歴女に人気の城下町

滋賀県の城下町・膳所(大津市)

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滋賀県大津市にある「膳所城」(ぜぜじょう)は、その昔「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠[からかねぎぼし]、水に映るは膳所の城」と美しい姿が謳われ、風光明媚な名城として東海道を行き交う旅人の観光名所となっていました。
現在、膳所城の姿を観ることはできませんが、歴女におすすめなのは、その跡地。桜の名所として親しまれている膳所城跡公園や、膳所焼で抹茶が頂ける美術館など、詳しくご紹介します。

将軍の心を癒やした琵琶湖に浮かぶ水城とその城下

膳所城跡

膳所城跡

膳所城」(ぜぜじょう)は、典型的な水城でした。湖の中に石垣を築き、その上に建てられた本丸と二の丸は湖に突き出すように建ち、4重4層の天守閣は湖面に浮かんでいるかのように見えたとのことです。

膳所城の縄張りを任されたのは、築城の名人と謳われた「藤堂高虎」(とうどうたかとら)でしたが、湖に近い地盤は脆弱で、石垣は何度も修理を重ねています。

戦乱の時代が終わり泰平の世に移ると、膳所城は江戸幕府の将軍達が上洛する際の立ち寄りスポットになりました。琵琶湖の雄大な風景を眺めながら心を癒やせるスポットです。しかし、残念なことに現在の膳所にお城の姿はなく、水際の石垣と天守閣跡の石柱だけが往時を物語っています。

琵琶湖西岸にあった膳所の城下町は、琵琶湖の沿岸線に沿って発展し、その中央を東海道が貫いていました。そして、町の入口には総門と番所を置き、城下を守りながら、農村との境界を示していたのでした。

城下は、4つの村と24の町で構成。お城に近いエリアには上級武士の屋敷を配し、東海道沿いには中・下級武士の家屋が集められました。東海道の武家屋敷は、城下町を防御する役割を担っていたのです。1685年(貞享2年)の記録によると、城下の総戸数は930軒。その半数以上にあたる499軒が武士の屋敷です。その数から膳所が武家を中心に栄えた城下町であることが分かります。

京都に通じる交通と軍事の要衝として「瀬田の唐橋を制する者は天下を制す」と言われた瀬田の唐橋の管理を担ったのも膳所藩でした。橋の周辺に連なる松並木を維持するため、「並木奉行」という役職まで設けていたのです。

本丸大手門

本丸大手門

現在、「膳所神社」(ぜぜじんじゃ)近くに建つ総門は、膳所城の本丸入口の城門を移設した建築物です。

その瓦には、本多家の立葵(たちあおい)が刻まれています。膳所神社は、本丸へ通じる入口があった場所。膳所神社から徒歩数分の場所にある大手門跡の石碑が歴史を伝えています。

その膳所神社から少し北上すると、何代にも亘り藩主を務めた本多家の菩提寺である「縁心寺」(えんしんじ)に行き当たります。

また、膳所城からやや内陸にある「篠津神社」(しのづじんじゃ)には総門として膳所城の北大手門が、そこから南方にある「若宮八幡宮」(わかみやはちまんぐう)には膳所城の犬走門(いぬばしりもん)が移築されているのです。

膳所という珍しい地名の由来は?

関西に住む人や歴女以外で、「膳所」(ぜぜ)という地名を正確に読める人は少ないのではないでしょうか。膳所の歴史は古く、飛鳥時代の紀元667年(天智6年)に遡ります。

「天智天皇」(てんじてんのう)は、飛鳥から琵琶湖西岸の大津に遷都し、「近江大津宮」(おうみおおつのみや)を開きました。その場所が、現在の大津市の周辺です。

遷都に際して、天皇の食事を作る「御厨」(みくりや)が膳所に定められました。当時の膳所は、「浜田」(はまだ)という地名で呼ばれていましたが、琵琶湖で獲れた魚を中心とした料理を作り、天皇のもとへ届けていたことから「陪膳浜」(おもののはま)と呼ばれるようになります。「陪膳」(ばいぜん)とは、天皇のお食事を給仕する意味です。

また、この浜田の地形が湖に突き出た崎の形状だったことから、やがて「陪膳の崎」(おものさき)と呼ばれるようになり、時代と共に膳の崎、「膳の前」(ぜんのさき)、「膳前」(ぜんぜん)に変化していきます。そして、さらに短縮されて「ぜぜ」の呼び名が定着したとのこと。

なお、近江大津宮は「壬申の乱」(じんしんのらん)が起こったことで、わずか5年で廃都されています。

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瀬田の唐橋を制する者は天下を制す

時代が流れ、戦国時代になると畿内への入口として、武将達は膳所での攻防を繰り広げるようになります。

関ヶ原の戦い」のあと、膳所を抑えたのは「徳川家康」(とくがわいえやす)でした。合戦の翌年の1601年(慶長6年)には、天下統一を宣言するかのように膳所城の築城が始まります。城の建物の大部分は、関ヶ原の戦いで落城した大津城から移築され、突貫工事で進められました。徳川家康は京につながる幹線道路を抑えることで、関西を拠点に虎視眈々と巻き返しの機会を狙う豊臣家に睨みをきかせるため、築城を急いでいたのです。

膳所藩の初代藩主を任じられたのは、大津城主だった「戸田左門一西」(とださもんかずあき)でした。戸田左門一西は、なかなかの庶民思いの藩主で、武蔵国(むさしのくに)から仕入れた蜆(しじみ)を瀬田川に放流させ、漁民の保護策としたと伝わっています。その蜆は、親しみを込めて「左門蜆」(さもんしじみ)と呼ばれていたとのこと。

そののち、「大坂夏の陣」で戦功を上げた戸田氏は「摂津国尼崎」(せっつのくにあまがさき:兵庫県東南部)に転封。三河国西尾(みかわのくににしお)から3万石で入封した本多氏が藩政を引き継ぎました。

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幕末の激動に揺れた膳所藩

18年を経て、本多氏は旧領の西尾に転封となります。続いて、菅沼氏、石川氏と藩主は変わり、1651年(慶安4年)再び本多氏に。それからの200年以上に亘る膳所の藩政を率い、廃藩置県まで本多氏の治世が続きました。

幕末の膳所藩にひとつの事件が起こります。勤王派と佐幕派の対立が激しくなった時代のこと。膳所藩の藩士の中に長州藩士と通じる者がいることが発覚したのです。これは、予定されていた14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)の膳所城宿泊が中止になるほどの大事件でした。

慌てた膳所藩の重臣は勤王派の11人を即座に断罪し、幕府への忠誠を誓います。しかし、1868年(慶応4年)に「鳥羽・伏見の戦い」が勃発すると、膳所藩は朝廷側に就き、桑名藩攻めにも出兵しています。

松尾芭蕉も膳所の大ファンだった!?

松尾芭蕉

松尾芭蕉

「松尾芭蕉」(まつおばしょう)は、膳所の城下町を愛した偉人のひとりです。

松尾芭蕉は、「粟津の戦い」で討たれた「木曾義仲」(きそよしなか:源義仲)の大ファンだったとのこと。

膳所城下にある木曾義仲の墓のすぐ近くに「無名庵」(むみょうあん)を建てて、何度も訪れています。

遺言には、木曾義仲が眠る「義仲寺」(ぎちゅうじ)に葬って欲しいとあり、その言葉通り松尾芭蕉の遺骨も義仲寺に納められました。

無名庵で松尾芭蕉の門人・又玄(ゆうげん)が詠んだ句に、次のようなものが残っています。「木曾殿と背中合わせの寒さかな」武士でもあった松尾芭蕉と、木曾義仲の人生を重ねながら詠んだものです。

義仲寺の近くには、松尾芭蕉を慕っていた俳人17人の墓が並ぶ俳人塚も。日本一大きな琵琶湖の景色を堪能しながら松尾芭蕉の足跡を追えば、ひと味違った膳所の魅力が見えてきます。

膳所の旧城下町は歴史のびっくり箱!

歴史のある膳所の城下町には、由来のある神社仏閣が多数点在しています。また、膳所焼などの美術品にも恵まれ、現在も美術館や博物館で歴史に触れることができます。

膳所城跡公園

膳所城跡公園

膳所城跡公園

膳所城のあった、湖に突き出た崎が現在は公園となり、春には桜の名所として多くの人に親しまれています。

徳川家康は、関ヶ原の戦いのあと守備固めとして、「逢坂の関」(おうさかのせき)の復旧と、大津城の再興、そして膳所の新城建設のどれを選択すべきか迷ったとのこと。

その相談に乗ったのが、徳川家康の忠臣として知られる「本多正信」(ほんだまさのぶ)。

しかし、本多正信は、徳川家康の考えを鵜吞みにせず、候補地を変えてしまいます。選んだのは、瀬田城跡(せたじょうあと)、大津城跡、膳所崎の3ヵ所。それぞれの場所に幟旗(のぼりばた)を立てさせて、地勢を判断したのです。その結果、膳所崎に軍配が上がりました。

判断の理由として、大津城は合戦で守りの脆さが露呈し、瀬田では東海道を抑えられても、湖からの水運を抑えられないと判断したからです。

そんな歴史のエピソードを思い浮かべながら琵琶湖を見渡し、武将達に思いを馳せましょう。

大津市歴史博物館

大津市歴史博物館

大津市歴史博物館

膳所の城下町は、現在の大津市の一部にあり、この大津市歴史博物館では、原始・古代から近現代まで、比叡山麓や大津市全域に亘る歴史を網羅しています。

膳所城の復元模型の他、近江大津宮時代の出土品などもあり、この地域の歴史が様々な角度から丁寧に紹介。

また、ここでしか購入できない大津絵の絵はがきや手ぬぐいも販売されており、お土産を買いたい歴女におすすめです。

旧膳所城下町・旧東海道

膳所城下のメインストリートとして賑わった旧東海道には、かつての武家屋敷の土塀や折れ曲がった小路などが残り、生きた博物館として歴史を伝えています。歩いていると、ふと目の前に歴史のある寺院が姿を現す、そんな発見のある散策ルートです。

膳所神社

膳所神社

膳所神社

天智天皇の時代に近江大津宮(おうみおおつのみや)への遷都があり、膳所は御厨の地と定められます。

そして、「天武天皇」(てんむてんのう)の時代になると、大和国(やまとのくに)から食物の神を移して膳所神社に祀られました。御祭神は、食物を司る「豊受比売命」(とようけひめのみこと)です。

平安時代には、この一帯が天皇の御食事として琵琶湖の魚介類を献上する場所に指定されたと伝えられています。

また、戦国時代の武将からも厚く信仰され、社伝(しゃでん:神社の由来や来歴などを記した物)には、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)と正室の「北政所」(きたのまんどころ)や徳川家康などが神器を奉納した記録も。江戸時代に膳所藩主だった代々の本多家からも信仰され、神社の領地や社殿の寄進をたびたび受けていました。膳所神社正面の風格ある薬医門や北門は、膳所城の城門を移設した物です。

若宮八幡神社

若宮八幡神社

若宮八幡神社

「仁徳天皇」(にんとくてんのう)を御祭神に頂く神社です。

675年(白鳳4年)の創建と言われており、天智天皇が宇佐八幡神社(うさはちまんじんじゃ)の神のお告げによってこの地を行幸(ぎょうこう:天皇が外出すること)した折に、紫の雲がたなびき、金色の鳩が飛来しました。

その鳩が森の大木に止まると、天智天皇はめでたいことの兆しであるとして、神社の造営を決定。そして、仁徳天皇の木像を下賜されたことが、この若宮八幡神社の始まりだと伝えられています。

917年(延喜17年)には、落雷の被害を受けたあとに再建されますが、平安時代末期の1184年(寿永3年)には木曾義仲の粟津の合戦で焼失。のちに、「源頼朝」(みなもとのよりとも)によって再興され、江戸時代には代々藩主を務めた本多家の庇護を受けました。この若宮八幡神社の表門も膳所城の犬走門を移築した物です。

篠津神社

地元の氏神として信仰を集めている篠津神社。御祭神は「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)です。創建の時期は定かではありませんが、室町時代中期にはすでに存在していたことが分かっています。

現在の社殿は、「本多俊次」(ほんだとしつぐ)が藩主だった1661年(万治4年)に造営した物で、表門の高麗門(こうらいもん)が膳所城の北大手にあった城門であることが、発見された棟札(むなふだ:建物の建築や修理の記録として、建物内部の高いところに取り付ける札のこと)から判明。この高麗門は重要文化財に指定されています。

義仲寺

義仲寺

義仲寺

平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰り道で源頼朝軍に追われて、粟津で壮絶な最期を遂げた木曾義仲をここに葬ったことに由来する義仲寺。

室町時代末期に近江守護だった「佐々木六角」(ささきろっかく)によって建立されたと言われています。

江戸時代中期まで木曾義仲が眠る小さな塚でしたが、松尾芭蕉が美しい景観に魅せられたと伝えられており、境内には松尾芭蕉の辞世の句となった「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など、多くの句碑が建ち、俳句愛好家も多数訪れます。

無名庵の他、本堂の「朝日堂」(ちょうじつどう)、「翁堂」(おきなどう)、「文庫」などが建つ境内全体が国の史跡です。

縁心寺

「縁心寺」は、膳所藩の初代藩主・戸田左門一西が、1601年(慶長6年)に開いたと伝わる浄土宗の寺院。

当初は「円通寺」と呼ばれ、戸田氏の菩提寺で戸田左門一西はここに葬られましたが、2代藩主の「戸田氏鉄」(とだうじかね)が摂津国尼崎藩(せっつのくにあまがさきはん)に転封になった際に、円通寺も尼崎に移されました。そして、1617年(元和3年)に三河国西尾藩から本多氏が移封になったとき、本多家の菩提寺である縁心寺も移し、この地に開いたのです。

当時、この周辺には瓦葺屋根の建物がなく、藩主の菩提寺だったこのお寺だけに瓦が見られたことから、「瓦寺」とも呼ばれていました。歴代の藩主の他、膳所城事件で切腹を申し渡された藩士の墓も遺され、膳所藩の歴史をもの静かに伝えています。

膳所焼美術館

膳所焼(ぜぜやき)は、膳所藩のお庭焼(大名などが自分の趣向に合わせ、居城や藩邸の内に窯を築き焼成した焼物)として代々の藩主に愛された陶器。

その歴史は、桃山時代から江戸時代初期に始まったとされており、1621年(元和7年)に菅沼氏が藩主となって以降、歴代藩主の庇護を受け、広く知られるようになりました。

江戸時代の茶人で作庭家としても名を馳せた「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)は、名茶碗の7つの産地「遠州七窯」(えんしゅうなながま)のひとつとして膳所焼を選んでいます。薄作りで黒みを帯びた鉄釉(てつゆう:鉄釉は酸化鉄を含む釉薬[ゆうやく]のこと)が独特の味わいを醸し、遠州好みの「きれいさび」に連なる上品なつくりが特徴的です。

この膳所焼美術館では、膳所焼をはじめとする滋賀県の古陶磁(ことうじ)や茶道具類を公開。工芸の歴史から膳所の魅力に接してみませんか。歴女にぜひおすすめしたいのは、日本庭園を望む本格的な茶室。入館者は、膳所焼の茶器でお抹茶を頂くことができます。

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