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※ 50音順に掲載しております。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
31.5万石 |
備前国 (岡山県) |
岡山城 | 池田家 |
藩の歴史 | |||
---|---|---|---|
歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 小早川家 | 小早川秀秋 |
51万石 | 外様 |
2. 池田家 | 池田忠継 |
31.5万石 | 外様(準親藩) |
「岡山藩」(おかやまはん)は、備前国と備中国の一部(現在の岡山県の大半)を領した外様大藩です。
最初に入封したのは豊臣秀吉の甥で、毛利一族の養子になった「小早川秀秋」(こばやかわひであき)。「関ヶ原の戦い」での東軍への寝返りの代償に、徳川家康から与えられました。
しかし、その僅か2年後に、秀秋は狂死。跡目がいなかったため、改易(かいえき:身分剥奪、領地没収)となったのです。
そののち、1603年(慶長8年)「姫路藩」(ひめじはん:現在の兵庫県)藩主「池田輝政」(いけだてるまさ)の2男「池田忠継」(いけだただつぐ)が、28万石で岡山に入封。1613年(慶長18年)には10万石の加増を受け、38万石となりましたが、1615年(元和元年)に忠継が無嗣子で没したため、弟の淡路国由良城主「忠雄」(ただかつ)が、31万5,000石で入封します。
しかし、1632年(寛永9年)忠雄が没し、嫡子「光仲」(みつなか)が3歳で藩主に。そこで、山陽道の重要な拠点である岡山を、幼少の身に任せるには荷が重いとして、鳥取に国替えになりました。
池田氏、なかでも、忠継・忠雄が優遇された背景には、家康の娘「督姫」(とくひめ)が、輝政に嫁いでおり、その子が忠継・忠雄であったことが大きかったようです。
岡山城
代わって、「鳥取藩」(とっとりはん:現在の鳥取県)の「池田家宗家」と領地を交換する形で、従兄弟の「池田光政」(いけだみつまさ)が岡山藩主となり、そのまま維新まで池田家宗家が藩主を務めました。
光政は、姫路藩の2代藩主「池田利隆」(いけだとしたか)の長男。母は2代将軍「秀忠」の養女で「榊原康政」(さかきばらやすまさ)の娘「鶴姫」(つるひめ)です。
光政は儒教を信奉し、陽明学者「熊沢蕃山」(くまざわはんざん)を招聘。1641年(寛永18年)、全国初の藩校「花畠教場」(はなばたけきょうじょう)を開校しました。なお、花畠教場については学校ではなく「会」であり、最初の藩校は1664年(寛文4年)の「石山仮学館」であるという説もあります。
1669年(寛文9年)には「岡山藩藩学」(おかやまはんはんがく)が開設。さらに1670年(寛文10年)には、日本最古の庶民の学校「閑谷学校」(しずたにがっこう)も開かれ、教育の充実と質素倹約を旨とする、「備前風」と言われる政治姿勢を作り上げました。
土木事業では、「津田永忠」(つだながただ)を登用。干拓などの新田開発や治水工事を積極的に推し進め、また産業振興も大いに奨励します。このような実績を重ねたため、光政は水戸藩主「徳川光圀」(とくがわみつくに)、会津藩主「保科正之」(ほしなまさゆき)と並び、江戸時代初期の「三名君」(さんめいくん)として賞賛されているのです。
2代藩主「綱政」(つなまさ)は、引き続き津田永忠を登用し、児島湾で大がかりな干拓を行ない、洪水対策としては百間川や倉安川の治水工事なども推し進めました。
そして1700年(元禄13年)には、「偕楽園」(かいらくえん:現在の茨城県)、「兼六園」(けんろくえん:現在の石川県)と共に、「日本三名園」とされる大名庭園「後楽園」(こうらくえん:現在の岡山県岡山市)を完成させています。
江戸中期までは、専売の塩や瀬戸内の海産物などに支えられて、経済は好調を維持し続けましたが、江戸後期は経済が悪化して、1856年(安政3年)には大規模な一揆が起こったほどです。
幕末期の9代藩主「茂政」(もちまさ)は、水戸藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)の9男で将軍「慶喜」(よしのぶ)の実弟であったため、尊皇と佐幕の中間的な「尊攘翼覇」(そんじょうよくは)という思想を持ち続けました。
「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では、慶喜に追討令が出たことから、茂政は隠居。養子の「章政」(あきまさ)に家督を譲ります。最後の藩主・章政は、戊辰戦争において新政府軍に与し、藩軍を関東・奥羽・箱館に送りました。そうしたなか「神戸事件」(こうべじけん)が起き、対応に苦慮したのです。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
3万石 |
伊予国 (愛媛県) |
西条陣屋 | 松平家 (紀州徳川分家) |
藩の歴史 | |||
---|---|---|---|
歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 一柳家 | 一柳直盛 |
2.5万石 | 外様 |
2. 松平家 (紀州徳川分家) |
松平頼純 |
3万石 | 親藩・御連枝 |
「西条藩」(さいじょうはん)は、伊予国新居郡(いよのくににいぐん:現在の愛媛県西条市周辺)を領していた、「紀州藩」(きしゅうはん:現在の和歌山県和歌山市)の支藩。
1636年(寛永13年)、伊勢国・神戸藩(いせのくに・かんべはん:現在の三重県鈴鹿市神戸)5万石の領主であった「一柳直盛」(ひとつやなぎなおもり)が、1万8,000石の加増を得て西条に転封。
これにより西条藩が立藩されましたが、入封の途中に直盛が大坂で没してしまいました。この時点ですでに次男・直家(なおいえ)には、播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)加東郡(かとうぐん)内で5,000石を分与されていたため、遺領は6万3,000石となり、3人の息子によって分割されることとなったのです。
直盛の長男・直重(なおしげ)は、3万石を相続して西条藩主になり、次男・直家は2万3,000石(伊予・川之江藩[いよ・かわのえはん:現在の愛媛県四国中央市])と、すでに譲られていた5,000石(播磨・小野藩[はりま・おのはん:現在の兵庫県小野市])を合わせて2万8,000石、3男・直頼(なおより)は1万石(伊予・小松藩[いよ・こまつはん:現在の愛媛県西条市小松町])と分けられ、それぞれに大名となりました。
なお、伊予川之江藩は、1642年(寛永19年)には藩主・直家が病死し、直家自身には嫡子がおらず、養子を迎えて家督を継がせようとしましたが、末期養子の禁に抵触すると言う理由で認められなかったのです。そのため、伊予の領地は幕府に没収され「公儀御料」(こうぎごりょう:江戸幕府の直轄地)となり、わずか6年で消滅します。
しかし、幸いにも、直家の娘と養子・直次(なおつぐ)との結婚は許されたため、播磨小野藩のほうは、廃藩置県まで存続しました。
直重の子・直興(なおおき)は、弟の直照(なおてる)に5,000石を分与し、西条藩は2万5,000石になりましたが、1665年(寛文5年)、直輿は失政と職務怠慢を理由に改易され、西条藩は一時、公儀御料になっています。
5年の空白ののちに、1670年(寛文10年)、紀伊国紀州藩初代藩主「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)の3男「松平頼純」(まつだいらよりずみ)が、西条藩を紀州藩の支藩として、3万石で入封。これは、紀州徳川家が絶えた場合の備えでした。
1711年(正徳元年)、頼純の跡を継いで「松平頼致」(まつだいらよりよし)が藩主となります。しかし、1716年(正徳6年)、紀州徳川宗家の紀州藩主「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が江戸幕府の将軍となったため、頼致が宗家の家督を継ぐこととなり、「徳川宗直」(とくがわむねなお)と名を改め、紀州藩6代藩主となったのです。
西条藩は、頼致の弟である「松平頼渡」(まつだいらよりただ)が継いで3代藩主となりました。頼渡は、儒学者の「山井崑崙」(やまのいこんろん)を登用して文学の奨励を行なったり、「天野喜四郎」(あまのきしろう)らを招き、多喜浜塩田(たきはまえんでん)などの開発に尽力したりしています。なお松平家は、「定府」(じょうふ)と呼ばれる参勤交代を行なわない大名です。
この藩を一躍有名にした事件が、1694年(元禄7年)に起きた「高田馬場の決闘」(たかたのばばのけっとう)。藩士の「菅野六郎左衛門」(すがのろくろうざえもん)と「村上庄左衛門」(むらかみしょうざえもん)が高田馬場で果し合いを行ない、「堀部武庸」(ほりべたけつね:通称・安兵衛[やすべえ])の助太刀で評判になった一件です。
この決闘には虚実入り乱れ、様々な逸話が誕生しています。江戸市中の瓦版では、安兵衞の活躍が「十八人斬り」として評判を呼んだのです。安兵衛の評判を聞き付けた「赤穂藩」(あこうはん:現在の兵庫県赤穂市)浅野家(あさのけ)の家臣「堀部金丸」(ほりべかねまる)が安兵衛との養子縁組を望み、主君の「浅野長矩」(あさのながのり)も養子縁組の許可を出します。そして1702年(元禄15年)、赤穂浪士としての安兵衛による、吉良邸への討ち入りにつながるのです。
松平家は、徳川家の親藩でありながら、維新の際はいち早く新政府に恭順し、官軍として「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)に参加しました。1869年(明治2年)の版籍奉還と同時に藩主「松平頼英」(まつだいらよりひで)は藩知事となり、1871年(明治4年)の廃藩置県で免官され、東京府へ移っています。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
12万石 |
讃岐國 (香川県) |
高松城 | 松平[水戸]家 |
藩の歴史 | |||
---|---|---|---|
歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 生駒家 | 生駒親正 |
17.3万石 | 外様 |
2. 松平[水戸]家 | 松平頼重 |
12万石 | 親藩・御連枝 |
「豊臣秀吉」が四国平定後、「生駒親正」(いこまちかまさ)は、讃岐国(現在の香川県)17万1,800石を与えられ、三中老に任じられて豊臣政権に参与しました。
「関ヶ原の戦い」において、親正は西軍に付きましたが、嫡男「一正」が東軍に与したため、本領安堵。
親正は一正に家督を譲って隠居し、一正のあとは正俊が襲封(しゅうほう:諸侯が領地を受け継ぐこと)。正俊は、津藩主「藤堂高虎」(とうどうたかとら)の娘を正室としたのです。
1621年(元和7年)、正俊が36歳で死去すると、11歳の小法師が跡を継ぎましたが、若年であったため、外祖父の藤堂高虎が後見となり、高虎は藤堂家家臣を讃岐へ派遣して藩政にあたらせました。
1625年(寛永2年)、小法師は元服して「高俊」を名乗ります。高虎は、生駒家一門の家老「生駒将監」(いこましょうげん)、「帯刀」(たてわき)父子の力を抑える目的で、藤堂家の家臣「前野助左衛門」と「石崎若狭」を家老に加えさせました。
1630年(寛永7年)、高虎が死去し、藤堂家は息子の「高次」が家督を継ぎ、生駒家の後見もそのまま引き継ぐことになると、外様である前野と石崎は、高次の意向を背景に権勢を振るいだします。
1633年(寛永10年)に、生駒家一門の家老・将監が亡くなると、前野と石崎は勢いづき、高俊は生来暗愚であったため、藩内は大混乱。家中は帯刀派と前野・石崎派に分断されました。
帯刀は藤堂家に対して、前野と石崎の専横(せんおう:わがままで横暴な振る舞い)を繰り返し提訴。前野と石崎は、ことの顛末を幕府に訴えましたが、幕府は帯刀派に対しては、主人に対して忠心あるとして諸大名家へお預け、前野・石崎派に対しては、審議中に病死した前野助左衛門を除き、石崎若狭をはじめとした4人は切腹、主だった者達も死罪となったのです。
そして高俊に対しては、家中不取り締まりを理由に城地を没収、出羽矢島1万石に転封されました。これを「生駒騒動」と呼びます。
高松城 艮櫓
この騒動で伊予国3藩が分割統治となり、1642年(寛永19年)、東讃地域に常陸国下館藩より御三家の水戸徳川家初代藩主「徳川頼房」(とくがわよりふさ)の長男「松平頼重」(まつだいらよりしげ)が12万石で入封、高松藩が誕生しました。頼重は、西国諸藩の動静を監察する役目を幕府より与えられたと言われています。
頼重は入封すると、1644年(寛永21年)、「矢延平六」(やのべへいろく)に命じて高松城下に本格的な上水道の敷設事業を行ない、溜池を造成するなど、水利が悪い土地を整備。塩田開発も奨励し、藩財政は安定していましたが、幕末期に財政は逼迫してしまいました。
5代藩主「頼恭」(よりたか)は、「平賀源内」(ひらがげんない)を起用して、城下の「栗林荘」(現在の栗林公園)に薬草園を造りました。
また、医師の「向山周慶」(さきやましゅうけい)に製糖技術を学ばせて白糖の製造を可能にし、讃岐和三盆糖の製造技術が確立。こういった業績により、頼恭は、高松藩中興の藩主として称えられています。
幕末期は、宗家である水戸藩が尊皇に傾きましたが、藩主「頼聡」(よりとし)の正室・千代が「井伊直弼」(いいなおすけ)の娘という立場から苦しい立場に。
1868年(慶応4年)「鳥羽・伏見の戦い」では、旧幕府軍であったため、朝敵となってしまいます。高松藩の庇護を受けていた京都の「興正寺」は高松に使者を出し、責任者を処罰し新政府に恭順の姿勢を見せることを進言。藩主と前藩主が謹慎し、高松城は無血開城されたのです。
のちに新政府への軍資金12万両の献上と引き換えに宥免(ゆうめん:罰を軽くするなどして罪を許すこと)されました。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
37万石 |
周防国・長門国 (山口県) |
萩城→山口城 | 毛利家 |
藩の歴史 | |||
---|---|---|---|
歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 毛利家 | 毛利秀就 |
37万石 | 外様 |
「長州藩」(ちょうしゅうはん:現在の山口県)の藩祖は「毛利輝元」(もうりてるもと)であり、「関ヶ原の戦い」で西軍総大将を務め、家康と敵対しています。敗戦後、輝元の領国は安堵されたものの、8ヵ国から2ヵ国にまで減封されました。
幕末に至るまで、その財政が窮乏に瀕していた長州藩。税収を上げることで、その打開策としましたが、極端な税収強化が農民の反発を呼び、大一揆が勃発します。そこで藩主・敬親/慶親(たかちか/よしちか)は、切り札として「村田清風」(むらたせいふう)を起用したのです。
清風による藩政改革では、対民衆政策のみならず、藩による事業も展開。その政策が功を奏して積極的な富国強兵を推進することができ、武器鋳造にも力を入れ、財政と軍事面で強固なものになっていったのです。
しかし、海に面する長州藩は、欧米列強の船が海上を通過するたびに、危機感を抱いていました。力を持たなければ藩の未来はない、という確固たる信念のもと、長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所に、京都で政局に影響を与える存在になったのです。
また、長州藩士「吉田松陰」(よしだしょういん)の私塾「松下村塾」(しょうかそんじゅく)は、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)や「久坂玄瑞」(くさかげんずい)など多くの才能ある藩士を輩出し、これが倒幕運動につながっていきます。そして、「孝明天皇」(こうめいてんのう)も攘夷派であったことから、天皇の命を得て、幕府の対抗勢力として戦うことになりました。
萩城跡 石垣
しかし、孝明天皇への批判が相次ぐと、天皇は手の平を返し、長州征伐の勅命を下します。一転して朝敵(ちょうてき:天皇、及び朝廷に敵対する勢力)となってしまった長州藩は、巻き返しを図るも負け続けることになり、久坂玄瑞など将来有望な人材を亡くす結果となりました。
その後、幕閣(ばっかく:大老や老中など、幕府の最高首脳部)が長州再征討を命じましたが、その理由は、まず長州藩の息の根を止め、それから「薩摩藩」(さつまはん:現在の鹿児島県)を倒し、幕府の安泰を図ったためだと伝えられています。
長州藩では、その藩校として「明倫館」(めいりんかん)が有名です。日本三大学府のひとつと言われており、「桂小五郎」(かつらこごろう:のちの「木戸孝允」[きどたかよし])や吉田松陰など、名だたる人材がこの藩校の出身です。
長州藩は、幕末には討幕運動、及び明治維新の中心となり、明治新政府に政治家が多数輩出しています。薩長による討幕運動の推進によって、1867年(慶応3年)、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が大政奉還(たいせいほうかん)を行ない、江戸幕府は崩壊しました。そして王政復古が行なわれると、長州藩は、薩摩藩と共に明治政府の中核となったのです。
1868~1869年(慶応4/明治元~2年)の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では、その局地戦となる「上野戦争」(うえのせんそう)などで、長州藩士の「大村益次郎」(おおむらますじろう)が活躍しています。
1869年(明治2年)、版籍奉還(はんせきほうかん)によって藩名を「山口藩」(やまぐちはん)に改称。また、戊辰戦争で名を馳せた奇兵隊などの諸隊は、度重なる局地戦で5,000名ほどにまで膨れ上がっていましたが、戦争が終わるとそれだけの軍事力は不必要になっていました。さらには、大所帯となった騎兵隊を維持するだけの財源が不足していたこともあり、約半数にまで隊員を減らして、常備軍として再編を行なったのです。そのため、強制的に脱退させられた兵士達が立てこもる事態になり、それを制圧したのが木戸孝允。長州藩の最後が、同藩による戦いであったというのも悲惨な結末だと言えます。
1871年(明治4年)、山口藩は支藩の「徳山藩」(とくやまはん:現在の山口県周南市)と合併。同年8月29日の廃藩置県(はいはんちけん)で山口藩は廃止され、「山口県」となりました。毛利家当主・元徳(もとのり)は藩知事を解任されたあと東京へ移り住み、「第十五国立銀行」頭取や貴族院議員などを歴任。1884年(明治17年)には、公爵に列せられています。
石 高 | 旧 国 | 居 城 | 藩 主 |
---|---|---|---|
10万石 |
美作国 (岡山県) |
津山城 | 松平[越前]家 |
藩の歴史 | |||
---|---|---|---|
歴代藩主 | 歴代当主名 | 石 高 | 大名の分類 |
1. 森家 | 森忠政 |
18.65万石 | 外様 |
2. 松平[越前]家 | 松平宣富 |
10万石 | 親藩 |
美作国西北条郡(みまさかのくにさいほくじょうぐん)、現在の岡山県津山市周辺を領し、小豆島の一部も飛び地として領していました。
1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」が終わり、美作国は「備前岡山藩」(びぜんおかやまはん:現在の岡山県)藩主の「小早川秀秋」(こばやかわひであき)が領していましたが、1602年(慶長7年)、跡継ぎがいない状況で死去し、廃絶となってしまいます。
翌年、「信濃川中島藩」(しなのかわなかじまはん:現在の長野県)より「森可成」(もりよしなり)の子「忠政」(ただまさ)が美作1国18万6,500石で入封し「津山藩」(つやまはん:現在の岡山県)となりました。この地は、従来「鶴山」(つるやま)と呼ばれていましたが、忠政により「津山」となります。
1697年(元禄10年)、4代藩主「森長成」(もりながなり)が死去したため、末期養子として2代藩主「長継」(ながつぐ)の12男で、叔父にあたる家老「関衆之」(せきあつゆき)のもとに養子に出されていた「衆利」(あつとし)が迎えられました。ところが、衆利は継承挨拶のため江戸に出府途中の伊勢で幕政を批判して発狂します。これにより幕府は、美作津山藩を召し上げることとなりますが、長継が隠居の身ながら健在で跡継ぎも多くいたため、長継に「備中国西江原藩」(びっちゅうのくににしえはらはん)2万石の再襲を許し、家名存続を認めました。
この措置によって支藩の「津山新田藩」(つやましんでんはん:現在の岡山県)1万5,000石を「播磨国三日月藩」(はりまのくにみかづきはん:現在の兵庫県佐用郡)1万5,000石に、「宮川藩」(みやがわはん:現在の滋賀県長浜市)1万8,700石を「備中国新見藩」(びっちゅうのくににいみはん:現在の岡山県新見市)1万8,000石にそれぞれ転封。
津山城跡 備中櫓
1698年(元禄11年)、「結城秀康」(ゆうきひでやす)を祖とする越前松平家宗家の「松平宣富」(まつだいらのぶとみ)が10万石で入部したことで親藩となります。それ以後、廃藩置県まで松平氏の治める地となったのです。
1721年(享保6年)に家督を継いだ「浅五郎」(あさごろう)が11歳で夭折。御家門であるため改易こそ免れたものの、石高は半減され5万石となり、藩の格式も下がってしまいました。その後、8代藩主に11代将軍「徳川家斉」(とくがわいえなり)の14男である「斉民」(なりたみ)を迎えたことにより、石高を10万石に戻します。
松平氏の統治期は政情が不安定であり、入部した年には「元禄一揆」(高倉騒動)があり、1726年(享保11年)には「山中一揆」、幕末期には「改政一揆」と歴史に残る大きな一揆が頻発しました。5代藩主「松平康哉」(やすちか)は、名君と呼ばれた「上杉治憲」(うえすぎはるのり)や「細川重賢」(ほそかわしげたか)らに倣い、「大村庄助」(おおむらしょうすけ)や「飯室武中」(いいむろたけなか)など家柄にとらわれない有能な人材を登用し、藩政にあたらせ、一定の成功を収めます。しかし、1783年(天明3年)の「天明の大飢饉」による米価高騰のあおりで領内では「打ちこわし」が起きるなど、決してすべてが上手くいったわけではありません。
なお、康哉の時代である1765年(明和2年)に藩校「修道館」(しゅうどうかん)が設けられ、教育改革にも力を注ぐことで、学問の盛んな藩としても知られていました。
幕末から明治にかけては、藩医だった宇田川家・箕作家(みつくりけ)から優れた洋学者を輩出し、日本の近代科学発展の礎を築きます。法律家「津田真道」(つだまみち)は「皇紀紀元」(こうききげん)を確立したことで知られ、内閣総理大臣となった「平沼騏一郎」(ひらぬまきいちろう)もこの藩の出身です。
最後の藩主である9代藩主「松平慶倫」(まつだいらよしとも)は、1855年(安政2年)、斉民の隠居により家督を相続。1863年(文久3年)には国事周旋の内勅を受け上京し、朝廷と幕府との調停にあたり、8月18日の政変以降は藩内の尊皇攘夷派の排斥を行ないます。1871年(明治4年)、廃藩置県により津山県となり、北条県を経て岡山県に編入されました。