関東・甲信越地方

新発田藩(しばたはん)

溝口家

溝口家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
10万石 越後
(新潟県)
新発田城 溝口家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 溝口家

溝口秀勝
溝口宣勝
溝口宣直
溝口重雄
溝口重元
溝口直治
溝口直温
溝口直養
溝口直侯
溝口直諒
溝口直溥
溝口直正

10万石 外様

豊臣家、新政府軍と反主流の立場にありながら存続した藩

豊臣家、新政府軍と反主流の立場にありながら存続した藩

越後国(えちごのくに:新潟県)を領有してきた「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)が、豊臣秀吉の命により会津へ移ったのは、1598年(慶長3年)のこと。

それに替わって同地には、高田(福嶋)、坂戸、村上、新発田に分割して、豊臣方の重臣が配されました。

新発田の地を与えられたのは、「溝口秀勝」(みぞぐちひでかつ)です。織田信長に才能を見出され、「本能寺の変」以降は秀吉の配下となり、1586年(天正14年)には豊臣姓を下賜。

秀勝は、「関ヶ原の戦い」には参戦しませんでしたが、同時期に越後一帯で発生した、上杉旧臣らによる一揆の鎮圧に尽力。

これは、言わば己の身に降りかかった火の粉を払ったものでしたが、それでも徳川方に反発していた上杉家が裏で糸を引いた一揆勢力を征伐したことは、徳川方の東軍に味方する行為とみなされ、この軍功により6万石を与えられて、正式に新発田藩(しばたはん:現在の新潟県新発田市)が成立しました。

当時の領地は、現在の新発田市のみならず越後平野一帯に及ぶ広大なもの。しかし、当時の名を蒲原平野と言ったように、このあたりは水草の生い茂る低湿地帯で農地には適していませんでした。それを干拓や治水工事により、日本を代表する穀倉地帯にまで開拓したのは正しく、新発田藩の功績だったのです。

新発田城本丸表門・辰巳櫓

新発田城本丸表門・辰巳櫓

新発田には代々勤王の伝統があり、「王事に尽くすことは歴代藩侯の遺訓であり、勝敗は問うところではない」との考えは、広く領民にまで浸透していました。

「大政奉還」後、朝廷から10万石以上の諸大名に対して「列侯会議」(れっこうかいぎ)を開くために上洛の勅命が出された際にも、新発田藩は他藩に先駆けてこれに応じ、幼君・直正の名代として江戸詰の家老を派遣。

戊辰戦争」においても尊王を掲げる新政府寄りの立場を取ろうとしましたが、周辺諸藩がいずれも旧幕府寄りだったことから、その圧力に抗しきれず、やむなく薩長に対抗するために結成された「奥羽越列藩同盟」に加盟することとなったのです。

同盟側は新発田藩の参加を確実なものにしようとして、当時の藩主「溝口直正」(みぞぐちなおまさ)を人質に取ろうと謀りましたが、新発田藩の領民達からの強い抵抗によって、阻止。

いよいよ戦火が迫ると、結局新発田藩は、元々の方針に帰って新政府軍に合流し、参戦を決断します。新発田藩の内応によって、新政府軍の海上部隊は佐渡から急襲。奥羽越列藩同盟は、壊滅的打撃を受けて敗退します。

その一方で、新発田の地は戦火の被害から守られることとなりました。同じ越後の長岡藩では、多くの民が戦火で家を失うことに。田畑を荒らされたことと比べれば、新発田藩のこの選択は正しかったとも言えるのです。

しかし、当時としては裏切りには違いなく、「新発田は裏切り者」との悪感情は、今もなお、新潟県民の中に残っているとも言われます。新発田の人々もそうした誹りを受け続けてきたせいか、どこか排他的で他の市区町村に対して非協力的だとする声もあるのです。

第二次大戦においては、やはり裏切り者のイメージがあったため、新発田連隊は取り分け過酷な戦地へ送られたとする評もありました。

ともあれ溝口氏は、豊臣家臣~外様大名と、常に反主流の立場にありながら、その巧みな舵取りによって、明治時代に至るまで取り潰しに合うこともなく、12代にわたって新発田の地を統治し続けたのです。

請西藩(じょうざいはん)

松平[滝脇]家

松平[滝脇]家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
1万石 上総
(千葉県)
真武根陣屋
(まふねじんや)
[請西陣屋]
松平[滝脇]家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 林家

林忠英
林忠旭
林忠交
林忠祟

1万石 譜代
2. 松平[滝脇]家

松平信敏

1万石 譜代

昭和まで続いた日本最後の大名

昭和まで続いた日本最後の大名

千葉県木更津市請西(じょうざい)において、江戸時代末期に成立した請西藩。

初代藩主となる「林忠英」(はやしただふさ)は、松平(三河)家の譜代として、代々番方(ばんかた:将軍や主君の身辺の護衛などを担当した、江戸幕府における武官系の職制区分)を務めてきた旗本の家柄でした。

しかし、1787(天明7年)に、「徳川家斉」(とくがわいえなり)が11代将軍に就任すると、その小姓として仕え、寵愛を受けることになったのです。

家斉は、幕政にもお構いなしに夜な夜な大奥へ入り浸り、浴びるほどに酒を呑んだことから「俗物」と揶揄されましたが、それでも将軍の威光は絶大。忠英は、家督を相続すると、栄進や加増を重ねて、1822年(文政5年)には、それまでの3,000石の旗本から7,000石に。1825年(文政8年)、若年寄に昇進すると、さらに3,000石の加増を受けて計1万石となりました。そして、ついに大名に列するまでに至ったのです。

こうして、望陀郡貝淵村(もうだぐんかいふちむら:現在の木更津市貝淵)に陣屋を構えて、請西藩の前身となる貝淵藩が誕生すると、そのあともなにかに付けて加増を受け、最大1万8,000石までの加増となりました。

しかし、家斉が1841年(天保12年)1月に死去すると、4月には12代将軍「徳川家慶」(とくがわいえよし)と老中「水野忠邦」(みずのただくに)からの粛清を受けて、8,000石を没収されたうえ、忠英は若年寄を罷免されてしまいます。さらに同年7月には、強制隠居を命じられました。家斉との「不適切な関係」をとがめられたと言う訳です。

1843年(天保14年)、「天保の改革」(てんぽうのかいかく)の一環として行なわれた印旛沼(いんばぬま)における堀割(ほりわり:地面を掘って造った水路)の手伝普請を命じられたことで、さらに藩の財政は逼迫(ひっぱく)します。

1850年(嘉永3年)、忠英の跡を継いだ息子の忠旭(ただあきら)は、陣屋を上総国望陀郡請西村に移し、以後は、「請西藩」と呼ばれることになりました。

貝淵藩から数えて4代目の藩主となった「林忠崇」(はやしただたか)は、忠旭の5男。兄達がいずれも早世し、3代藩主を務めた叔父の忠交(ただかた:忠英の4男。伏見奉行として、寺田屋事件で坂本龍馬捕縛を画策するも失敗)も23歳と若くに亡くなっています。しかし、忠交の息子も幼少であったため、1867年(慶応3年)に、忠崇が家督を継ぐことになったのです。

忠崇は、幼いころから文武に才を見せ、将来は幕府の閣僚にまで出世する器だと評されていました。藩主となった翌年、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)において、新政府軍に恭順するか、徹底抗戦するかで藩論は二分されます。そのなかで、上総に転じた旧幕府軍から助力要請を受けると、忠崇はこれに与することを決意。このとき、まだ20歳になる前という若さゆえか自ら脱藩すると、70人の藩士達と共に遊撃隊として、これに参加したのです。

江戸湾を渡って相模湾に上陸し、箱根や伊豆で新政府軍と交戦すると、そのあとは奥州(おうしゅう:現在の宮城県福島県岩手県青森県秋田県北東部)に転戦するも、戦力や技術力で上回る相手に連戦連敗。そんな中、「徳川宗家が諸侯として存続する」と知らされ、「大義が果たされた」とようやく降伏に至りました。

藩主自らの脱藩は悪質な反逆だとして、1868年(明治元年)に、請西藩は改易。戊辰戦争の結果によって減封された藩は数あれど、請西藩が唯一、改易された藩となったのです。

維新後は下級士族として過ごした忠崇ですが、1893年(明治26年)には旧藩士の嘆願もあって爵位を授かり、以後は日光東照宮などに勤めました。

忠崇が「最後の大名」としての生涯を閉じたのは、1941年(昭和16年)のことで、享年92歳でした。死の直前に辞世の句歌を求められた忠崇は、「(辞世は)明治元年にやった。今はない」と答えたと伝えられています。

高田藩(たかだはん)

榊原家

榊原家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
15万石 越後
(新潟県)
高田城 榊原家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 堀家

堀秀治
堀忠俊

45万石 外様
2. 松平[長沢]家

松平忠輝

75万石 親藩
3. 酒井家

酒井家次
酒井忠勝

10万石 譜代
4. 松平[越前]家

松平忠昌
松平光長

25.9万石 親藩
5. 稲葉家

稲葉政往

10.3万石 譜代
6. 戸田家

戸田忠真

6.8万石 譜代
7. 松平[久松]家

松平定重
松平定逵
松平定輝
松平定儀
松平定賢

11.3万石 譜代
8. 榊原家

榊原政永
榊原政敦
榊原政令
榊原政養
榊原政愛
榊原政敬

15万石 譜代

懲罰的意味合いとして存在した藩

懲罰的意味合いとして存在した藩

戦国時代には、「上杉謙信」の領地として知られた越後国。

謙信を継いだ景勝(かげかつ)が、「豊臣秀吉」の命により、加増のうえで「会津藩」(あいづはん:現在の福島県)へ移ると、1598年(慶長3年)からは、秀吉の家臣「堀秀治」(ほりひではる)が、越後国を治めることとなりました。

秀吉の死後、同じ五大老であった景勝と、「徳川家康」との間で対立が深まっていきます。1600年(慶長5年)、景勝は、家臣の「直江兼続」(なおえかねつぐ)と共に画策し、越後国内に残っていた上杉の旧臣や僧侶らを蜂起させ、「関ヶ原の戦い」の前哨戦となる「上杉遺民一揆」(うえすぎいみんいっき)を起こしたのです。

この一揆において、越後国の領主であった堀家は、反・徳川として豊臣方の西軍に与していた景勝に対抗するため、もとの主君である秀吉の西軍側ではなく、徳川方の東軍に付くことを決意。関ヶ原の戦いの本戦には参加しませんでしたが、越後国内の一揆鎮圧に務めた功績を家康に買われ、戦後も越後の地を所領することを認められたのです。

このことにより、幕藩体制下における越後「高田藩」が成立しました(同名の高田藩は、豊後国[ぶんごのくに:現在の大分県の大部分]、美作国[みまさかのくに:現在の岡山県北東部]にも存在しましたが、越後国の同名藩との関連はありません)。

このとき、上杉時代からの領主の居城とされた山城である「春日山城」(かすがやまじょう:現在の新潟県上越市)を廃し、新たに平城の「福嶋城」(ふくしまじょう:新潟県上越市)を築城して本拠としたことから、高田藩は「福嶋藩」とも呼ばれています。

高田城 三重櫓

高田城 三重櫓

しかし、堀家は結局は外様大名。1608年(慶長13年)、秀治の死後に政務を取り仕切ってきた「堀直政」(ほりなおまさ)が没し、後継者争いによるお家騒動が起きると、あっさりと改易されてしまったのです。

そして1624年(寛永元年)、「福井藩」(ふくいはん:現在の福井県)の松平(越前)家のトラブルに関連して、その家系の仙千代(せんちよ:のちの松平光長[まつだいらみつなが])が、26万石で新たに高田藩を立藩しました。以後、高田藩は、徳川の親藩や譜代の大名が治めることとなったのです。

光長は幼少であったため、実際の政務は、家臣の「小栗五郎左衛門」(おぐりごろうざえもん)らが中心となって取り仕切りました。また、五郎左衛門の子・美作(みまさか)も、1665年(寛文5年)の大地震後に、様々な開発を行ない、高田藩復興と安定した藩政に尽力しています。

しかし、1674年(延宝2年)、光長の嫡男が早世したことで、跡継ぎを巡るお家騒動が勃発。このとき光長は、すでに60歳とあって、早く後継者を指名しなければなりませんでした。その候補に挙がったのは、光長の異母弟である「永見長良」(ながみながよし)、同じく甥である「永見万徳丸」(ながみまんとくまる)、そして小栗美作の次男・大六(だいろく)の3人。

評議の結果、15歳の万徳丸を世継ぎとすることで決まりましたが、家中では、美作が大六を世継ぎにしようと企んでいるとの疑惑が持ち上がりました。しかし、これは、長年にわたって藩政を仕切ってきた、美作一党を排除するための策略だったのです。

反・美作の藩士達は、自らを藩のために立ち上がった「お為方」(おためがた)と称し、美作の一派を藩主の意に反する「逆意方」(ぎゃくい)とのレッテルを貼ると、光長に美作の悪政を訴え出て、その隠居を要求しました。美作はこれに応じましたが、家中では、「美作が城下から逃げ出そうとしている」とさらに騒ぎが起こります。

このような事態を収拾できなくなった光長は、大老の「酒井忠清」(さかいただきよ)に裁定を依願。酒井は、両派に和解を申し渡しました。

しかし、それでも騒動は収まらず1681年(延宝9年)には、ついに将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)直々の裁定が下されたのです。その内容は、逆意方とお為方の双方に、切腹や遠島(えんとう:江戸幕府や一部の藩において行なわれた刑罰のひとつで、島流しのこと)を科す厳しいもの。

さらに光長も管理能力不足として、領地没収のうえ、蟄居(ちっきょ:自宅などの一定の場所に閉じ込め、謹慎させた刑罰)を命じられています。こうした経緯から、高田の地に対する世間の印象は悪化。これ以降の高田藩は、「懲罰的意味合いの転封地」と見なされることとなりました。

館林藩(たてばやしはん)

秋元家

秋元家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
7万石 上野
(群馬県)
館林城 秋元家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 榊原家

榊原康政
榊原康勝
榊原忠次

11万石 譜代
2. 松平[大給]家

松平乗寿
松平乗久

5.5万石 譜代
3. 徳川家

徳川綱吉
徳川徳松

25万石 親藩
4. 松平[越智]家

松平清武
松平武雅
松平武元

5.4万石 親藩
5. 太田家

太田資晴
太田資俊

5万石 譜代
6. 松平[越智]家

松平武元
松平武寛
松平斉厚

6.1万石 親藩
7. 井上家

井上正春

6万石 譜代
8. 秋元家

秋元志朝
秋元礼朝

7万石 譜代

藩主「徳川綱吉」が4日だけ宿泊したという、時代に翻弄された藩

藩主「徳川綱吉」が4日だけ宿泊したという、時代に翻弄された藩

15世紀、室町時代には「尾曳城」(おびきじょう:現在の群馬県)なる山城が築かれたと伝えられ、この地にまつわる最も古い文献としては、「1471年[文明3年]に、上杉軍が赤井家の居城、立林城[館林城]を攻略した」と記した物が確認されています。

戦国時代には、上杉、武田、北条の3家でこの地を巡って争いました。しかし、「小田原征伐」(おだわらせいばつ)後の1590年(天正18年)、「徳川家康」が関東へ入るにあたって、徳川四天王のひとりである「榊原康政」(さかきばらやすまさ)に館林10万石を与え、これが「館林藩」(たてばやしはん:現在の群馬県)の始まりとなったのです。

1643年(寛永20年)、歴々藩主を務めてきた榊原家が陸奥「白河藩」(しらかわはん:現在の福島県)へと移ると、いったん館林藩は廃藩とされ、幕府直轄領となります。

その翌年には、遠江「浜松藩」(はままつはん:現在の静岡県)から来た松平家が入封しましたが、1661年(寛文元年)に、これが下総国佐倉(しもうさのくに・さくら:現在の千葉県佐倉市)に移ると、代わってときの4代将軍・家綱(いえつな)の弟にあたる綱吉(つなよし)が、25万石で館林藩主となりました。

とはいえ、実際に綱吉が館林藩を取り仕切った訳ではありません。綱吉のために給料付きの別荘として館林の地をあてがったということであり、簡単に言えば、お小遣いとして貰ったような物。綱吉は江戸定府の藩主とされ、基本的には、江戸の「神田御殿」(かんだごてん)に居住したままでした。

藩主としての20年の治政のあいだで、綱吉が館林城に宿泊したのは、「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)で執り行なわれた、「家康五十回忌法要」の帰途に4泊したのみ。

徳川本家の4男坊にすぎなかった綱吉には、そもそも直属の家臣もおらず、館林城には、何かことが起きたときのための世話役が、わずか22名置かれていただけだったとも伝えられています。

館林城 土橋門

館林城 土橋門

家綱が急逝し、後継ぎもいなかったことから、綱吉が5代将軍になると、一時的に実子の徳松(とくまつ)に館林藩主の位を譲りましたが、その徳松もわずか4歳で早世。そのため、館林は再び幕府領とされることになったのです。

そののちも館林は、立藩されたり廃藩で幕府領に戻ったりを繰り返し、ひとつの家柄が長く治めることはありませんでした。

また、館林藩は、徳川直系やその重臣らが歴代藩主を務めてきた、幕府と縁の深い藩だった一方で、幕末には、常州「水戸藩」(みとはん:現在の茨城県)と共に、関東における尊王攘夷派の急先鋒となります。

1845年(弘化2年)に、出羽「山形藩」(やまがたはん:現在の山形県)から6万石で入封した「秋元志朝」(あきもとゆきとも)が、「長州藩」(ちょうしゅうはん:現在の山口県)と縁戚関係にあったことが、その大きな理由だったのです。

藩主としての志朝は、当初江戸詰めでありながら居城を館林に移し、「安政大震災」(あんせいだいしんさい)による被害からの復興に尽力。藩校を設立して教育にも努めるなど善政を行なったものの、長州藩との関係が幕府からの嫌疑を招き、1864年(元治元年)の「禁門の変」(きんもんのへん)で、強制隠居の処分を下されています。

それでも藩内の討幕ムードが変わることはなく、1868年(明治元年)の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)でも、新政府軍の一員として「奥州征伐」(おうしゅうせいばつ)に加わり、軍功を挙げました。

1872年(明治5年)の廃藩置県の際には、館林県が置かれ、のちに栃木県に編入。しかし、1876年(明治9年)、右大臣「岩倉具視」(いわくらともみ)の達しにより、群馬県に移されて現在に至っています。

1999~2010年(平成11~22年)頃にかけて、日本全国で行なわれた市区町村の統廃合、いわゆる「平成の大合併」(へいせいのだいがっぺい)において、群馬県内で唯一館林市だけがこれを行なわなかったのも、そうした歴史的経緯が関連していたのかもしれません。

鶴牧藩(つるまきはん)

水野家

水野家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
1.5万石 上総
(千葉県)
鶴牧城 水野家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 水野家

水野忠韶
水野忠実
水野忠順

1.5万石 譜代

学問を奨励した高レベルの教育藩

学問を奨励した高レベルの教育藩

1827年(文政10年)、江戸湾警備の幕命を受けた「水野忠韶」(みずのただてる)は、居所を上総国市原郡椎津村(かずさのくにいちはらぐんしいずむら:現在の千葉県市原市椎津)に移しました。

所領は市原郡と現在の袖ケ浦木更津を中心とした、望陀郡(もうだぐん)と呼ばれる一帯。これ以前に忠韶は、安房国(あわのくに:現在の千葉県房総半島)の北条藩主で、城主格の大名であったことから、ここでも大名の格付けとなるのです。

新たに作られた陣屋は「鶴牧城」と名付けられ、これが「鶴牧藩」(つるまきはん:現在の千葉県)の始まりとなりました。陣屋の置かれた場所が椎津であるにもかかわらず、それとは異なる鶴牧とされたのは、忠韶の江戸の別邸があった、「早稲田鶴巻町」(わせだつるまきちょう:現在の東京都新宿区)に由来しているため。

ちなみに水野家は、徳川家康の生母「伝通院」(でんづういん:お大の方)の生家であり、分流として鶴牧藩の他にも多くの親藩を出した名門です。

忠韶は、鶴牧に移った翌年に死去しますが、そのあとは養子の「水野忠実」(みずのただざね)が継ぐことになりました。忠実は藩政において、財政再建のために、倹約などの諸政策を講じます。目覚ましい効果は無かったものの、領民達からは「善政の名君」として慕われ、1832(天保3年)に転封(てんぽう:大名の領地を他に移すこと)の話が持ち上がった際には、それを知った領民達が反対の騒動を起こして、撤回されるという一件も起こりました。

1842年(天保13年)に、その忠実も死去。嫡男の「水野忠順」(みずのただより)があとを継ぐと、1868年(明治元年)、鶴牧藩内の市原郡五井村において、「五井村戦争」が起こります。これは、「市川・船橋の戦い」に敗れた幕府軍が、鶴牧の地で体勢を立て直し、房総半島における最後の抵抗を見せた戦い。

この際に、鶴牧藩から幕府軍への援助があったのではないかとの嫌疑が掛けられ、新政府は同年に、水野家の所領であった安房国長狭や、上総国夷隅・市原・埴生・長柄・山辺などを召し上げます。しかし、代わりに忠順は、上総国市原と望陀郡の小領を与えられるのです。

翌年の版籍奉還後において、忠順は藩知事となりましたが、1871年(明治4年)の廃藩置県で、鶴牧藩は廃藩とされました。

一方で、忠順は学問の振興にも力を注ぎ、藩士達に文武両道を諭すと共に、「修来館」という藩校も開きます。士族や足軽の子弟が8歳になると、いわば義務教育として、必ず就学。四書五経に始まって、算術から礼儀作法、剣・銃・弓などの各種武術まで。25歳で卒業するまでの間、みっちり教え込まれたのです。こうした幕末の動乱の中、教育レベルとしては、現代に匹敵するか、それ以上とも言えました。

さらに忠順は、学者を動員して、かねてからその内容に不満を抱いていた「史記評林」(しきひょうりん:司馬遷が著した中国最初の歴史書[史記]に対する後世の研究や論評をまとめた物)の改訂を手掛け、30年間の歳月と小藩には分不相応な巨額を投入して、1869年(明治2年)に、「鶴牧版史記評林」を完成。当時の学者達から絶大なる賞賛を受け、明治天皇に御前開講までも行なったのです。

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