歴女に人気の城下町

大分県の城下町・臼杵(臼杵市)

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「臼杵」(うすき:大分県)の名前を聞いて、キリシタン大名である「大友宗麟」(おおともそうりん)を挙げる人はかなりの歴史好き。石仏(せきぶつ)や阿蘇(あそ)の大噴火のことを挙げるなら、地質学などに興味がある人。臼杵と言えば、ふぐ!と思い付く人は、きっと相当な食道楽。歴史はもちろん、他のジャンルにも関心を持っている歴女の方には、興味が尽きない町と言えるでしょう。
このいくつもの顔を持つ臼杵の城下町としての基礎は1500年代にさかのぼります。大友宗麟はキリシタンであったため、城造りにも城下町づくりにもそれは影響しました。石に恵まれた地域でもあり、日本国内には珍しく石造文化が残る町でもあるのです。ここでは、キリシタン大名と城下町の関係性、石がもたらす町づくりについてご紹介します。

天然の要害である丹生島に臼杵城を築城した大友宗麟

臼杵城跡

臼杵城跡

「大友宗麟」(おおともそうりん)は、「大友家」20代家督「大友義艦」(おおともよしあき)の息子として、1530年(享禄3年)府内(ふない:現在の大分市)に生まれました。

家督を継いだあと、1556年(弘治2年)に、「臼杵城」(うすきじょう)を築きます。

大友宗麟は、臼杵湾に浮かぶ丹生島(にうじま)が天然の要害として築城の地にふさわしいと判断。

その理由は、丹生島は干潮時だけ陸続きになるため、満潮時には海を越えなければ往来することすらできないからです。攻めにくく守りやすい条件は整っていました。

この城は、「丹生島城」(にうじまじょう)と呼ばれた他、島の形が亀に似ていたことから、「金亀城」(きんきじょう)、「亀城」(きじょう)など色々な名前があったのです。大友宗麟は、府内にあった館から城のある丹生島へと移り住み、城下町を整備していきますが、これが今日の「臼杵」(うすき)の根幹となっています。

城が完成すると、大友宗麟は城の周りの干潟をどんどん干拓し、城下町を作りました。臼杵湾から臼杵川へと入り組んだような現在の複雑な地形は、大友宗麟が創造した城下町がベースです。

泰平の世を願って、キリシタンとなった臼杵城主

キリシタン大名として歴女の間でも有名な大友宗麟ですが、当初は禅宗に帰依していました。21歳で家督を相続し、豊後(ぶんご)・豊前(ぶぜん)・筑後(ちくご)・筑前(ちくぜん)へと徐々に勢力を拡大していきますが、そののち、フィリピンなどの外国に貿易船を派遣したいと考えた大友宗麟は、海外ネットワークを有するキリシタンに近付いていきます。

それから、キリシタンがたびたび大友宗麟のもとを訪れるようになり、彼らがキリスト教の話をするうちにキリスト教への関心を強め、ついには自ら洗礼を受けるに至ったのです。その後、宣教師達に領内でのキリスト教の布教活動に許可を与えます。

臼杵で戦になったとき、大友宗麟は籠城を決め、キリシタンも仏教徒も共に城へと避難させました。このとき、自らおむすびを握って振る舞ったとの逸話が残されています。宣教師達は、この行ないをきちんと記録しました。

宣教師「ルイス・フロイス」が記した記録によると、当時の城下町には、キリスト教の関連施設が多く建設され、お城の中には礼拝堂もあったとされています。

家督相続に絡む父と弟の死

大友宗麟

大友宗麟

大友宗麟は、大友家の嫡男として生まれながらも、父からは家督を継ぐ者とは認められていませんでした。

父である大友義艦は、大友宗麟の異母弟「大友塩市丸」(おおともしおいちまる)に家督を譲ろうと考えていたのです。

わざわざ大友宗麟を温泉旅行に出かけさせ、その間にことを図ろうとしていました。

ところが父の画策に気付いた大友宗麟は、大友塩市丸とその母を殺害。また、そのとき負傷した父も数日後に亡くなってしまいます。

こうして大友宗麟は、大友家の家督相続者として波乱万丈の幕開けを自ら演出する形となりました。父の死や、キリスト教との出会いを経験したあと、大友宗麟は九州6ヵ国(豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後)の守護職に就きます。晩年には、「ドン・フランシスコ」の洗礼名を受けました。現在の延岡市である務志賀(むしか)にキリスト教の理想郷を作ろうと夢を抱いたこともあったのです。

のちに島津軍の侵攻により、城も町も大きく被害を受け、1587年(天正15年)に、大友宗麟は失意のうちに一生を終えます。

臼杵城は稲葉家に引き継がれ、臼杵人気質の礎を築く

臼杵の城下町は、1597年(慶長2年)に、「太田一吉」(おおたかずよし:当時の臼杵城主)が城下の復興と共に、城の近世城郭化として北西部に三の丸を増築したり、大手門を移したりするなどの大修理を行ないました。

そして、大友家から何人かの城主を迎えたのち、「関ヶ原の戦い」で軍功を成した「稲葉貞通」(いなばさだみち)が、1600年(慶長5年)に美濃(現在の岐阜県)の郡上八幡から臼杵城へとやってきます。初代臼杵藩主の誕生です。稲葉貞通は、ほぼ現代のような形に整った城下町にやってきたことになります。以来、明治維新まで稲葉家15代が約270年間、居城しました。

稲葉貞通を祖とする稲葉家は、質素倹約と勤勉を奨励する家だったとのこと。この藩主の考え方が、今の臼杵人の気質を作り上げたと言う人も多くいます。築城したのは大友家でしたが、その頃は戦乱の世の中でした。

稲葉家が藩主になってからは、泰平の世の中になり、質素倹約が求められた時代だったのです。大友家が臼杵の石で堅牢な城を作り、稲葉家は石のように堅い結束で、臼杵の城下町を何百年も栄えさせました。

歴史と文化あふれる地方都市としての魅力

臼杵の歴史について言及してきましたが、続いては現代の臼杵を観ていきましょう。歴史の面影が色濃く残る街並みは、散策にもぴったり。歴女の心に響く見どころがたくさんあり、グルメも満喫できます。

二王座歴史の道、城下町の面影を追って

石の町臼杵では、道を通すにも岩盤を削っての大工事を行なって、やっと人が生活するための道路を作ることができたのです。逆に言うと、昔に作られた道はそう簡単に進路変更する訳にはいきません。つまり、昔々に削って作られた道がそのまま残されていることになります。

二王座歴史の道

二王座歴史の道

国の都市景観100選にも選ばれている「二王座歴史の道」(におうざれきしのみち)は、まさに江戸時代の風情を残す町並み。

高い石垣に重厚感のある屋根瓦、それとコントラストを見せる白い壁が印象的。

道は、緩やかな高低差があり、雨が降った日は石畳が濡れて独特の表情を見せてくれます。

旅をするのに雨は煩わしいかもしれませんが、臼杵を歩くなら、ぜひとも小雨がぱらついて欲しいところ。歴女のみなさんが、しっとりと濡れた石畳を歩いてみると、石で栄えた臼杵の歴史を感じることができます。

阿蘇の大噴火による灰石の文化

臼杵は石の町です。今から4~8万年前にかけて、阿蘇山が何度も大噴火を起こし、そのときの火砕流が固まってできた岩石が臼杵の大地を築きました。墓石や建築材料として用いられる黒灰石の凝灰岩(ぎょうかいがん)が、それです。臼杵でこの石が使われるようになったのは、古墳時代と言われています。いくつかの古墳から、この石を使った棺が発見されました。

臼杵市内には数多くの石橋が残っており、人々の生活道路として使われています。なかには珍しい例もあり、「乙見ダム」(おとみだむ)にある近戸橋(ちかどはし)は、乙見ダムの満水時には完全に水中に沈んでしまうことから、1年のうち、数ヵ月間しか見られないと言われる貴重な橋。

この他、地元の人も意識しないほど小さな橋が私道や農道に残されていることもあり、臼杵が石に恵まれた地域であったことが分かります。歴女が散策を楽しめば、城下町の随所に、石を用いた建築や道標などを観ることもできるのです。

臼杵と言えば、河豚、ふぐ、フグ!

臼杵と言えば河豚。歴女のみなさんは、河豚料理がお好きでしょうか。ふぐ、フグ、富久(ふく)など様々な表現をするこの魚は、臼杵の名物。ふぐの漁獲量が全国的にもトップに入ること、市内にふぐの専門料理店や調理師が多く存在することなど、ふぐをおいしく食べる条件が見事に揃っています。

また注目したいのは、臼杵市内に西日本でトップランキングに入る味噌や醤油の大きなメーカーがあることです。フンドーキン醤油、富士甚醤油(ふじじんしょうゆ)、カニ醤油などがその代表ですが、なかには江戸時代から続く老舗もあり、西日本の食生活を支え続けています。

住みたい田舎ベストランキングで2冠を獲得する快挙

臼杵市は、宝島社が発行している「田舎暮らしの本」2019年2月号の「住みたい田舎ベストランキング」特集において、人口10万人未満の小さなまち部門として、2冠を獲得。「若者世代が住みたい田舎部門」と「シニア世代が住みたい田舎部門」の両方で、第1位でした。さらに「自然の恵み部門」では第2位、「総合部門」としては第3位の快挙です。

歴女としても気になる高いランキング結果ですが、こうした評価を受ける理由としては、まず、臼杵の人々には、外から来た人を受け入れる懐の深さがあります。自分の町に誇りを持って、来訪者をもてなす文化が根付いているからです。海に近く、新鮮な魚介類が豊富にあることや、見晴らしの良さなど地理的に住みやすい環境も整っています。

臼杵のお殿様が里帰りをするときのためのお屋敷「稲葉家別邸」

稲葉家別邸

稲葉家別邸

稲葉家別邸(通称:稲葉家下屋敷)は、廃藩置県のあとに東京に居を移した稲葉家が、臼杵に里帰りをするときのための住居として建てました。

上質の木材をふんだんに使用して1902年(明治35年)に建築されており、玄関や表座敷、書院造のある奥座敷などは、臼杵のお殿様の住まいにふさわしい豪華で格式の高い造り。

戦に使われた武具や、お姫様が使ったと思われる駕籠など、稲葉家の繁栄を思わせる品々が展示されています。歴女なら見逃せない歴史が息付いているのです。

天然記念物指定の世にも美しい鍾乳洞

風連鍾乳洞

風連鍾乳洞

この「風連鍾乳洞」(ふうれんしょうにゅうどう)は、奥行きが500mある閉鎖型の鍾乳洞だったためか、発見されたのは1926年(大正15年)で、その2年後に天然記念物に指定されました。

外気の侵入が少なかったことから風化することがなく、不純物が少ないため、鍾乳石は純白の光沢を保ち続けており、その姿は艶やかで見事です。

偶然にできた結晶ですが、その神秘的な造形と色彩は、日本でもっとも美しいと称えられることもあります。

60以上を数える圧巻の石仏群

臼杵石仏

臼杵石仏

平安時代後期から鎌倉時代にかけて制作された「臼杵石仏」(うすきせきぶつ)は、岸壁や岩壁を彫るなどして造られた磨崖仏(まがいぶつ)であり、規模、数量、彫刻作品としてのレベルの高さ、すべてにおいて、日本を代表する石仏群です。

1995年(平成7年)には磨崖仏として全国初、彫刻としても九州初の国宝に指定されました。60以上を数える石仏群はまさに圧巻。臼杵の代名詞とも言える、歴女必見の観光スポットです。

桜の名所として有名な臼杵公園

臼杵城跡が公園として整備されています。特に春の桜の時期は、臼杵城址桜まつりが開催されることでも有名で、約1,000本の桜が一気に咲き乱れる様子は、非常に美しい風景としてテレビなどで話題に。臼杵の町の中心地にあることも歴女にとっては巡りやすいポイント。城跡から臼杵の町を一望できるので、最初にここを訪れると町全体が把握しやすくなります。

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