熊本藩
くまもとはん
久留米藩
くるめはん
小倉藩
こくらはん
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さがはん
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さつまはん
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しまばらはん
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たかせはん
対馬府中藩
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中津藩
なかつはん
人吉藩
ひとよしはん
福岡藩
ふくおかはん
府内藩
ふないはん
柳河藩
やながわはん
※ 50音順に掲載しております。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
54万石 |
肥後国 (熊本県) |
熊本城 | 細川家 |
藩の歴史 | |||
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歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 加藤家 | 加藤清正 |
52万石 | 外様 |
2. 細川家 | 細川忠利 |
54万石 | 外様 |
「加藤清正」は、1582年(天正10年)「本能寺の変」のあと、「山崎の戦い」を経て、「明智光秀」を降した「羽柴[豊臣]秀吉」と「柴田勝家」が織田信長没後の織田家の跡目を争った、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」で、「七本槍」と呼ばれる武功を立てました。
さらに、「熊本城」、「名古屋城」、「江戸城」などの築城にも携わります。「朝鮮出兵」では、兵糧尽きた籠城戦を戦い抜いたうえに、虎まで狩り、関ヶ原の戦いの勲功により、肥後熊本に52万石を得て、初代藩主となったのです。
清正の逸話は、枚挙に暇もありませんが、農閑期の民に給金を払って土木・治水事業にも尽力し、いまも熊本県内には実用に使われる遺構が多数あります。治政と武の両方に長けた人物で、当地ではいまも「清正公(せいしょこ)さん」と尊敬される武将です。また、もとは「隈本」であった地名を「熊本のほうが勇ましい」という理由で、「熊本」と改めたという逸話も残っています。
その不遇は、秀吉没後の徳川時代に秀吉の嫡男・秀頼(ひでより)をいかに生き延びさせるかに心血を注いだため、徳川家康からすれば、扱いづらい人物との印象を拭いきれなかった一点です。関ヶ原の戦い後の京都「二条城」で、秀頼を家康に謁見させた帰路、五十齢にして急死。死因は、性病ともハンセン病とも毒殺とも言われています。
熊本城天守閣
清正の嫡子が短命だったため、わずか11歳だった3男・忠広が2代藩主となります。江戸幕府は家督相続に対し、9ヵ条からなる掟書(おきてがき)を示し、支城であった「水俣城」、「宇土城」、「矢部城」などが廃止となり、のちの「一国一城制」によって、最終的には、熊本城と「麦島城」だけが存続することとなりました。
「藤堂高虎」が後見人となった際、重臣達に所領の自治を任せたこともあって、領内の統制がきかなくなります。1632年(寛永9年)、徳川家康の孫である「徳川忠長」(通称:駿河大納言)が引き起こした「駿河大納言事件」の連座にて改易され、1万石を与えられて東北・出羽国丸岡に移転させられました。
同年に、「豊前小倉藩」(ぶぜんこくらはん:現在の福岡県)より「細川忠利」が54万石で入り、細川家の統治となります。忠利は、晩年の「宮本武蔵」を「熊本藩」(くまもとはん:現在の熊本県)に迎え入れたり、「島原の乱」にて武功を挙げたりと藩主として活躍しました。
続く3代藩主・綱利は、「赤穂浪士討ち入り事件」の「大石良雄」らの切腹を任された人物です。8代・重賢(しげかた)は、1755年(宝暦5年)に、「横井小楠」や「井上毅」(いのうえこわし)、「北里柴三郎」を輩出した藩校「時習館」を創設し、翌年には、藩医学校「再春館」も創設しています。時習館は、当時から「体罰否定」思想の精神を明文化しており、のちの学校教育にも大きな影響を与えました。
熊本藩の藩財政は、他藩と同じく窮乏状態でしたが、江戸時代を通じて百姓一揆がなく、領民は安全で豊かな暮らしを送ったと言われています。最後の藩主となった12代・護久(もりひさ)は、1884年(明治17年)に、侯爵に叙任されました。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
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21万石 |
筑後国 (福岡県) |
久留米城 | 有馬家 |
藩の歴史 | |||
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歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 有馬家 | 有馬豊氏 |
21万石 | 外様 |
「久留米藩」(くるめはん)は、現在の福岡県久留米市に藩庁を置いた藩であり、平安時代末期より、豊臣秀吉の「九州征伐」までの約400年を、藤原北家の流れをくむ草野氏一族が統治していました。
そののち、豊臣政権下から有馬氏の立藩までに、「毛利秀包」(もうりひでかね)、「田中吉政」(たなかよしまさ)が統治し、「有馬豊氏」(ありまとようじ)により立藩となります。
久留米藩には、個性豊かな藩主達がいました。2代藩主「有馬忠頼」(ありまただより)は非道で有名で、あるとき側仕えの小姓が忠頼の機嫌を損ねたところ、忠頼はその小姓を柱に縛り付け、日本刀でその股間を斬り付けたと言います。小姓は家にて養生している際に、兄にそのことを話し、憤った兄と2人、兄弟で主君を討つと決めたのです。
機会は参勤途中の船内で巡ってきます。兄弟で忠頼の洗顔の世話をすることになり、兄が持っている盥(たらい)に忠頼が首を垂れるやいなや、弟が抜刀し、無言のままに忠頼の首を切り落としました。そのまま兄弟は忠頼の首を持って海へ逃走し、2度と見つからなかったと伝えられています。その際に、そばにいた忠頼の長男「松千代」(まつちよ:4歳)も巻き添えを食って死亡。忠頼亡きあと、久留米藩には後継ぎがおらず、藩内で身代わりにできる4歳の男子を見付け出し、後継ぎとすることになりました。
久留米城跡
子どもは3代「頼利」(よりとし)として成長したのですが、やがて毒殺の憂き目にあいます。わずか17歳のことでした。頼利の血筋を知る家臣が毒殺したのだと言われています。
頼利は先代と違い、大変穏やかな人柄で家臣に慕われていました。大事な香炉を家臣が割ってしまった際にも笑って許したそうです。頼利が急死した際には、聞き付けた藩邸の家臣達が全員で殿中に詰め、頼利の容態を案じたという逸話も残っています。
頼利には「糸姫」(いとひめ)という妻がおり、まだ16歳でした。嫁いでわずか4ヵ月で夫を亡くした糸姫は、跡目の4代藩主に嫁ぐことを勧める家臣達を抑え、「みじか夜の月は枕に残れども消えにし人の影はとまらず」と残すと髪を落として仏門に下り、一生を終えたと言います。
幕末となり、「戊辰戦争」が始まると新政府軍側として参戦。しかし、1871年(明治4年)、新政府軍の「開国和親」に不満を持つ久留米藩内の攘夷派が、攘夷派の公卿、「愛宕通旭」(おたぎみちてる)と「外山光輔」(とやまみつすけ)が明治政府転覆を謀った「二卿事件」(にきょうじけん)と呼ばれるクーデター未遂事件に関与したとして、明治政府の命令を受けた熊本藩に城を占拠されます。
1884年(明治17年)、華族令の公布によって、最後の藩主である11代「頼咸」(よりしげ)の子、「頼万」(よりつむ)は伯爵となりました。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
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15万石 |
豊前国 (福岡県) |
小倉城 | 小笠原家 |
藩の歴史 | |||
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歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 細川家 | 細川忠興 |
39.9万石 | 外様 |
2. 小笠原家 | 小笠原忠真 |
15万石 | 譜代 |
1587年(天正15年)、豊臣秀吉の家臣「森勝信」(もりかつのぶ)が、九州征伐や「肥後国人一揆」などで武功を挙げ、秀吉より「豊前国小倉」(ぶぜんのくにこくら:現在の福岡県北九州市小倉)の6万石を与えられ、「小倉城」(こくらじょう)を築城したのが始めと言われています。
このとき勝信は、秀吉より「森」の名を「毛利」に変えるよう命じられ、以後は「毛利壱岐守」(もうりいきのかみ)を称し、毛利姓となりました。
子息は、「大坂の陣」で活躍した「毛利勝永」(もうりかつなが)。勝永の妻は、大坂の陣で勝永の大坂城入りを励まし、1887年(明治20年)に刊行された「婦女鑑」にて、戦前の「銃後の守り」(じゅうごのまもり:軍隊に入らず間接的に参加した一般市民)の手本として取り上げられた賢女です。
そののち、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいて、東軍に属した「細川忠興」(ほそかわただおき)と、東軍として抗戦し続けた父「細川幽斎」(ほそかわゆうさい)が、その功により、転入。豊後国杵築(ぶんごのくにきつき:現在の大分県杵築市)の18万石から、豊前一国と豊後国の国東郡・速見郡を合わせた、39万9,000石を大幅加増され、「小倉藩」(こくらはん:現在の福岡県)が立藩されました。
小倉城
小倉藩と言えば、1612年(慶長17年)に「佐々木小次郎」(ささきこじろう)と「宮本武蔵」(みやもとむさし)の決闘が行なわれた、「巌流島」(がんりゅうじま:現在の山口県)を領していたことでも有名です。この巌流島の決闘が行なわれたのが、細川氏の藩主時代でした。
ところが、2代藩主「細川忠利」(ほそかわただとし)は、1632年(寛永9年)熊本藩2代藩主「加藤清正」の3男である「加藤忠広」(かとうただひろ)の改易に伴い、54万石を加増され、熊本藩に移封となります。
そこで同年、「徳川家康」の外曾孫にあたる「小笠原忠真」(おがさわらただざね)が、「明石藩」(あかしはん:現在の兵庫県)から移封され、豊前北部15万石を領し、小倉藩主となったのです。以後、西国譜代大名の筆頭となり、「九州探題」のような役割として西国外様大名の抑えを担うこととなりました。
また、巌流島の決闘以降、宮本武蔵も小倉藩に留まり、子息「伊織」(いおり)と共に「島原の乱」などで活躍。小倉藩筆頭家老の職を世襲し続けたのです。
1758年(宝暦8年)には、4代藩主「小笠原忠総」(おがさわらただふさ)が、城内に藩士の文武教練場「思永斎」(しえいさい)を設け、教育の普及に努めます。これが、1870年(明治3年)に開校される藩校「育徳館」(いくとくかん)の前身となりました。
1866年(慶応2年)の「第二次長州征伐」では、小倉藩は小倉口の先鋒として参戦。長州軍により門司が制圧されると、小倉城に火を放ち撤退します。一時は小倉城を奪還しますが、長州側の兵力が増強されると次第に圧迫されるようになり、多くの防衛拠点が失われ、一部の領地は1869年(明治2年)まで、長州軍に占領されることとなりました。
1884年(明治17年)の「華族令」により、小笠原家は伯爵に列せられています。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
35.7万石 |
肥前国 (佐賀県) |
佐賀城 | 鍋島家 |
藩の歴史 | |||
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歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 龍造寺家 | 龍造寺高房 |
35.7万石 | 外様 |
2. 鍋島家 | 鍋島勝茂 |
35.7万石 | 外様 |
「佐賀藩」(さがはん:現在の佐賀県)は、「肥前国」(びぜんのくに)の佐賀郡にあった藩であり、明治維新を主導した「薩長土肥」のひとつです。
もとは、肥前一帯を支配していた九州地域の守護大名「少弐氏」(しょうにし)の支配下でした。そののち、仏門から還俗し、九州の有力大名を数々破り、豊後(ぶんご)の「大友氏」(だいゆうし)、薩摩大隅(さつまおおすみ)の「島津氏」と並ぶ一大勢力を築き上げ、「肥前の熊」の異名を取るまでになった戦国大名「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)が下克上を成したころが起源となります。
しかし、隆信は、1584年(天正12年)の「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)により、島津・有馬連合軍に敗北し、敗死しました。そののち、隆信の遺児である「龍造寺政家」(りゅうぞうじまさいえ)の補佐として、重臣であった「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)が実権を握り、「鍋島藩」(なべしまはん)とも呼ばれた、佐賀藩を形成していくこととなります。
徳川政権となり、鍋島氏の統治が確立しました。しかし、事実上「蓮池藩」(はすのいけはん)・「小城藩」(おぎはん)・「鹿島藩」(かしまはん)と言う三支藩、「白石」・「川久保」・「村田」・「久保田」と言う鍋島の庶流、もとの君主である龍造寺の分家などの自治領が数多くあり、佐賀藩の実質的な知行高は、6万石程度であったと言われています。
佐賀城跡
なお、佐賀藩と言えば、佐賀藩士「山本常朝」(やまもとつねとも)が武士としての心得を口述させ、現代でもハリウッド映画「ゴースト・ドッグ」のモチーフとして描かれた「葉隠」が有名です。
そして、鍋島氏統治時代の藩主として、この人をおいては語れない藩主がひとりいます。佐賀藩鍋島氏10代藩主にして、「佐賀七賢人」のひとりと言われる「鍋島直正[閑叟]」(なべしまなおまさ[かんそう])です。
ゼンマイ仕掛けのからくり人形をはじめ、万年時計(時計は数日で止まるのが当たり前の時代に、1度ゼンマイを巻けば、1年間も動いた)、蒸気船・蒸気車の雛形やアームストロング砲、自転車、精米機、写真機など数々の発明品を生み出した「田中[芝浦]製作所」(のちの東芝・重電部門)の創業者「田中久重」(たなかひさしげ)を世に出すキッカケを作りました。
直正の大名行列が通ったあとには、ぺんぺん草一本生えていないと言われ、雑草までも粥に入れて家臣に食べさせる倹約で蓄財。地場産業に力を入れて、藩財政の健全化に成功しました。直正は、天然痘の治療に、オランダから「牛痘ワクチン」を輸入するなど、新種の技術を積極的に取り入れました。
また、「二重鎖国政策」(国の鎖国に加えて、他藩に情報を漏らさない)を執り、隣国、久留米藩の鼈甲(べっこう)細工師の子息であり、「東洋のエジソン」と呼ばれた田中久重(当時54歳)を「精煉方」(せいれんかた)として任命。極秘裡に日本最強クラスの洋式陸海軍を整えていくこととなったのです。久重の発明であったアームストロング砲が無ければ、「江戸城無血開城」は成らなかったと言われています。
1869年(明治2年)、「蝦夷開拓総督」となった直正は、佐賀藩から人民を進んで移住させました。ちなみに、本人は赴任せず、「岩倉具視」(いわくらともみ)と共に大納言に任命されています。
また、久重は「東芝」の前身「田中製作所」(息子の2代目・久重のときに芝浦製作所)を開業しました。他にも、直正は、満州の開拓やオーストラリアでの鉱山開拓などを提言しており、他の藩主よりも先見の明に長け、「島津斉彬」(しまづなりあきら)と並んで「幕末の名君」と呼ばれたのです。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
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77万石 |
薩摩・大隅国 (鹿児島県) |
鹿児島城 | 島津家 |
藩の歴史 | |||
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歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 島津家 | 島津家久 |
77万石 | 外様 |
2018年度(平成30年度)にNHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公ともなった「西郷隆盛」(さいごうたかもり)。
実は西郷隆盛の真の顔は誰も知りません。有名なお抱え外人画家「キヨッソーネ」による肖像画は、想像画に過ぎないのです。
太い眉にギョロ目、団子鼻というのがキヨッソーネ画で定着した西郷隆盛のビジュアル・イメージですが、これは単に薩摩風美男の特徴を象徴的に戯画化した物だと言われています。もっとも、西郷家は代々、島津の殿様に仕えるお小姓衆の家柄ですので、実際の西郷もそれなりの美童であったことは想像に難しくありません。
お小姓衆は身分こそ高くないのですが、殿様に直接侍ることができました。そういった関係だからこそ、西郷は主君島津斉彬から様々な薫陶を受けることができましたし、斉彬も早くから西郷の才覚に目をかけるようになったとも言えます。
武士階級における男色趣味、いわゆる衆道も江戸中期には一旦廃れますが、その「美風」を維新まで頑なに守り通したのが他ならぬ「薩摩藩」(さつまはん:現在の鹿児島県)なのです。
鹿児島城(鶴丸城)の大手門「御楼門」
薩摩武士には、「郷中」(ごちゅう)と言う特殊な教育的少年組織の制度がありました。郷中のうち、元服前の7~14歳までを「稚児」と呼び、15~25歳くらいまでの非妻帯者の青年を「二才」(にせ)と呼びます。
二才は、教育係として読み書きから武士の心得、「示現流」(じげんりゅう)の稽古まで、稚児の諸般の面倒を見ると同時に、たびたび親密な関係を結びました。
郷中に可愛い稚児がいると、わざわざ化粧を施し、二才が傘を差して、他の郷中の連中に見せびらかしに行ったと「本富安四郎」(ほんぷやすしろう)の「薩摩見聞記」に記されています。また、掌中の稚児が他の郷中の者に取られないよう、二才が交代で寝ずの番をすることも珍しくなかったそうです。
西郷どんも若い頃、郷中同士の喧嘩(稚児の取り合いが原因だったかは不明)で刀傷を受けています。ちなみに、西郷は元服後も乞われて二才組にしばし留まりましたが、盟友であり、のちに征韓論で袂を別つことになる「大久保利通」(おおくぼとしみち)も郷中時代、西郷どんの稚児だったのです。
西郷隆盛
余談ですが、薩摩藩の郷中によく似た、「什」(じゅう)と言う教育システムを持つのが「会津藩」(あいづはん:現在の福島県)。ここでは藩校「日新館」(にっしんかん)に入学する前の6~9歳の藩士の子弟が10人単位でつどい、「什長」と呼ばれる年長者を中心に武士の心得を学びました。「什」とは掟の意味でもあり、その固い掟のひとつが徹底的な女人忌避。つまり「戊辰戦争」とは、ハードコアな男集団同士の戦争という局面もあった訳です。
※参考「氏家幹人」(うじいえみきと)「武士道とエロス」
明治維新後は、維新の原動力ともなった「長州藩」(ちょうしゅうはん:現在の山口県)と共に、「長州閥」、「薩摩閥」として、日本政治に多大なる影響を与えることとなります。