歴女に人気の城下町

宮城県の城下町・登米(登米市)

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1604年(慶長9年)に「伊達政宗」(だてまさむね)の領地となり、その一門である登米伊達氏の城下町として繁栄した「登米」(とよま)。町の西部を北上川(きたかみがわ)が流れる川沿いの、河川交通の中継拠点として発展してきた城下町です。
登米伊達氏による治世は、明治維新まで13代300年に亘り続きました。現在も町のなかには、明治期の洋風建築が点在。近世と近代、現代が融合した町並みは、歴女に人気の高いスポットです。

変遷を重ねた登米の呼び名

現在、「登米」と表記される宮城県の地名は、市を表す場合には「とめ」、町名としては「とよま」と呼ばれています。歴史を辿ると、この地域の呼び名は何度も変遷を重ねていると言われているのです。

平安時代初期に編纂された歴史書の「続日本紀」(しょくにほんぎ)には、774年(宝亀5年)に「大伴駿河麻呂」(おおともするがまろ)が「蝦夷地」(えぞち:現在の北海道)の鎮圧に向けて「陸奥国遠山村」(むつのくにとよまむら:現在の宮城県北部)に入ったとの記述があり、この遠山が「とよま」になったと言われています。

また、789年(延暦8年)に登米郡(とよまぐん)がつくられ、当時の辞書として編纂された「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)にある「止与米」(とよま)が群名と同一化したのです。

松尾芭蕉

松尾芭蕉

時代が下り、江戸時代の1689年(元禄2年)に書かれた「奥の細道」の一節には、弟子の「曾良」(そら)と共に、「松尾芭蕉」(まつおばしょう)が「戸伊摩」(といま)で一泊しています。

この当時の領主は「登米伊達村直」(とよまだてむらなお)だったことから、登米のことであると考えられているのです。

さらに、1788年(天明8年)幕府の巡検使に随行して当地を訪れた地理学者の「古川古松軒」(ふるかわこしょうけん)は、紀行文のなかで「豊米郡豊米」(とよまぐんとよま)の表記を使用しています。

登米城下を盤石にした白石宗直

伊達政宗

伊達政宗

登米は、「伊達政宗」(だてまさむね)と深いゆかりを持った地です。

鎌倉時代には、「源頼朝」(みなもとのよりとも)の「奥州合戦」(おうしゅうかっせん)で武功を上げた「葛西氏」(かさいし)が支配しており、1536年(天文5年)に15代領主「葛西晴胤」(かさいはるたね)が居城を石巻から登米に移しました。

登米は、水陸における交通の要衝であり、領地の経営には最もふさわしい場所であると考えたと言われています。

豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に反旗を翻した葛西氏は滅亡の道を辿り、登米の治世は「木村氏」(きむらし)に引き継がれました。しかし、木村氏の圧政は農民を苦しめ、葛西氏の旧臣と農民は結託して大規模な一揆を引き起こします。一揆を平定したのは伊達政宗でした。以後、登米の統治を任されたのは、「白石宗直」(しろいしむねなお)。

現在の武家屋敷通り

現在の武家屋敷通り

1606年(慶長11年)には町割りを行ない、家中町として広小路、桜小路、鉄砲町などの十か町を設け、町屋敷として三日町、九日町、中町などを設置。

さらに7年ほどあとには下町、上町を武士の町に、新町(あらまち)や八丁田を足軽丁として整備し、「登米伊達家」の基盤を盤石にしていきます。

散策した歴女は、登米城下町発展の歴史を感じ取ることができるでしょう。

1615年(元和元年)に伊達の姓を名乗ることを許されると、「伊達相模宗直」(だてさがみむねなお)と称するようになり、「白石家」(しろいしけ)は登米伊達家と呼ばれるようになりました。伊達宗直は一揆の後遺症と、川の氾濫などによって荒廃していた登米の町に治水を施し、堤防を築き、新田開発に着手します。

大規模な工事には人手が必要です。そこで、伊達宗直は仇敵である葛西氏の臣下だった武士達も招き入れて家中の列に加え、商人も集めるなど、精力的に政(まつりごと)を行ないました。

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約20年で世帯数が倍増

寺池城跡

寺池城跡

登米は「寺池」(てらいけ)と呼ばれることがあります。これは、城下町の中心となるお城にあたる存在が寺池要害であったことに由来。

「要害」(ようがい)とは、小規模なお城のような施設で、仙台藩伊達氏の要害は、「伊達四十八館」とも称され、登米の他、水沢、一関、岩出山、涌谷、佐沼、岩沼、船岡、亘理、金山、角田などがありました。こうした要害の周辺には、小規模な城下町類似の町が形成されていたのです。

寺池要害は、城下の北側の丘陵地に建てられていました。この丘の麓にを造り、背面は山によって守られた構造です。お城の南橋には大橋がかけられ、二の曲輪(二の丸)から本丸へと続きます。その本丸には、幕末まで登米伊達氏の居館が設けられていました。

一方、元禄年間(1688~1704年)には174軒だった城下の家中町は、宝永年間(1704~1711年)には334軒に達し、約20年間でほぼ倍増していることから、城下の発展のスピードが分かります。城下町の南側に続く丘陵地の麓には、登米伊達家の菩提寺の「養雲寺」(よううんじ)、葛西氏の菩提寺の「龍源寺」(りゅうげんじ)などが並び、寺町を形成。

現在の登米町には武家屋敷が残る地域もあり、散策した歴女ならずとも、伊達一門が華やかなりし頃の面影を感じ取ることができるのです。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

西洋建築を学んだ大工の功績

登米伊達氏の13代、約300年に及んだ統治が終わり、明治に入ると、登米町は北上川(きたかみがわ)の船運により、米穀の集散地として、繁栄の道を進みました。廃藩置県によって、登米県の県庁所在地となった登米は、寺池村や日野渡村などと合併し、登米村となります。

そして、1889年(明治22年)の町制施行によって、登米町が誕生。当時建てられた「旧登米高等尋常小学校」(きゅうとよまこうとうじんじょうしょうがっこう)や「旧登米警察署庁舎」(きゅうとよまけいさつしょちょうしゃ)の洋風建築物、廃藩置県当時の「旧水沢県庁舎」(きゅうみずさわけんちょうしゃ)や、蔵造りの商家などもそのままの姿で残されています。

いつしか登米の城下町は、「みやぎの明治村」と呼ばれるようになりました。江戸時代の面影を探して角を曲がったら、明治の建物に遭遇する。そんなできごとも、登米の町では日常茶飯事。歴女ならずとも、時間旅行をしているかのような気分を味わえます。

明治時代初期の代表的な建築物である旧登米高等尋常小学校や、旧登米警察署庁舎を手がけたのは、大工の「山添喜三郎」(やまぞえきさぶろう)でした。1873年(明治6年)に開催された「ウィーン万国博覧会」への参加を決めた明治政府に招聘され、日本館のパビリオン建設の責任者となった大工のひとりが山添喜三郎です。

渡欧に際しては、西欧の建築技術を習得することも任務となっていました。つまり、山添喜三郎は西洋建築を学んだ日本人初の大工であると言えるのです。期待に応えて帰国した山添喜三郎は、登米の公共建造物の建築で力を発揮しました。

山添喜三郎には、かなり気難しい性格だったようで、様々なエピソードが残されています。屋根瓦は一晩水に浸けて翌日吸水量を調べ、基準値から外れた瓦は不合格となり、使わせなかった逸話も。あまりにも厳格な基準だったため、納入業者は次々に倒産してしまったとも言われています。

しかし、妥協を許さない山添喜三郎が手がけたからこそ、登米には明治期の建物が当時の姿のままで残ったのです。そんな先人の情熱や苦労にも耳を傾ければ、明治という時代が生き生きと蘇ってきます。

登米城下町の散策ポイント

登米の城下町は江戸時代に大きく発展し、今もその面影を残しています。さらに、明治時代に目を向けると和と洋が組み合わされた素晴らしい建築物が生まれ、登米を訪れる現代の私達にモダンとは何かを教えてくれているようです。ここでは、時代の移り変わりを感じられる登米の城下町をご紹介しましょう。

武家屋敷春蘭亭

春蘭亭

春蘭亭

「武家屋敷春蘭亭」(ぶけやしきしゅんらんてい)は、1604年(慶長9年)に白石宗直が移住した「鈴木家」(すずきけ)が所有していた屋敷。

創建年代について詳しいことは分かっていませんが、江戸中期から後期にかけての建物で200年以上前に竣工したと言われています。

1989年(平成元年)までは、実際に持ち主が住んでいましたが、町に寄贈されることになり保存修理が施され、現在は町の象徴的存在。

喫茶コーナーでは、町に自生する春蘭を加工した春蘭茶を味わうことが可能です。に触れたり、甲冑を着用できたりする体験コーナーも設置。歴女だけでなく、「刀剣女子」や「甲冑女子」も大満足のスポットです。

登米懐古館

登米懐古館」(とよまかいこかん)は、仙台藩21要害のひとつで「寺池城」(てらいけじょう)と呼ばれた寺池要害。登米伊達氏の居館があった場所は、現在、本丸跡が畑となり、二の丸は裁判所の敷地として、三の丸は寺池城址公園となり、わずかに曲輪や土塁、空堀などを残すのみですが、そこに建てられた登米懐古館に登米伊達家にゆかりの深い大鎧具足が納められ、展示されています。

敷地の東南の石垣に横たわる赤松の巨木「双竜の松」は樹齢300年。登米の歴史を見つめてきた古(いにしえ)の雰囲気を醸し出している古木です。

旧登米高等尋常小学校

旧登米高等尋常小学校

旧登米高等尋常小学校

旧登米高等尋常小学校は、1888年(明治21年)に2年半の歳月をかけて竣工。

寄棟造(よせむねづくり)の棧瓦葺き(さんがわらぶき)の屋根を頂く木造2階建の校舎がコの字型にレイアウトされています。

正面の校舎の中央には、バルコニー式の玄関が設置され、この部分だけ白く塗られているのは竣工当時のままです。

バルコニーの柱の頭にあたる部分には、ギリシア建築のイオニア式を模した意匠で飾られており、教室の外には欄干のある廊下を設けています。

教室の窓には、当時としては貴重だった板硝子を使用。この建物を手がけたのは、日本人として初めて西洋建築を学んだ大工の山添喜三郎です。山添喜三郎は、75歳のときに第18代内閣総理大臣「寺内正毅」(てらうちまさたけ)の上奏により、宮城県技師、高等官七官に任命されるなど、実績を高く評価されています。

この校舎は、明治の洋風学校を代表する建物として、1981年(昭和56年)に国の重要文化財に指定されました。

旧登米警察庁舎(警察資料館)

旧登米警察庁舎

旧登米警察庁舎

旧登米警察庁舎は、警察関係資料を展示した日本唯一の警察資料館。

1889年(明治22年)に竣工した登米警察署の白い建物が当時のままの姿で残されています。

木造2階建の寄棟の瓦葺きで玄関の上に突き出たバルコニーが特徴的。

屋根に載せられた鬼瓦が和洋折衷の印象を醸し、髭を蓄えた明治のおまわりさんが今にも出て来そうな雰囲気です。

この建物の復元工事の途中に、明治時代の留置場の基礎が発見されたことから、全国でも珍しい明治時代の留置場も再現されています。この建物の設計を手がけたのも、日本人で初めて西洋建築を学んだ大工として知られる山添喜三郎。

また、門の右には大正時代に建てられた高さ約21mの火の見櫓があり、レトロな雰囲気を一層盛り上げています。

水沢県庁記念館

水沢県庁記念館

水沢県庁記念館

明治の廃藩置県が行なわれた際、現在の宮城県の北部と岩手県南部を併せて登米県が置かれた時代がありました。

その際に登米県庁舎が設置され、水沢県庁舎が建てられました。

建物の玄関には入母屋造の屋根を載せ、「破風」(はふ:屋根の妻側の造形)に「狐格子」(きつねごうし:破風の下に設置されている格子)を施した純和風建築ですが、本棟は洋風の木造を採用しています。

県庁舎として使われたのは明治初期のわずか3年間でしたが、そのあとは石巻治安裁判所登米出張所として使用されました。

現在は、宮城県の誕生の経緯や裁判所時代の貴重な資料が展示され、記念撮影の人気スポットにもなっています。

伝統芸能伝承館森舞台

登米に300年前から伝わる「登米能」(とよまのう)は、仙台藩祖の伊達政宗以来、歴代藩主が楽しんだ伝統ある芸能です。明治の廃藩置県により、一時は存亡の機に立たされましたが、登米伊達一門が農地を家臣に分け与えたことから、家臣全員が農業に従事。これにより、登米能は庶民の芸能として広まり、今に受け継がれています。

その登米能が行なわれるのが「伝統芸能伝承館森舞台」(でんとうげいのうでんしょうかんもりぶたい)です。設計を手がけたのは、2020年(令和2年)の東京オリンピックの舞台「国立競技場」も手がけた建築家の「隈研吾」(くまけんご)。「自然と一体となった場所で能は表現されるもの」との思いから能舞台造りに取り組んだと言われています。

また、鏡板の絵は日本画家「千住博」(せんじゅひろし)が制作。千住博は「実際の大きな労相がそこに存在するような雰囲気」を目指しました。

絵に使われた絵の具の緑青や群青は天然の素材を使い、極限まで自然との一体感を追求。江戸や明治の建物を見学したあと、現代の芸術家達の建築作品に触れることで、歴女ならずとも、日本文化の懐の深さを体感することができるのです。

また、毎年9月には「薪能」(たきぎのう)が開催されている他、各種音楽のコンサート会場としても親しまれています。

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