歴女に人気の城下町

島根県の城下町・津和野(津和野町)

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中国山地の谷あいに広がる小さな城下町「津和野」(つわの)。現在の島根県鹿足郡(しまねけんかのあしぐん)にあり、「山陰の小京都」と呼ばれ、山紫水明(さんしすいめい)の美しい静かな土地です。町を二分するように清流・津和野川が流れ、緑溢れる風景と共に、城下町は往時の面影を残しています。
そんな津和野城の城下町が発展したのは、戦のない平和な時代が訪れた江戸後期のことでした。穏やかな山間に広がるこの城下町は、どのような歴史をたどってきたのか、紐解いていきましょう。

元寇の襲来に備え、鎌倉幕府の命で開かれた僻地

津和野城跡

津和野城跡

「津和野」(つわの)の発祥は、鎌倉時代。

2度に亘る「元寇」(げんこう)が起こった翌年の1282年(弘安5年)、鎌倉幕府は3度目の元(モンゴル帝国)の襲来に備え、「能登国」(のとのくに:現在の石川県北部)から「吉見頼行」(よしみよりゆき)を津和野へ派遣しました。

それまで歴史に登場することのなかった山間部の僻地に、吉見頼行は赴任。

標高367mの霊亀山(れいきさん)の頂に、当初「三本松城」(さんぼんまつじょう)と呼ばれた「津和野城」(つわのじょう)を築城しました。

吉見頼行の子である「吉見頼直」(よしみよりなお)の代となった1324年(正中元年)、着工からおよそ30年をかけて、ついに本格的な山城が完成しました。これ以降の津和野は、山陽と山陰を結ぶ要衝の地となったのです。

関ヶ原の戦いのあとに城と城下町を整備

1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で西軍が敗れ、その頃「毛利氏」(もうりし)に臣従(しんじゅう:家来として付き従うこと)していた津和野の吉見氏は、領地を追われて「」(はぎ:現在の山口県萩市)へ移住します。代わって津和野城に入城したのは、東軍に属していた「坂崎直盛」(さかざきなおもり)でした。

坂崎直盛は、津和野城を堅固な近世城郭に大改修します。現在にも遺されている本丸、二の丸、三の丸を、鉄砲による攻撃に備えて石垣で強化。見通しの悪い城の側面を守るために、本丸の北側約200mの場所に「綾部丸」(おりべまる)と呼ばれる出丸(でまる:本城から張り出すように築かれた小城)を築きました。さらに坂崎直盛は、城下町の整備を行ない、新田開発や楮(こうぞ:和紙の原料)の植樹、用水路の建設など、わずか16年という在位期間中に、のちの津和野の礎を見事に築き上げたのです。

この他にも「鯉の養殖」も手がけ、お堀には現在も色とりどりの錦鯉達が悠々と泳ぐ姿が見られます。「鯉が泳ぐ城下町」である津和野の町を散策すれば、歴女の皆さんも、癒されること間違いなしです。

千姫事件により断絶してしまった坂崎家

千姫

千姫

坂崎直盛にまつわる有名な逸話と言えば、「千姫事件」(せんひめじけん)。

細かい部分に諸説あるものの、以下のように伝えられています。

1615年(元和元年)、「大坂夏の陣」で「大坂城」(おおさかじょう)が落城した際、坂崎直盛は「徳川家康」(とくがわいえやす)の孫であり、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の正室であった千姫を救出。

たいへん喜んだ徳川家康は、千姫を坂崎直盛に嫁がせる約束をしたものの、千姫はそれを嫌って「桑名藩」(くわなはん)の「本多忠刻」(ほんだただとき)に嫁ぐことを決めてしまいます。坂崎直盛はこれを恨み、桑名に向かう千姫の輿を奪おうと「千姫奪還」計画を企てるのです。この計画は、もちろん未然に発覚し、幕府から謀反の罪に問われます。そして、将軍家の剣術指南役であった「柳生宗矩」(やぎゅうむねのり)の説得により、坂崎直盛は無念、自害の道を選び、坂崎家は、わずか1代にて断絶。なんとも悲しい結末を迎えてしまったのです。

戦乱の時代が終わり、城下町が繁栄

坂崎家が失脚したのちに津和野城に入城したのは、もとは「尼子氏」(あまごし)の旧臣で、山陰にゆかりの深い「亀井政矩」(かめいまさのり)でした。「亀井氏」(かめいし)は、最後の藩主となった名君の呼び声高い「亀井茲監」(かめいこれみ)の時代までの約250年間、11代に亘って津和野を治めることとなります。

幕府は、隣接する大藩「長州藩」(ちょうしゅうはん)に備え、外様ながらに信頼のおける亀井氏に津和野を任せていましたが、すでに戦乱の世は終わりを迎えていました。戦には強い山城も、平和が訪れれば暮らすには不便でしかなかったのです。

亀井政矩は、山麓に居館を構えて津和野藩邸とし、山間を流れる津和野川岸の平地に、本格的な城下町を整備することを決意。江戸後期の古地図には、藩邸に近い場所に侍屋敷、津和野川を挟んだ向こう岸に町家が広がり、町の規模も大きくなっていったことが記されています。この古地図に描かれている城下の町並みは、ほとんど今と変わっていません。往時の景色が現在の津和野に残っているのです。

幕末から明治にかけ多くの学者を輩出

1786年(天明6年)、8代藩主「亀井矩賢」(かめいのりかた)により創設された藩校「養老館」(ようろうかん)を中心に、津和野では学問が盛んとなります。その後、11代藩主・亀井茲監が規模を拡大し、幕末期から明治期にかけて津和野藩からは多くの学者が輩出されました。

国学者「大国隆正」(おおくにたかまさ)、藩主の懐刀として活躍した同じく国学者「福羽美静」(ふくばびせい)、津和野藩の御典医(ごてんい:将軍や大名に仕えた医者)の家柄の哲学者「西周」(にしあまね)、陸軍軍医としても活躍した文豪「森鴎外」(もりおうがい)など、日本を代表する多くの人物が津和野の地で育成されたのです。これは歴代藩主が好学であり、人材育成重視の施策を行なったことが功を奏したと言われています。

古い津和野のシンボル・殿町通り

殿町通り

殿町通り

江戸初期に藩邸が置かれたことから「殿町通り」(とのまちどおり)と名付けられた、美しい白壁の武家屋敷が並ぶ人気エリア。

津和野城下を南北に貫くメインストリート。古い佇まいを残しており、商店が軒を連ねる本町通りとは趣が異なります。

江戸初期に完成された掘割が土堀に面しており、清流に無数の鯉が群れをなして泳ぐ様は、津和野ならではの光景です。

津和野藩家老「多胡家」(たごけ)の表門や、森鴎外や西周ら俊才を生んだ藩校・養老館など多くの史跡が集まっています。

江戸時代の津和野の息吹を感じたい歴女の皆さんは、まずここから散策を始めることがオススメです。

太鼓谷稲成神社

太鼓谷稲成神社

太鼓谷稲成神社

江戸中期の1773年(安永2年)、津和野城の鬼門にあたる方角に、7代藩主「亀井矩貞」(かめいのりさだ)が城の鎮護と藩の安泰を祈願して建てた神社。

信仰者により奉納された約1,000本の鳥居が並ぶ様は壮観です。

この「太鼓谷稲成神社」(たいこだにいなりじんじゃ)は、日本五大稲荷神社のひとつ。

年間の参拝者は100万人を超えると言われ、その数は島根県内では出雲大社に次ぐ2番目を誇ります。

なお、通常「稲荷」(いなり)と記すところを「稲成」としているのは、願いごとがよく叶うようにという願望成就・大願成就の意味が込められているとのこと。何か叶えたい願いごとがある歴女の方には、ぜひ訪れて頂きたい神社です。

永明寺

永明寺

永明寺

津和野城下町の西側の山麓には寺院が並んでおり、なかでも古い歴史を誇るのが「永明寺」(ようめいじ)。

1420年(応永27年)、津和野城主「吉見頼弘」(よしみよりひろ)によって創建された曹洞宗(そうとうしゅう)の古刹(こさつ:由緒ある古い寺)で、現在の本堂は1749年(寛延2年)の火災ののちに再建されました。

寺としては珍しい総茅葺きの屋根は、思わずため息がでる見事な美しさ。奥には日本庭園、津和野ゆかりの貴重な品を展示する寺宝館などがあります。

永明寺は、歴代津和野城主の菩提寺でもあり、敷地内を進むと墳墓が並ぶ一角が現れます。千姫事件で知られる江戸時代初期の藩主・坂崎直盛の墓を建てたのは、津和野で坂崎直盛の庇護を受けていた「小野寺義道」(おのでらよしみち)だと言われています。墓石には「坂崎」でなく「坂井出羽守」(さかいでわのもり)と刻まれており、墓石の質素さからも、幕府をはばかっていたことが窺えるのです。

また、森鴎外の墓も、遺言どおりに、本名の「森林太郎」(もりりんたろう)の名でひっそりと佇んでいます。

森鴎外記念館

幼少期を津和野で過ごした明治の文豪・森鴎外の、世界初となる独立した記念館の「森鴎外記念館」(もりおうがいきねんかん)。「森鴎外旧宅」も隣接しています。

文学者と陸軍医、2つの顔を持った森鴎外の生涯を分かりやすくまとめた短編映像が流れるシアタールーム、パネル掲示と共にゆかりの品々の置かれた展示室など、丁寧な工夫がなされた記念館です。日本建築の屋敷である森鴎外旧宅は、木造平屋建て、瓦葺きの簡素な造り。森鴎外の4畳半の勉強部屋が見学できます。

わずか11歳で父と共に上京したのち、一度も故郷に帰ることはなかった森鴎外。幼い日々を過ごした津和野を、心から愛した森鴎外に触れることができる場所。

鷺舞神事

鷺舞神事像

鷺舞神事像

鷺舞神事」(さぎまいしんじ)は、津和野川沿いに建つ「弥栄神社」(やさかじんじゃ)に伝わる古典芸能神事で、1542年(天文11年)に時の城主「吉見正頼」(よしみまさより)が山口の祇園会から移し入れたとされています。

元々は、京都の「八坂神社」(やさかじんじゃ)で行なわれた祇園祭に奉納された神事でしたが、京都では残念ながら途絶えてしまいましたが、日本で唯一、この地で脈々と受け継がれてきました。

毎年、祇園祭の7月20日には町内11ヵ所、27日に9ヵ所の、昔から定められた場所で、2羽の鷺(さぎ)が唄やお囃子に合わせて雅に舞い歩きます。見た目に美しい神秘的な鷺の装束は、高さ85cm、重さ約3kgの頭と、大中小3種類の檜の羽を39枚集め、扇型に形作った重さ12kgの鷺羽から成るとのこと。1994年(平成6年)には国の重要無形民俗文化財に指定され、格調高い神事として毎年多くの人を魅了しています。

SLやまぐち号

SLやまぐち号

SLやまぐち号

津和野でぜひ体験して頂きたいことのひとつが、SL乗車の旅です。

1979年(昭和54年)に運転を開始して以来、老若男女たくさんの人に愛され続けてきました。

運行期間は、3月から11月の祝休日を基本としています。JR西日本のホームページに運行カレンダーが公開されていますので、要チェックです。

運行ルートは、JR山口線の「新山口駅」から「津和野」間の10駅で、総距離62.9kmをおよそ2時間かけて走ります。

現在、山口線を走るSLは「貴婦人」の愛称をもつC57型と、「デゴイチ」で親しまれるD51型の2種類。期間によって運転するSLが変わります。普段は1台が5両の客車を牽引しますが、2台のSLを連結し運転する「重連運転」(じゅうれんうんてん)が行なわれることも。

客車は2017年(平成29年)にリニューアルを迎え、SL全盛期に活躍した旧型客車を復刻する形で一新されました。1号車のみグリーン車、2~5号車が普通客車、5号車は戦前を代表する特別仕様の客車両となっています。また、車内には運転シミュレーターやゲーム体験コーナーなども設置され、よりSLを楽しめるように進化したとのことです。

城下町を蒸気機関車が走る様子は、他の城下町ではめったに観られない光景。「撮り鉄」な歴女の皆さんは、撮影マナーを守りつつ、そのシャッターチャンスを窺ってみてはいかがでしょうか。

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