関西地方

大和郡山藩(やまとこおりやまはん)

柳沢家

柳沢家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
15.1万石 大和国
(奈良県)
郡山城 柳沢家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 水野家

水野勝成

6万石 譜代
2. 松平[奥平]家

松平忠明

12万石 譜代
3. 本多家

本多政勝
本多政長
本多忠国
本多政利
本多政信
本多忠英

12万石 譜代
4. 松平[藤井]家

松平信之

12万石 譜代
5. 本多家

本多忠平
本多忠常
本多忠直
本多忠村
本多忠烈

5万石 譜代
6. 柳沢家

柳沢吉里
柳沢信鴻
柳沢保光
柳沢保泰
柳沢保興
柳沢保申

15.1万石 譜代

300年続く金魚の城下町、領主の趣味から一大地場産業へ

300年続く金魚の城下町、領主の趣味から一大地場産業へ

戦国期の大和国(やまとのくに:現在の奈良県)は、寺社勢力や豪族が割拠する混沌状態。

その中から、室町時代には、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府)の守護代であり、一時は「三好政権」(みよしせいけん)とも言うべき勢力を誇った「三好長慶」(みよしながよし)や、その配下でもあり、のちに「織田信長」に寝返った「松永久秀」(まつながひさひで)が勢力を保っていました。

その後、もとは興福寺一条院に属する有力衆徒であった「筒井順慶」(つついじゅんけい)が「郡山城」(こおりやまじょう:現在の奈良県大和郡山市)城主として、支配しています。

1615年(慶長20年)、「大坂の陣」の功績により、三河国「刈谷藩」(かりやはん:現在の愛知県)から「水野勝成」(みずのかつなり)が6万石で移され、大和郡山藩(やまとこおりやまはん:現在の奈良県)が立藩となりました。

現在、奈良県の大和郡山市は、金魚の街。マンホールから道案内板の絵柄まで、金魚のマスコットだらけです。金魚資料館に金魚カフェ、金魚の自動販売機。極めつけは、古い電話ボックスを利用した金魚水槽です。かつては、ガラス張りの電話ボックスに水を張り、そこに数100匹の本物の金魚を泳がせている光景を見ることができました。

郡山城

郡山城

大和郡山は、現在も国内第1位を誇る金魚の生産地。夜店の金魚すくい用の小さい金魚から1匹数10万円の高級観賞用まで、その数は、年間生産量6,000万匹を誇ります。

この地における金魚養殖の由来は、1724年(享保9年)、甲府藩2代・藩主「柳澤吉里」(やなぎさわよしさと)が国替えで大和郡山入り、同藩の藩主となったことです。吉里は、5代将軍・綱吉の寵愛を一身に受けた幕府側用人「柳澤吉保」(やなぎさわよしやす)の長男でした。

甲府藩にいたときも、用水の整備など勧農政策の数々で名君と言われた吉里は、部類の金魚好き。大和路の湧き水の豊かさに加え、水利に恵まれた農業用溜池の多さに着目した吉里は、さっそく城下に金魚作りを推奨したと言います。溜池の水に、金魚の養殖に欠かせない各種ミジンコが豊富に発生していることも決め手になりました。また、大和郡山のもうひとつの名物である数万本の「御殿桜」は、吉里によって捕植された物なのです。

このように、吉里は土地土地にあった改革を行ないました。無論、そのためには、広範な知識とリサーチ能力が必要とされるわけですが、そんな彼の学究肌な一面は、5代将軍のブレーンとして仕えた父・柳澤吉保から受け継いだ能力だと言えます。また、吉里は幼少の頃から和歌に親しみ、生涯読んだ和歌は、1万数千点に及びました。さらには、絵も嗜んだというなかなかの才人だったのです。

幕末の頃になると、藩士の副業として、明治維新後は、職禄を失った藩士や農家の副業として、金魚養殖はさらに盛んになります。もっとも、それも最後の6代藩主「柳澤保申」(やなぎさわやすのぶ)の惜しみない援助があればこそでした。

保申は、「戊辰戦争」で官軍として出陣。その功あって、維新後は伯爵となり、久野山東照宮の宮司も務めています。また、1887年(明治20年)には、「柳沢養魚研究場」を設立し、金魚の研究に勤め、同地の地場産業の発展に尽くしました。

なお、大和郡山城址に建つ「柳澤神社」には、初代藩主・吉里とその父・吉保が祀られています。

淀藩(よどはん)

稲葉家

稲葉家の
家紋
石 高 旧 国 居 城 藩 主
10.2万石 山城国
(京都府)
淀城 稲葉家
藩の歴史
歴代藩主 歴代当主名 石 高 大名の分類
1. 松平[久松]家

松平定綱

3.5万石 親藩
2. 永井家

永井尚政
永井尚征

7.36万石 譜代
3. 石川家

石川憲之
石川義孝
石川総慶

6万石 譜代
4. 松平[戸田]家

松平光煕
松平光慈

6万石 譜代
5. 松平[大給]家

松平乗邑

6万石 譜代
6. 稲葉家

稲葉正知
稲葉正任
稲葉正恒
稲葉正親
稲葉正益
稲葉正弘
稲葉正諶
稲葉正備
稲葉正発
稲葉正守
稲葉正誼
稲葉正邦

10.2万石 譜代

幕末の決断が運命を変えた旧幕府軍敗戦の首謀藩

幕末の決断が運命を変えた旧幕府軍敗戦の首謀藩

江戸城」登城の際の控えの間は「雁の間」(かりのま)であり、雁の間は一般には3万石以上、15万石未満の譜代大名が控える間とされていました。

「淀藩」(よどはん:現在の京都府)は、1622年(元和8年)に「伏見城」(ふしみじょう:現在の京都府)を居城とする「伏見藩」が廃藩になったことにより、翌1623年(元和9年)に「掛川藩」(かけがわはん:現在の静岡県)より、「松平定綱」(まつだいらさだつな)が3万5,000石で入ったことに始まります。

定綱は京都防衛のため、居城となる「淀城」(よどじょう)築城に尽力。この淀城は、「豊臣秀頼」の母「淀殿」に与えられた「淀古城」とは場所が違うとされています。ちなみに淀古城の築城は、「応仁の乱」を引き起こしたとされる、「畠山政長」(はたけやままさなが)です。

松平定綱は、「松尾芭蕉」にも影響を与えたと言われる大名で歌人「木下勝俊」(きのしたかつとし)や、「綺麗さび」で名高い遠州流茶道の祖「小堀遠州」(こぼりえんしゅう:本名[小堀政一])、儒学の大家「林羅山」(はやしらざん)などの当代きっての文化人とも交流があり、1680年(延宝8年)に編纂された歌集「政餘雕玉」(せいよちょうぎょく)にも彼らと共に詩歌が収録されています。また江戸初期の兵法家「小幡景憲」(おばたかげのり)より、甲州流軍学を学んだとされる才人でもありました。

淀城跡

淀城跡

藩政の基盤は、1633年(寛永10年)に「古河藩」(こがはん:現在の茨城県)より入った「永井尚政」(ながいなおまさ)が、城下町の開発や家臣団の編成、木津川の治水事業に尽力し固めることとなります。尚政は、徳川2代将軍「秀忠」の近習として「大坂の陣」で活躍。1622年(元和8年)には、老中にも抜擢され、「井上正就」(いのうえまさなり)、「板倉重宗」(いたくらしげむね)と共に「秀忠近侍の三臣」と評価される名臣でもありました。

以降、石川家、戸田松平家、大給松平家と藩主が替わり、1723年(享保8年)に「稲葉正知」(いなばまさとも)が入ると、以降、稲葉家が幕末まで藩主を務めます。稲葉家は、10万2,000石という大身でしたが、全国にその所領が分散されており、山代国での所領は2万石にも満たなかったとのこと。そのため、他の藩同様に藩財政の窮乏に悩まされ続けることとなりました。

淀藩稲葉家の後世の評判を決定づけたのは、12代藩主「稲葉正邦」(いなばまさくに)です。正邦自身は、幕府の老中職を2度も務め、「板倉勝静」(いたくらかつきよ)や「小笠原長行」(おがさわらながみち)らと共に活躍しましたが、彼の江戸詰の最中に「鳥羽・伏見の戦い」が勃発。城代が、朝廷より朝敵にされた旧幕府軍の受け入れを拒んだため、旧幕府軍の敗戦を決定的なものとしてしまいました。

その後、正邦は旧幕府崩壊時の老中であったため、新政府から謹慎処分となりますが、翌月には許されて京都警備を任され、翌年の版籍奉還によって藩知事となっています。ただし、のちの時代小説などで、旧幕府軍の受け入れ拒絶を批判する記述などもあり、淀藩稲葉家は裏切り者という立場を決定付けてしまうこととなりました。

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