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※ 50音順に掲載しております。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
7.4万石 |
越後 (新潟県) |
長岡城 | 牧野家 |
藩の歴史 | |||
---|---|---|---|
歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 堀家 | 堀直寄 |
8万石 | 外様 |
2. 牧野家 | 牧野忠成 |
7.4万石 | 譜代 |
江戸時代の初期、現在の長岡市あたりには「蔵王堂藩」(ざおうどうはん)が存在していましたが、1606年(慶長11年)、2代藩主「堀鶴千代」(ほりつるちよ)が早世したため、お家断絶。「高田藩」(たかだはん:現在の新潟県上越市)の属領とされました。
しかし、1616年(元和2年)、高田藩主の「松平忠輝」(まつだいらただてる)が「大坂夏の陣」に遅参する不始末によって改易されると、蔵王堂藩時代に、鶴千代の後見を務めていた「堀直寄」(ほりなおより)が8万石で入封。新たに長岡城を築城して自身の居城とし、城下町も蔵王堂城からそちらに移して、長岡藩が立藩されたのです。
1618年(元和4年)、堀直寄が移封となると、これに代わって「徳川家康」の家臣として数々の武功を挙げてきた「牧野忠成」(まきのただなり)が入封。
祖父・成定(なりさだ)の代には、徳川家康の家臣「酒井忠次」(さかいただつぐ)配下の東三河国衆として徳川軍に属した譜代大名であり、外様の多い越後地域において、言わば見張り番としての役目を委ねられました。
そんな幕府の期待に応えるかのごとく、牧野家は明治の廃藩まで250年にわたって長岡で藩政を敷くことになります。その藩風の基礎となった心構えに、「牛久保之壁書」(うしくぼのへきしょ)、「侍の恥辱十七ヵ条」(さむらいのちじょくじゅうななかじょう)と言う物がありました。
いずれも、三河以来の家風を守るために掲げられた、武士の心構えを記した物。同じく長岡で有名な「米百俵の精神」もこれらに基づいて生まれ、藩士の子息達は、藩校でこれらを叩きこまれたと伝えられています。
長岡城
【牛久保之壁書】
一、常在戦場の四文字
一、弓矢御法といふこと
一、礼儀廉恥といふこと
一、武家の礼儀作法
一、貧は士(さむらい)の常といふこと
一、士の風俗方外聞に係るといふこと
一、百姓に似るとも、町人に似るなといふこと
一、進退ならぬといふこと
一、鼻は欠くとも、義理は欠くなといふこと
一、腰は立たずとも、一分は立てよといふこと
一、武士の義理、士の一分を立てよといふこと
一、士の魂は清水で洗えといふこと
一、士の魂は陰ひなた無きものといふこと
一、士の切目、折目といふこと
一、何事にも根本といふこと
一、日陰奉公といふこと
一、荷ない奉公といふこと
一、親類は親しみ、朋友は交わり、朋輩中は付合うといふこと、また一町の交わり、他町の付合いといふこと
ところが、これらの心構えを守り続けたが故に、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)において明らかに新政府軍が有利となったあとも、長岡藩は、幕府側に殉じることとなったのです。
1867年(慶応3年)5月、新政府軍の軍監であった「土佐藩」(とさはん:現在の高知県)の「岩村精一郎[高俊]」(いわむらせいいちろう[たかとし])は、恭順(きょうじゅん:命令に対して、つつしんで従うこと)工作のため、長岡にほど近い小千谷(おぢや)の慈眼寺(じげんじ)を訪れます。
しかし、藩主の代理として、精一郎を迎えた牧野家家臣「河井継之助」(かわいつぎのすけ)は、「あなた方が真の官軍ならば恭順しても良いが、旧幕府軍や会津討伐とは言いながら、その本音は私的な制裁や権力奪取にあるのだろう」と、堂々と言い放ったのです。
この直言により交渉は決裂。「北越戦争」(ほくえつせんそう)が開戦となりました。
当初は、継之助の巧みな用兵術もあって互角の戦いとなったものの、新政府軍の物量の前には多勢に無勢。徐々に押されて長岡城を奪われてしまいます。いったんは奇襲により奪還しましたが、継之助は膝に銃弾を受けて負傷。指揮能力の低下により再び長岡城は陥落し、会津へ敗走したのです。
「八十里 腰抜け武士の越す峠」とは、このときの河井の辞世。ようやく会津に逃げ延びたものの、継之助は、膝の傷から破傷風を発症し、間もなく帰らぬ人となりました。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
10万石 |
信濃 (長野県) |
松代城 | 真田家 |
藩の歴史 | |||
---|---|---|---|
歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 森家 (川中島藩時代) |
森忠政 |
13.7万石 | 外様 |
2. 松平[長沢]家 (川中島藩時代) |
松平忠輝 |
14万石 | 親藩 |
3. 松平[越前]家 | 松平忠昌 |
12万石 | 親藩 |
4. 酒井家 | 酒井忠勝 |
10万石 | 譜代 |
5. 真田家 | 真田信之 |
10万石 | 外様 |
「武田信玄」と「上杉謙信」による「川中島の戦い」の舞台となった長野盆地南部にあたるこの地域。
千曲川と犀川の合流地点から広がる肥えた土壌のおかげで、その当時には越後全土を上回るほどの米収穫高があったと言われています。
「関ヶ原の戦い」のあとに、「織田信長」の家臣として名高い「森可成」の6男・忠政が16万7,000石で入封し、「川中島藩」が成立。その本拠は、信玄が対上杉戦への備えのため「山本勘助」(やまもとかんすけ)に築かせた「海津城」に置かれ、これがのちの「松代城」となりました。松代の名称が広く使われるようになったのは、1616年(元和2年)に「松平忠昌」(まつだいらただまさ)が12万石で入封してからのことでした。
1622年(元和8年)には、「真田信之」(さなだのぶゆき)が13万石で入封。信之はこれ以前の上田藩主の時代に蓄財した20万両もの大金をもって松代入りし、もともとの米の収穫量も多かったため、この当時は、かなり裕福な藩でした。
なお、真田一族の多くが関ヶ原の戦いで西軍に参じた中、信之は妻が徳川家康の養女だったことから東軍に付いています。また、享年93歳と長命でもありました。
松代城跡
真田家3代目、幸道の時代になると、幕府から様々な普請の手伝いを申し付けられることになり、それら使役によって、信之の遺産は使い果たされてしまいます。
質素倹約を旨とした4代藩主・信弘の下で、一旦は財政を持ち直しましたが、5代藩主・信安の時代の1717年(享保2年)に、松代城下が大火に見舞われると、水害も重なって、復興資金として幕府より1万両を借り受ける「借金藩」となってしまいました。
なお、幕府からの借金によって、「千曲川」の河川改修が行なわれ、これ以後の松代城下は水害に見舞われなくなったのです。
信安は財政再建のため、家臣に対しては給与の半額を借り上げることを、城下の民には年貢の前倒し徴収を要請して実行。しかし、これらは強い反発を招くことになり、1744年(延享元年)には家臣によるストライキという江戸時代においては全国的にも極めて珍しい事態が起きています。
また性急な改革は、農民達からの反発も招き、松代藩内では初となる一揆もこの時期に起こりました。これら財政再建を主導したのは、元赤穂浪士を名乗る「田村半右衛門」なる人物でしたが、1751年(宝暦元年)には、その田村自身が汚職を行なっていたとして、江戸に逃亡したところを捕らえられています。
幕末の1847年(弘化4年)には、善光寺地震にも見舞われ、復興のための借財は10万両にまで膨らみ、さらに、ペリー来航に伴う湾岸警備を命じられると、藩の財政は破綻状態にまで追い込まれました。
そんなこんなと苦しい財政状況にありながら、一貫して重視されていたのが教育で、6代藩主・幸弘は、藩校「文学館」を開設。幕末には倒幕運動の理論的支柱のひとりとなった奇才「佐久間象山」(さくましょうざん)も登用されています。
1864年(元治元年)、朝廷から京都南門の警衛を命じられると、すぐに藩兵を率いて上洛。「禁門の変」が起こると、参内して朝廷の守りに就いています。
明治維新においても、松代藩は早くから倒幕で藩論を一致させ、朝廷から信濃全藩のまとめ役を命じられると共に、「戊辰戦争」では、新政府軍側の一員として多大な軍功を挙げています。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
6万石 |
信濃 (長野県) |
松本城 | 松平[戸田]家 |
藩の歴史 | |||
---|---|---|---|
歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 石川家 | 石川康長 |
8万石 | 外様 |
2. 小笠原家 | 小笠原秀政 |
8万石 | 譜代 |
3. 松平[戸田]家 | 松平康長 |
7万石 | 譜代 |
4. 松平[越前]家 | 松平直政 |
7万石 | 親藩 |
5. 堀田家 | 堀田正盛 |
10万石 | 譜代 |
6. 水野家 | 水野忠清 |
7万石 | 譜代 |
7. 松平[戸田]家 | 松平光慈 |
6万石 | 譜代 |
同じ長野県にありながら「仲が悪い」と言われる長野市と松本市。
明治時代に行なわれた「廃藩置県」においては、もともと別の県であった両者が合併するにあたって、当初県庁は松本に置かれるはずでしたが、火事に遇ったために長野側に変更。
このため、現在になっても「本当の県庁は松本市」との気持ちを抱く松本側の人々は多くいて、このことが不仲の要因のひとつとなっているのです。加えて「松本は立派に城を構えた藩主のいた土地だが、長野は善光寺の門前町に過ぎない」という歴史的経緯からのプライドもあるようです。
戦国時代初期の松本一帯は、清和源氏の流れをくむ小笠原氏が治めていましたが、「武田晴信」(たけだはるのぶ)に敗れて以降は、武田家の支配下となりました。
その武田家も織田信長に敗れ、この際に武田側から離反して戦功を上げた「木曽義昌」(きそよしまさ)がこの地を与えられましたが、「本能寺の変」以降に武田家の残党が蜂起すると、義昌は撤退。以後は、「徳川家康」、「北条氏直」(ほうじょううじなお)、「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)ら周辺列強が、覇権を争うことになったのです。
豊臣秀吉の「小田原征伐」のあと、1590年(天正18年)には、秀吉の命により「石川数正」(いしかわかずまさ)が松本入りすることになり、この頃に松本城の天守閣が造成されました。数正は、家康が「今川義元」(いまがわよしもと)の人質だった頃から仕えてきた最古参の家臣でしたが、「小牧・長久手の戦い」あとの1585年(天正13年)には、「織田信雄」(おだのぶかつ)と家康の連合軍から秀吉側へ寝返っています。
「関ヶ原の戦い」では、東軍に戻ったことで引き続き松本の領有を許され、松本藩祖となったものの、時を待たずに家中で内紛が勃発。この時、裏で絵図を描いたのはかつての裏切りを根に持ち続けた家康だったと言われています。
そうして数正の長男・康長が2代松本藩主となると、さらに様々な難癖を付けられて結局石川家は改易。康長は流罪に処されました。
松本城
そののち、江戸の初期において、松本藩主は目まぐるしく入れ替わります。
ようやく落ち着いたのは1642年(寛永19年)、「大坂冬の陣・夏の陣」で戦功を上げた「水野忠清」(みずのただきよ)が藩主となってからで、6代83年にわたって、その治政は続きました。
しかし、6代「忠恒」(ただつね)は、遊び好きの放蕩者で、さらには江戸城中で、妄想からの刃傷沙汰まで起こしたことにより、所領没収の改易となっています。
そのあとは松平家が9代にわたり明治時代になるまで治めますが、その間には、「本丸御殿の火災」やM7.4とも言われる「善光寺地震」の被害もあり、常に窮乏の中での執政となったのです。
1868年(慶応4年)の「戊辰戦争」においては、勤王の新政府軍と佐幕の旧幕府軍のどちらに付くか藩中の意見はなかなかまとまりませんでしたが、いよいよ新政府軍が松本入りしようという段になって、ようやく勤王側を選択。そして、恭順の意思を表す意味から3万両を献上した上で、この一員に加わります。
この直前には松本の名主の家に生まれた「近藤茂左衛門」(こんどうもざえもん)と「山本貞一郎」(やまもとていいちろう)の兄弟が上洛して、「尊王攘夷運動」に参加。孝明天皇から水戸藩に下賜された勅書を仲介したことで、近藤は幕府により逮捕されます(山本は自害)。これが幕府の怒りを招き、1858年(安政5年)、「吉田松陰」(よしだしょういん)を始めとする、百名以上が処罰される「安政の大獄」が断行されるきっかけとなったのです。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
35万石 |
常陸 (茨城県) |
水戸城 | 徳川[水戸]家 |
藩の歴史 | |||
---|---|---|---|
歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 武田[松平]家 | 松平信吉 |
15万石 | 親藩 |
2. 徳川[紀州]家 | 徳川頼宣 |
25万石 | 親藩 |
3. 徳川[水戸]家 | 徳川頼房 |
35万石 | 親藩 |
尾張、紀州と並び「徳川御三家」のひとつに数えられる水戸徳川家。
ただし「将軍家に後継ぎが途絶えたときは、尾張家か紀州家から養子を出す」との伝承があったように、水戸家は他の二家よりも格下だったとする説もあります。
実際のところ、大納言位だった駿河徳川家(水戸家は中納言)や、6代将軍・家宣を輩出した甲府徳川家の方が水戸家よりも家格は上とされ、これらが絶家となったあとに、繰り上がって水戸家は御三家に格付けされています。
水戸城 薬医門
1602年(慶長7年)、それまで常陸国を治めてきた佐竹家が転封されると、これに代わって水戸城には「徳川家康」の5男、「松平[武田]信吉」が入りました。これを継いだ10男・頼宣は紀州に移って紀州徳川家の藩祖となったため、そのあとこの地に入った11男・頼房以降が「水戸徳川家」と呼ばれています。
「参勤交代」は行なわずに江戸定府(参勤交代を行なわず、江戸に定住する将軍や藩主及びそれに仕える者のこと)とされ、将軍家に万が一のことが起きたときの代役を務めるために備えていたとも言われています。
2代藩主で「水戸黄門」としても知られる「水戸光圀」(みとみつくに)は、「大日本史」の編纂に精力を注ぎ、その流れもあって、以後の水戸藩では尊皇・好学が重んじられるようになりました。
9代藩主・斉昭は、「会沢正志斎」(あいざわせいしさい)、「藤田東湖」(ふじたとうこ)らの学者を登用し、彼らの著書は藩の改革派のみならず全国の他藩にも大きな影響を与えて尊皇攘夷の思想的基盤にもなりました。事実、幕末の志士達の多くが水戸詣でを行なっています。
弘道館
斉昭は、藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田派を中心に人材登用を行なうと共に、教育においては「弘道館」を建設して整備を行なったことで「水戸学」は藩内においても強い影響力を持つことになりました。
その極端なまでの尊王攘夷思想は、幕府から疎まれ、斉昭は長男「慶篤」(よしあつ)に家督を譲った上で、隠居を余儀なくされます。しかし、斉昭を支持する藩士による復権運動が起こると、謹慎を解除され、1853年(嘉永6年)のペリー来航に際しては、海防参与に任じられました。
しかし、ここに至ってなお「交渉すると見せかけて敵将を斬り黒船を乗っ取るべし」と過激な攘夷思想は変わることなく、それもあって大老の「井伊直弼」(いいなおすけ)と激しく対立したことにより、再びの謹慎を命じられました。
この処分に怒った水戸の脱藩藩士達は、「桜田門外の変」で井伊大老を暗殺。その一方で、藩内においては守旧派と改革派が抗争対立を繰り返す内戦状態となり、改革派=天狗党の挙兵にまで至っています。
尊王攘夷思想の根幹を成した、その意味では倒幕の主役とも言える水戸藩ですが、こうした藩内抗争と財政悪化により、幕末の頃には藩としての統制を失っていました。水戸藩の改革派藩士達は、それぞれが我が道を行くとばかりに桜田門外の変、「天狗党の乱」、「弘道館戦争」等々を引き起こし、そうした中で多くの有能な人材を失うことにもなったのです。
「戊辰戦争」においても、藩としてまとまった行動を取ることができず、そのため幕末の政局で主導権を握ることなく、新政府においても主要な人物をほとんど輩出することができませんでした。
水戸藩の内戦状態は、1869年(明治2年)に新政府より停戦が命じられるまで続き、 「薩長土肥」の中に水戸の文字が含まれることも叶わなかったのです。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
1.1万石 |
越後 (新潟県) |
三根山陣屋 | 牧野家 |
藩の歴史 | |||
---|---|---|---|
歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 牧野家 | 牧野忠泰 |
1.1万石 | 譜代 |
現在の新潟県新潟市西蒲区峰岡にあった三根山藩は、1634年(寛永11年)に、越後長岡藩の初代藩主「牧野忠成」(まきのただなり)が4男の定成に蒲原郡三根山の新墾田6,000石を与えて分家させたのがその始まりで、領地が1万石に満たないことから、大名ではなく、上級旗本格である旗本寄合席とされてきました。
ただし、幕末に記された「三根山藩文書」では、「先に分家した与板に加えて三根山まで、2つも忠成の1代で諸侯とすることは恐れ多いから、表向きに三根山は6,000石としてきたが、実際には1万1,000石の石高があった」との旨が記述されています(三根山藩の正統性を主張するために話を大げさにしただけで、実際6,000石しかなかったとの説もあり)。
正式に三根山藩として立藩されたのは、幕末の1863年(文久3年)のことで、当時の領主・忠泰が新たに5,000石を開墾して、もとからの6,000石と合わせた計1万1,000石を申告し、これを幕府に認められて大名となりました。
本来、大名への格上げは、簡単に許可されることではありませんでしたが、同年には「薩英戦争」が起こり、長州藩では「高杉晋作」(たかすぎしんさく)が「奇兵隊」(きへいたい)を立ち上げるなど、日本各地に動乱の気配が満ちていて、幕府としては牧野家を大名とすることで恩義を売り、北陸地方の警備などで働かせようとの意図もあったと言われています。
それもあって、「戊辰戦争」の当初には、宗藩(そうはん:宗主的立場にある藩)である長岡藩と共に、幕府寄りの立場を取っていましたが、長岡藩が陥落すると、すぐに方針を転換。新政府側に従うことを表明し、その求めに応じて庄内藩征伐に出兵しています。
それでも、元々が江戸幕府の譜代であったことから新政府からの扱いは悪く、明治に入ってすぐに信濃国伊那への転封を命じられます。これは三根山残留を嘆願したことで差し止めとなりましたが、その直後には藩名が丹後の峰山藩と紛らわしいという、言いがかりとも言える要求を突き付けられて、藩名を嶺岡藩(みねおかはん)に改名。そののち、「廃藩置県」で嶺岡県となると、同年中には新潟県に併合されました。
北越戊辰戦争においてのこと。これに敗れた長岡藩は、それまでの7万4,000石から2万4,000石に減封され、家臣への俸禄(ほうろく:給料)が足りないのはもちろんのこと、極度の食糧不足にまで陥りました。
そんな宗藩の窮状を助けるために、三根山藩は、百俵ほどの米を送り届けましたが、長岡藩の重臣であった「小林虎三郎」(こばやしとらさぶろう)は、これを藩士に分け与えずに売り払って、藩校の運営費用に回すことを決定。これに抗議する藩士達に対し、小林は「百俵の米も食えばたちまち無くなるが、教育に充てれば明日の万俵、百万俵にもなる」と諭したと言われています。
これがのちに戯曲化され、「小泉純一郎」が総理大臣となった際に、内閣発足時の所信表明演説で引用したことでも知られる「米百俵」の逸話です。