関東・甲信越地方

糸魚川藩(いといがわはん)

松平[越前]家

松平[越前]家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
1万石 越後
(新潟県)
糸魚川陣屋 松平[越前]家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 有馬家

有馬清純

5万石 外様
2. 本多家

本多助芳

1万石 譜代
3. 松平[越前]家

松平直之
松平直好
松平堅房
松平直紹
松平直益
松平直春
松平直廉
松平直静

1万石 親藩

跡目相続の果てに糸魚川に流れ着いた藩主

跡目相続の果てに糸魚川に流れ着いた藩主

現在の新潟県糸魚川市にあたる「糸魚川藩」(いといがわはん)。別名では、藩主が居城とした「清崎城」(きよさきじょう)に由来して「清崎藩」とも言われ、廃藩置県後の一時期には清崎県とされていました。

戦国時代の上杉家の支配が終わったあとも、江戸と越後を結ぶ千石街道(ちくにかいどう)と北陸沿岸を通る北陸道が交わる接点の宿場町として栄え、1610年(慶長15年)に越後国「高田藩」(たかだはん:現在の新潟県)の一部とされると、その地勢的重要さから糸魚川城代が置かれ、高田藩の家老格がこの地を治めたのです。

しかし1681年(延宝9年)、高田藩主の「松平光長」(まつだいらみつなが)が世継ぎを決める上でのお家騒動(越後騒動)を起こした咎で改易されると、1691年(元禄4年)になって日向「延岡藩」(のべおかはん:現在の宮崎県)から外様の「有馬清純」(ありまきよずみ)が5万石で入封。これにより高田藩から独立した形での糸魚川藩が成立しましたが、わずか4年で有馬家は移封となり廃藩となります。

そのため、いったんは幕府直轄の天領とされましたが、1699年(元禄12年)に「本多助芳」(ほんだすけよし)が1万石で入封して藩として復活。1717年(享保2年)には越前「松平家」から「松平直之」(まつだいらなおゆき)が入ることとなりましたが、直之が糸魚川にたどり着くまでには、大変な紆余曲折があったそうです。

直之の曽祖父にあたる越前福井藩主「松平光通」(まつだいらみつみち)は、当時美人と名高かった「国姫」を迎えると、彼女を溺愛しましたが、国姫は寵愛を受けながらも子宝に恵まれませんでした。側室には、嫡男にあたる「直堅」(なおたか)が生まれていましたが、あくまでも国姫との間に生まれた子にあとを継がせたいとの思いから、光通はこれを認知しません。

しかし、そんな光通の思いをプレッシャーに感じて国姫は自害してしまいます。そうなれば当然直堅があとを継ぐべきところですが光通はそれを頑なに許さず、あろうことか自らも国姫のあとを追うと、その遺言として自身の弟である「昌親」(まさちか)を後継に指名しました。

いわば棚から牡丹餅の昌親でしたが、そのとき邪魔になるのは光通嫡子の直堅であり、身の危険を察した直堅は信頼できる家臣を連れて福井を脱出して江戸に潜伏します。江戸では幸いにも4代将軍「家綱」(いえつな)に目通りが叶い、直堅は1万石を与えられ一家を構えることを認められました。そうして、その孫の直之の代になってようやく糸魚川に封地を与えられたのです。

とは言え松平家は、定府大名(じょうふだいみょう)として江戸に居住(小藩ゆえ財政的に参勤交代ができないため)。実質的な統治は、藩主の居城の清崎城とは別に置かれた糸魚川陣屋において、郡代(ぐんだい)が行なっていました。

加賀の井酒造

加賀の井酒造

そののち、糸魚川藩は享保末期から天災が相次いだこともあり財政が著しく悪化。このため増税を行なったことが領民達の怒りを買うと、事態打開のために改革を実施しようとしたものの失敗。これに伴う苛酷な御用金の徴収に対して一揆が頻発する事態に陥りました。

1650年(慶安3年)に、この地で酒造を始めてから今も続く「加賀の井酒造」は、酒処の新潟県でも最古の酒蔵。この酒を献上された「加賀藩」(かがはん:現在の石川県)の「前田利常」(まえだとしつね)がいたく気に入って、加賀ではないのに特例としてその字を使うことを許したことがその屋号の由来です。

2016年(平成28年)の糸魚川市大規模火災によって、酒造を含めた社屋は全焼となりましたが、再建されて2018年(平成30年)より出荷が再開されています。

宇都宮藩(うつのみやはん)

戸田家

戸田家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
7.7万石 下野
(栃木県)
宇都宮城 戸田家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 奥平家

奥平家昌
奥平忠昌

10万石 譜代
2. 本多家

本多正純

15.5万石 譜代
3. 奥平家

奥平忠昌
奥平昌能

11万石 譜代
4. 松平(奥平)家

松平忠弘

15万石 譜代
5. 本多家

本多忠平

11万石 譜代
6. 奥平家

奥平昌章
奥平昌成

9万石 譜代
7. 阿部家

阿部正邦

10万石 譜代
8. 戸田家

戸田忠真
戸田忠余
戸田忠盈

7.7万石 譜代
9. 松平[深溝]家

松平忠祇
松平忠恕

6.6万石 譜代
10. 戸田家

戸田忠寛
戸田忠翰
戸田忠延
戸田忠温
戸田忠明
戸田忠恕
戸田忠友

7.7万石 譜代

赤穂浪士も参考にした「浄瑠璃坂の仇討ち」(じょうるりざかのあだうち)

赤穂浪士も参考にした「浄瑠璃坂の仇討ち」(じょうるりざかのあだうち)

鎌倉・室町時代から下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)を始めとする各地の守護職を務め、戦国時代には関東八家にも数えられた名門・宇都宮家(うつのみやけ)。

豊臣秀吉」の世になって「太閤検地」(たいこうけんち)で石高を過少申告していたことが発覚したため所領没収のうえ改易となりますが、宇都宮の名はそのまま残って今もなお引き継がれています。

日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)が建立されてからは、宇都宮城が徳川家参拝時の宿泊地とされ、城下も宿場町として大いに栄えました。

また、現在の宇都宮市北西部・大谷町一帯から採掘される大谷石は、軽くて加工しやすい上に耐火性に優れるとして飛鳥時代から古墳などに使用されてきた物です。江戸時代には一般用のかまどなどにまで広く使われるようになり、もともとは農閑期に副業として行なっていた石切を本業とする農民が増加します。

これにより、一時的にはかなり潤ったと言うことですが肝心の農業は衰退してしまい、16世紀末から17世紀に入って天災が相次ぐと藩の財政は逼迫。農民の暮らしも困窮することとなりました。

正式に「宇都宮藩」(うつのみやはん)として成立したのは1601年(慶長6年)、「徳川家康」の娘婿である「奥平信昌」(おくだいらのぶまさ)の嫡子、つまりは家康の孫にあたる「奥平家昌」(おくだいらいえまさ)が10万石で入封してからのこと。

しかし、家昌は1614年(慶長19年)に38歳の若さで病没。長男の「忠昌」(ただまさ)が家督を継ぐことになりますが、このときまだ7歳の幼子で、「関東の要衝を任せるには若すぎる」との幕府の意向から下総(しもうさ)「古河藩」(こがはん:現在の千葉県茨城県)に移封となります。

このあとを継いで藩主となったのは、幕府の重臣「本多正純」(ほんだまさずみ)でしたが、宇都宮城に釣天井を仕掛けて2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の暗殺を謀ったとの嫌疑から本多家は改易、正純は流罪となりました(通称:宇都宮城釣天井事件。実際にそうした事実はなく、他の徳川家臣による策謀であったと言われています)。

宇都宮城

宇都宮城

そののち、奥平忠昌が再封しますが、その死後には、かの「赤穂浪士」も参考にしたと言われる事件「浄瑠璃坂の仇討」が勃発。

1668年4月13日(寛文8年3月2日)、忠昌の法要において、ささいなことから口論になった「奥平内蔵允」(おくだいらくらのじょう)と「奥平隼人」(おくだいらはやと)。内蔵允は、怒りに任せて抜刀したが返り討ちの刀傷を負います。この失態を恥じた内蔵允は、その夜のうちに切腹してしまいました。

その半年後、この件に対する藩からの処分が下されます。内蔵允の嫡子「源八」(げんぱち)は、家禄没収の上に藩から追放。しかし、もう一方の当事者である隼人は単に改易を命じられただけと言う不公平なものでした。

源八への同情が集まり仇討の機運が高まると、これを助太刀するために脱藩する者も現れて40名以上が参集。浪士達はまず隼人の実弟を討ち取ると、本命である隼人討伐に向けての作戦計画が練られることとなります。

そうしてことの発端から4年が過ぎた1672年(寛文12年2月3日)の未明、源八とその一党42名はついに隼人の潜む江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の屋敷へ討ち入り、悲願を果たしたのでした。

源八ら一党は、直後に幕府へ出頭して裁きを委ねると(赤穂浪士が討ち入り後に出頭したのもこれに倣ったものと言われます)、その殊勝な態度に感銘を受けた大老「井伊直澄」(いいなおすみ)は切腹ではなく伊豆大島への流罪を申し渡したのです。

なお源八はその6年後、恩赦によって赦免されて「彦根藩」(ひこねはん:現在の滋賀県)の「井伊家」(いいけ)に召し抱えられています。

忍藩(おしはん)

松平[奥平]家

松平[奥平]家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
10万石 武蔵
(埼玉県)
忍城 松平[奥平]家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 松平[深溝]家

松平家忠

1万石 譜代
2. 松平[東条]家

松平忠吉

10万石 親藩
3. 松平[大河内]家

松平信綱

3万石 譜代
4. 阿部家

阿部忠秋
阿部正能
阿部正武
阿部正喬
阿部正允
阿部正敏
阿部正識
阿部正由
阿部正権

10万石 譜代
5. 松平[奥平]家

松平忠堯
松平忠彦
松平忠国
松平忠誠
松平忠敬

10万石 譜代

「のぼうの城」でも有名な藩。局地戦で戦功を残す藩

「のぼうの城」でも有名な藩。局地戦で戦功を残す藩

現在の埼玉県行田市に在した「忍藩」(おしはん)。戦国時代には、後北条氏と上杉氏の係争地となり、代々この地を治めてきた地元豪族の成田氏は両家の間を揺れ動くこととなります。

成田氏の拠点となった「忍城」(おしじょう)は要衝として整備がなされ、周辺の低湿地帯を堀とした堅城となりました。

1569年(永禄12年)、正式に後北条氏に属した成田氏。1590年(天正18年)の「小田原征伐」の際には、小説「のぼうの城」で広く知られることになったように「石田三成」(いしだみつなり)率いる豊臣軍の水攻めを受けながらも落城することなく耐え切ってみせたのです。

しかし、小田原落城から後北条氏が滅亡すると、これに連座して成田氏も没落。忍城は開城され、徳川家康の四男である「松平忠吉」(まつだいらただよし)が忍藩10万石を与えられました。

当時11歳の忠吉に代わって政務を行なった「松平家忠」(まつだいらいえただ)は、まず豊臣軍の水攻めによって荒廃した忍城と城下町を修築し、領内の検地を実施。

1592年(文禄元年)に、家忠が下総国上代に移ると、忠吉の家老「小笠原吉次」(おがさわらよしつぐ)は兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事で手腕をふるっています。

そののち「関ヶ原の戦い」で忠吉が武功を挙げたことから「尾張藩」(おわりはん:現在の愛知県西部)52万石に加増移封されたことでいったん忍藩は廃され、幕府直轄の天領とされました。

忍城

忍城

1633年(寛永10年)には「知恵伊豆」こと「松平信綱」(まつだいらのぶつな)が3万石で入って忍藩は再興されましたが、これも「島原の乱」鎮圧の功績から「武蔵川越藩」(むさしかわごえはん:現在の埼玉県川越市)6万石に加増移封されます。

これに代わって入封したのは3代将軍「家光」の下で老中にまで昇進した「阿部忠秋」(あべただあき)で、そのあとも歴代藩主となった阿部氏が老中に昇進したことから、忍藩は「老中の藩」とも称されました。

しかし、18世紀半ば以降は相次ぐ洪水や1783年(天明3年)の浅間山噴火とそれに伴う大飢饉の被害を受けて藩政は不安定化。阿部氏9代目となる「正権」(まさのり)は「陸奥国白河藩」(むつのくにしらかわはん:現在の福島県)に転封されます。

代わって入封したのは「伊勢国桑名藩」(いせのくにくわなはん:現在の三重県)の「松平忠尭」(まつだいらただたか:戦国時代、三河の奥平家を始祖とする奥平松平氏)で、以後明治の時代になるまで松平氏の治政が続くことになりました。

幕末、松平家3代藩主の「松平忠国」(まつだいらただくに)は幕府から異国船の警備を任じられます。1853年(嘉永6年)にペリーが来航し、幕府が品川砲台(現在のお台場)を完成させると、忍藩はその第三台場(現在の台場公園のあたり)の警護を担当。

相次ぐ幕府からの要請によって忍藩の財政は逼迫し、「安政の大地震」と大洪水で領内が大被害を受けると出費はさらに重なりました。この頃の忍藩の借金総額は76万両と言われ、幕府の年間予算が約160万両であったことと比べても、これがいかに途方も無い物だったかが分かります。

「第二次長州征伐」の際には、幕府軍の殿(しんがり)まで任されたほどの忍藩でありながら、「大政奉還」後の「戊辰戦争」に際して新政府側に与することに決めた要因のひとつには、前述のような幕府の過剰なまでの要求に嫌気がさした部分があったと言うことです。

江戸で敗れた旧幕府軍約850名が逃げ込んできて、忍城を拠点として籠城戦を挑もうと勝手なふるまいをした際には、わずかな軍資金と草鞋を与えて立ち退かせたりもしています。

小田原藩(おだわらはん)

大久保家

大久保家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
11.3万石 相模
(神奈川県)
小田原城 大久保家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 大久保家

大久保忠隣

6.5万石 譜代
2. 阿部家

阿部正次

5万石 譜代
3. 稲葉家

稲葉正勝
稲葉正則
稲葉正往

10.2万石 譜代
4. 大久保家

大久保忠朝
大久保忠増
大久保忠方
大久保忠興
大久保忠由
大久保忠顕
大久保忠真
大久保忠愨
大久保忠礼
大久保忠良

11.3万石 譜代

徳川十六神将「大久保忠世」の末裔藩

徳川十六神将「大久保忠世」の末裔藩

平安時代の末期から、当地の豪族が拠点としてきた小田原。後北条氏が関東一円を支配した際にも、この地を本拠とし、「上杉謙信」や「武田信玄」の侵攻を退けた「小田原城」は、「難攻不落の城」とも称されました。

豊臣秀吉の「小田原攻め」に備えては、総延長9㎞にも及ぶ日本屈指の長大な土塁と空堀りの総構えを築き、城下一帯をぐるりと取り囲みます。これにはさすがの秀吉も正面突破とはいきません。総勢20万を越えるとも伝わる大勢力で取り囲み、3ヵ月に及ぶ持久戦の末に、無血開城に追い込んだのです。

なお、このとき後北条側では「籠城するか討って出るか」の会議が開かれたものの、意見がまとまることはなく、これにちなんで「結論の出ない会議」のことを「小田原評定」と言うようになりました。

そののち、小田原には秀吉からの名指しもあって、徳川家康の家臣「大久保忠世」(おおくぼただよ)が入り、その嫡男である「忠隣」(ただちか)の代になって、小田原藩が立藩されます。

しかし忠隣は、江戸時代になって改易。理由は豊臣方との近しさや、日頃のふるまいが不興を買ったため、あるいは陰謀によるものと様々に言われています。そのあと幕領とされるのに伴って、小田原城は城下町を取り囲む外郭を取り壊されて、その規模を大幅に縮小することとなりました。

2代将軍の「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が、小田原に隠居して大御所政治を行なうプランもありましたが、これは秀忠の健康悪化のため果たせませんでした。それ以降の小田原は、幕府の重臣に対する言わば褒賞としての扱いとなります。

小田原城

小田原城

そうして領主が様々に代る中、幕末になって「大久保忠朝」(おおくぼただとも)が先祖・忠隣以来の一族の念願だった小田原再入を果たすのです。

しかし、時代は変わっても、東西それぞれにとって、箱根の関所を押さえる要衝であることに変わりはなく、維新の頃になると、大久保家は幕府と新政府のそれぞれからの圧力を受けることになります。

大久保家としては、先祖伝来のこの地を手放さないことこそが最大の命題であり、一度は幕府側の遊撃隊撃退に乗り出しながら、その遊撃隊と同盟を結んで新政府軍への対抗姿勢を見せるなど、藩の方針は揺れ動くのです。

明治時代になると、幕府側についたことへの処分を受け、藩主だった「大久保忠礼」(おおくぼただのり)は永蟄居(えいちっきょ)となりますが、その一方で、家名の存続が許され、小田原城もそのまま新政府に預け置かれたのは、前述のような大久保家の事情を鑑みてのことでした。

事実上、最後の小田原藩主となったのは宗家を相続した「大久保忠良」(おおくぼただよし)です。しかし、政府からの俸禄は江戸時代の頃と比べて、10分1にも満たない2千300石に過ぎませんでした。そんな中、忠良は東京に移住して、家督を養父に譲り陸軍に入隊。「西南戦争」の激戦地に出征して、戦死を遂げることとなったのです。

ちなみに現在も姿を残す小田原城は、昭和35年(1960年)に復興された物。その原型は、後北条氏時代の居館部分を改修する形で、江戸時代に築かれています(実際に後北条氏が詰めていた城は、現在の天守の後方、八幡山にありました)。その天守や櫓、城壁は、「寛永、元禄の大地震」や「関東大震災」において度々倒壊してきましたが、現在では江戸末期の姿に完全復元する計画も持ち上がっています。

川越藩(かわごえはん)

松平[松井]家

松平[松井]家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
8.4万石 武蔵
(埼玉県)
川越城 松平[松井]家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 酒井[雅楽頭]家

酒井忠利
酒井忠勝

10万石 譜代
2. 堀田家

堀田正盛

3.5万石 譜代
3. 松平[大河内]家

松平信綱
松平輝綱
松平信輝

7万石 譜代
4. 柳沢家

柳沢吉保

11.2万石 譜代
5. 秋元家

秋元喬知
秋元喬房
秋元喬求
秋元凉朝

6万石 譜代
6. 松平[越前]家

松平朝矩
松平直恒
松平直温
松平斉典
松平典則
松平直侯
松平直克

17万石 親藩
7. 松平[松井]家

松平康英
松平康載

8.4万石 譜代

武蔵国の軍事的要所、太田道灌がその礎を築く

武蔵国の軍事的要所、太田道灌がその礎を築く

江戸城の築城で知られる室町時代後期の武将「太田道灌」(おおたどうかん)が、江戸城と同時期に、相模守護「上杉持朝」(うえすぎもちとも)の命により、古河公方(こがくぼう:下総国古河[しもうさのくに・こが:現在の茨城県古河市]を根拠地とした、足利成氏[あしかがしげうじ]とその子孫の呼び名)に対抗すべく築いたのが「川越(河越)城」でした。道灌が築城祝いの宴を開いた際に、初雁(はつかり)が飛来したことに由来して、別名「初雁城」とも呼ばれています。

戦国時代には、後北条氏の居城となりますが、1590年(天正18年)の小田原征伐では、「前田利家」(まえだとしいえ)の軍勢がこれを制圧しました。

徳川家康の関東移封に伴い、家康最古参の家臣である「酒井重忠」(さかいしげただ)が1万石で入封し、川越藩が成立。武蔵国の中央に位置した川越は、古来、軍事上の要所であったことから、そのあとも大老、老中など、幕政の重職についた有力譜代大名や親藩が入封したのです。城下町は、川越街道や新河岸川により、江戸と結ばれて発展し、「小江戸」(こえど)とも称されています。

18世紀の中頃に藩主を務めた「秋元涼朝」(あきもとすけとも)が、「田沼意次」(たぬまおきつぐ)との政争に敗れて山形へ転封となると、1767年(明和4年)には、「前橋藩」(まえばしはん:現在の群馬県)に編入される形で、一時川越藩は消滅。しかし、前橋藩主の「松平朝矩」(まつだいらとものり)が居城を川越に移したことで、川越藩の復活となりました。

川越城本丸御殿

川越城本丸御殿

武蔵国最大の石高17万石となったのもこの時期で、農業だけでなく、絹織物や養魚などの産業も盛んに行なわれています。

その豊かさ故に幕末になると、浦賀など相模湾の防衛を幕府より任じられることになったのです。1837年(天保8年)、のちに「モリソン号事件」と呼ばれた、浦賀沖に現れたアメリカの商船を砲撃したのも、川越藩でした。

1847年(弘化4年)、幕府は、江戸湾防衛を川越藩、彦根藩、「会津藩」(あいづはん:現在の福島県)、忍藩の有力4藩に負わせることを決定。川越藩の分担区域は、三浦半島一帯とその海上とされました。

1853年(嘉永6年)に、ペリーが来航した久里浜(くりはま)も川越藩兵の担当地域で、ときの藩主「松平典則」(まつだいらつねのり)は、ペリーの上陸に同行しています。

1854年(嘉永7年)、2度目のペリー来航に際しても、品川台場において、江戸湾防衛を会津藩・忍藩と共に担い、川越藩は、高輪(たかなわ)に陣屋を構えて、第1台場を受け持ったのです。

このとき、藩の鋳物を請け負っていた「小川五郎右衛門」(おがわごろうえもん)に、長射程のカノン砲を鋳造させて設置。藩内に鉄砲射撃場も造営して、西洋砲術の訓練を行ないました。それ以外にも、川越藩では、剣術の「神道無念流」(しんどうむねんりゅう)を重用し、他流試合を積極的に行なうなど、幕末の動乱を予見した軍事強化に余念が無かったと言われています。

また、川越藩は、開国をめぐる世界情勢にも通じていました。川越藩領となっていた前橋の主力産品である生糸の品質向上と増産を図り、藩の専売品として、横浜の港から輸出したのです。これにより、莫大な利益を得たとも伝えられています。

その一方で、川越藩が江戸湾防衛に移ったあとは、「熊本藩」(くまもとはん:現在の熊本県)が、三浦半島の防衛を引き継ぐ手はずでした。しかし、その準備が遅れたために川越藩は、三浦半島と品川の双方に、延べ6万人もの藩兵を配置することになり、こうした出費が、藩政を圧迫することとなりました。

これに対する反発もあり、1868年(慶応4年)に起こった戊辰戦争に際しては、藩主の「松平康英」(まつだいらやすひで)が新政府に帰順することで藩論をまとめています。そして、川越城の堀を埋めるなど、官軍にひたすら恭順の姿勢を見せて戦火を回避。また、戊辰戦争における局地戦のひとつとなった「上野戦争」(うえのせんそう)においては、敗走する彰義隊(しょうぎたい)の分派を掃討(そうとう)しました。

日本刀(刀剣)に秘められた幾多の魅力を皆様にお届けするサイト、バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」。こちらは「主な江戸100藩」内、「関東・甲信越地方」の1ページ目です。
50音順に「関東・甲信越地方」の主要な藩を掲載。藩主の家紋や、歴代藩主を知ることができるだけでなく、石高や、藩の歴史・逸話を見ることもできます。なかでも藩のエピソードは読み応え十分!写真や画像と合わせて解説しています。
バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」の掲載内容は、日本刀(刀剣)・甲冑(鎧兜)の基礎知識をはじめ、日本刀(刀剣)の歴史や雑学、日本刀(刀剣)にまつわる歴史人や合戦、名刀を生み出した名工達の紹介など盛りだくさん。日本刀(刀剣)に関する各種アプリゲーム、刀剣川柳、四文字熟語といった楽しむコンテンツも充実。日本刀(刀剣)や甲冑(鎧兜)に関する様々な情報を、あらゆる角度からバーチャルの世界でお楽しみ頂けます。

もっと見る▼

注目ワード

ページトップへ戻る