城であった中津城には、その甥である「小笠原長次」(おがさわらながつぐ)が播磨「龍野藩」(はりま・たつのはん:現在の兵庫県たつの市)より8万石で入封。再び中津城が藩庁となり、中津藩として稼働していくこととなりました。

中津城

中津城

その後、中津藩の藩主は、小笠原氏が5代、同じく譜代大名である「奥平氏」(おくだいらし)が9代にわたって続いています。

中津藩出身の著名人には、「緒方洪庵」(おがたこうあん)の「適塾」(てきじゅく:のちの大阪大学)で学んだあと22歳という最年少で塾頭にまでなり、「慶應義塾大学」の創始者としても有名な「福澤諭吉」(ふくざわゆきち)がいます。

中津藩の下級武士の子息であった諭吉は、上級武士の子らから極端な差別を受けて育ちました。そしてそのことが、彼の平等思想に強く影響したと言われているのです。

1796年(寛政8年)、奥平家5代藩主「奥平昌高」(おくだいらまさたか)が藩校「進脩館」(しんしゅうかん)を設立。上士(じょうし:上級藩士のこと)の子弟は必ず入学させ、その他の志願者にも入学を許可し、のちには町人の子弟も入学させました。

この進脩館に、のちに慶應義塾3代塾長となる「小幡篤次郎」(おばたとくじろう)も入学。のちに福沢諭吉の片腕として見出され、「中津藩江戸藩邸」で開設された「慶應義塾」で教育にあたっています。これにより、藩校「進脩館」は、慶應義塾の源流であるとされることもあるのです(なお、慶應義塾自体は、これを正式とはしていない)。

この他にも中津藩は、教育や人材育成に尽力。例えば、中津藩の藩医であり、「解体新書」(かいたいしんしょ)で有名な「前野良沢」(まえのりょうたく)や、自由民権運動にも参加した「増田宗太郎」(ますだそうたろう)などがおり、明治維新後の思想界にも多大なる影響を与えています。

最後の藩主となる「奥平昌邁」(おくだいらまさゆき)は、明治維新後、それまでの家格至上主義的な登用法を打破して選挙制を取るなど、優れた藩主でしたが、1884年(明治17年)に30歳で死去。昌邁は、江戸後期の3大名君と謳われた、伊予「宇和島藩」(いよ・うわじまはん:現在の愛媛県宇和島市)藩主「伊達宗城」(だてむねなり)の4男であり、養子として奥平家に入った人物でした。

人吉藩(ひとよしはん)

相良家

相良家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
2.2万石 肥後国
(熊本県)
人吉城 相良家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 相良家

相良長毎
相良頼寛
相良頼喬
相良頼福
相良長興
相良長存
相良頼峯
相良頼央
相良晃長
相良頼完
相良福将
相良長寛
相良頼徳
相良頼之
相良長福
相良頼基

2.2万石 外様

頻発する事件・お家騒動

頻発する事件・お家騒動

源頼朝」(みなもとのよりとも)に、肥後球磨郡人吉(ひごくまぐんひとよし)の領有を認められて以来、豪族・相良氏が治めた地域。

戦国時代は、島津傘下に入って乱世をかいくぐります。初代藩主となる「相良長毎」(さがらながつね)は、「関ヶ原の戦い」で西軍に付いたものの、老臣「犬童頼兄」(いんどうよりもり)が東軍に内通を約したおかげで、無事2万2,000石の所領を安堵されて立藩しました。この「人吉藩」(ひとよしはん:現在の熊本県)は、「相良藩」(さがらはん)とも言います。

立藩に貢献した犬童頼兄は相良姓を授かるも、次第に横暴なふるまいを重ねるようになりました。2代藩主「頼寛」(よりひろ)によって頼兄は幕府に訴えられ、「小田原藩」(おだわらはん:現在の神奈川県)へ送られることになります。一方、頼兄の養子「頼昌」(よりまさ)は義父の処分を知って、藩主からの使いを殺したうえ、一族と共に屋敷に篭もって藩主側と抗戦。一族全員121名が戦死、または自害するという「お下の乱」(おしものらん)を起こします。

人吉城跡(石垣)

人吉城跡(石垣)

また、藩主がらみではありませんがこの4年後に、300石取りの上士「村上顕武」(むらかみあきたけ)一族の先祖供養法要に、顕武の養子とその兄が乱入し一族約70名を惨殺する「村上一族鏖殺事件」(むらかみいちぞくおうさつじけん)も起きました。

さらに、8代藩主「頼央」(よりひさ)が、先代「頼峯」(よりみね)時代の水害による藩政逼迫のあおりを受けて、鉄砲で暗殺されるという前代未聞の事件が発生。しかし、都から遠く九州山中の出来事であったため、銃殺と言っても子どもの竹鉄砲であったとされ、お家取り潰しを免れ、秋月家から養子を迎えて存続していきます。

その後も、椎茸山の入山権をめぐり1841年(天保12年)に起こった「茸山騒動」や、幕末には勤王派と佐幕の洋式派が対立した1865年(慶応元年)の「丑歳騒動」(うしのとしそうどう)と、騒動の絶えない藩でした。

最後の藩主となる15代「相良頼基」(さがらよりもと)は、「薩摩藩」(さつまはん:現在の鹿児島県)と共に「会津藩」(あいづはん:現在の福島県)攻めに加わり、1869年(明治2年)、版籍奉還により藩知事となります。

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