歴女に人気の城下町

新潟県の城下町・高田(上越市)

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新潟県上越市の「高田」は、江戸時代に出現した城下町。高田城が築城される以前は、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)の居城だった春日山城下にほど近い寒村(かんそん:貧しくさびれた村のこと)でした。この地域の政治の中心が典型的な山城の春日山城から高田平野の平城に移されたことは、戦のない泰平の世へ向かう時代の要請だったのかも知れません。
冬は一面の銀世界に包まれる豪雪地帯ですが、春になると城下の堀に沿って約4,000本もの桜が一斉に咲き始めます。1年の間に大きく色合いが変化する城下町・高田では、歴女のみなさんもドラマチックな歴史に出会えそうです。

上杉謙信の山城から江戸幕府の平城へ

古来、「上越後」(かみえちご)と呼ばれた地域の寒村(かんそん:貧しくさびれた村のこと)として歴史を紡いだ高田。現在は、新潟県上越市のほぼ中央に位置する、中堅の地方都市を形成しています。

江戸幕府による政治が始まる直前の1603年(慶長8年)、この地域には福島城が築かれ、「堀秀治」(ほりひではる)が城主を務めていました。しかし、お家騒動が原因で堀氏は改易となり、直後に「徳川家康」(とくがわいえやす)の六男「松平忠輝」(まつだいらただてる)が入封。

松平忠輝は、福島城が小さいことに落胆し、生母の「阿茶局」(あちゃのつぼね)を通じて徳川家康に新城の造営を願い出ています。その念願が叶い、入封から3年後の1614年(慶長19年)、松平忠輝は新しい城の建築に着手しました。これが高田城です。

伊達政宗

伊達政宗

建設にあたっては徳川家康も援助を惜しみませんでした。仙台藩主の「伊達政宗」(だてまさむね)を普請総奉行(ふしんそうぶぎょう)に据え、加賀の前田氏や米沢の上杉氏など13の大名に助役を命じています。

これらの補佐役は、すべて外様大名。歴女ならお気付きの通り、徳川家康は今後も敵対する可能性を秘めた大名に人手を負担させて、忠誠心を推し量ったのでしょう。

ただ、このときは「大坂冬の陣」の直前だったことから、築城にかけた期間はわずか4ヵ月でした。構造上は名古屋城を手本としながらも、突貫工事を余儀なくされます。したがって、一応の完成を迎えましたが、いずれ大改築をすることを前提としていました。それでも、広大な敷地に建つ平城の高田城は、なかなか見栄えが良く、天守は持たないものの、本丸には三層櫓を備えていたのです。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

春日山城下から人も文化も引越し

高田城本丸跡

高田城本丸跡

高田城には、石垣がありませんでした。突貫工事であまり手を掛けられなかった事情もありましたが、何よりも低湿地であったため、石垣を支えられるほどの強い地盤がなかったのです。

また、石材を調達できる産地が近隣になかったことも理由のひとつ。そこで、高さ20mほどの土塁を築いて、蛇行した川筋を利用し、2重の堀で守りを固めることになりました。

また、高田城下の住人は、武家も含めて松平忠輝が前任地の川中島や、春日山と福島の城下から移住させた人々。なんと、高田は都市機能だけでなく、住人までもが新参の新興都市だったのです。

名家老のリーダーシップで震災から見事に復興

新田開発や殖産興業によって順調な発展を続けていた高田藩でしたが、1665年(寛文5年)に大地震が発生し、甚大な被害に見舞われます。城郭も城下の家屋も、ほとんどが倒壊してしまいました。この悲惨な状況に陥った城下町を復興に導いたのは、高田藩の家老だった「小栗美作」(おぐりみまさか)です。

小栗美作は、幕府から5万両を借り出し、町家には家屋の規模に応じた融資を行ない、迅速に灌漑用水(かんがいようすい)も整備しました。現代の高田は、この震災後に復興を果たした城下町がベースになっており、突貫工事で築いた高田の城と城下は、震災を経て真の完成に至ったとも言えます。

城下町は、高田城の南北と西に広がり、城に近い部分に武家屋敷を、その外側に商人町がレイアウトされました。さらにその外側には2列に寺町が置かれ、城下を防御しています。

そののちも凶作や大火などで窮地に陥ることもありましたが、そのたびに小栗美作が善政を打ち出し、見事に乗り越えたのです。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

城下町の基礎を築いたのは豊臣秀吉の腹心

地理的、歴史的な背景においても、高田は特別な事情を持つ城下町でもありました。

高田藩開府の1614年(慶長19年)は、徳川家豊臣家との間に緊張感が残っている時代。徳川家康が高田の地に自らの息子を配したのは、隣接地域を支配する加賀藩前田家を牽制するためでした。「関ヶ原の戦い」で豊臣側についた前田家が、万が一、反旗を翻して江戸に攻め入ろうした際には、高田のある越後で押さえ込むしかありません。

何より、高田の位置しているのは上杉謙信ゆかりの土地。上杉家の息のかかった旧臣が農民と結託して蜂起する恐れもあり、その流れに各地の外様大名達が呼応すれば、再び国を二分する戦が起こるかもしれないのです。歴史に造詣が深い歴女なら、想像に難く(かたく)ない事態と言えるでしょう。

さらに、江戸幕府の財源を支えていた佐渡金山の監視と、産出した金の輸送を警護する必要もありました。

初代藩主の松平忠輝は、江戸の意向を受けて北国街道や奥州街道の道筋を変更して、旅人が否応なく高田を通過するよう整備し、佐渡の金も必ず高田を通ることを定めたのです。

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徳川家康の期待を裏切った松平忠輝

「お家騒動の絶えなかった藩」。高田藩には、そんな不名誉な歴史も残っています。初代藩主の松平忠輝は、1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」で、北国の総大将を任じられていました。ところが、大阪府に向かう途中で川遊びに興じ、さらには途上の近江で家臣が地元の旗本を2人も斬り殺す事件を起こしてしまいます。

これらの所業を聞き、徳川家康と「徳川秀忠」(とくがわひでただ)は激怒しました。2人の怒りは収まることなく、松平忠輝は伊勢国朝熊(いせのくにあさま:現在の三重県伊勢市)に配流されます。

実は、松平忠輝は徳川秀忠の失脚を画策し、自らが将軍の座に着こうとしていました。それによって配流になった説もありますが、真相は定かではありません。ただ、江戸幕府の屋台骨を揺るがしかねない動きに対しては、それが我が子によって引き起こされたことであっても厳しく対処する、そんな徳川家康の姿勢がうかがえます。

越後騒動でお取り潰しになった高田藩

震災から高田城下を復興させた小栗美作も、お家騒動に巻き込まれたひとりでした。当時の藩主の嫡男が病死したことから継承問題が持ち上がったのです。

小栗美作の妻は藩主の妹でした。その妻との間に生まれた子を藩主の養子にしようとしたのですが、藩主の異母弟が異を唱え、小栗美作を泥沼に陥れます。一旦は、幕府の大老「酒井忠清」(さかいただきよ)が裁定して小栗美作に軍配が上がりましたが、4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)が亡くなると様相が一変。

新しく将軍の座に着いた「徳川綱吉」(とくがわつなよし)は、将軍の世継ぎについて小栗美作と酒井忠清が高田藩主の妹婿だった親王家を立てようとしていた話を蒸し返したのです。それは私怨だったのか、政治的な警戒心があったのか、真相は定かではありませんが、徳川綱吉は小栗美作に死罪を言い渡し、高田藩はお取り潰しになってしまいました。

さらには、すでに亡くなっていた酒井忠清に鞭打ったとも言われています。この一連の事件は「越後騒動」と呼ばれていますが、一方では小栗美作が自分の息子を藩主に立てようとしていた確証はなく、それどころか藩主の甥を推していたとの話も残り、小栗美作が無念の濡れ衣を着せられた可能性が高いとの説もあります。歴女のみなさんは、真相をどのように推理するでしょうか。

そののち、高田の領地は幕府の直轄となりましたが、約4年後には小田原から「稲葉正往」(いなばまさみち)が入封し、再び立藩を果たしました。

上杉謙信が育くんだ文化も融合

上杉謙信

上杉謙信

上越の歴史において、戦国時代の英雄・上杉謙信に触れない訳にはいきません。歴女からも高い人気を集める戦国武将です。

上杉謙信の築いた文化は、高田の城下町にどのような形で伝わったのでしょうか。少し時代を巻き戻してみましょう。

奈良時代の704~708年(慶雲年間)には、現在の直江津(なおえつ)に国府が置かれ、越後一の宮や国分寺も創建されていたと言います。また、武士の台頭が始まる南北朝時代には、上杉家が越後守護職を務め、御館城(おたてじょう)を築きました。

上杉謙信の血筋である長尾氏は、守護を補佐する守護代として活躍。そして、1500年(永正年間)ごろに、「長尾為景」(ながおためかげ)が登場し、春日山城を建てました。この長尾為景が上杉謙信の父親です。下克上によって実権を握った長尾氏は、上杉の姓を受け継ぎます。上杉謙信の代になると上杉家の勢いはますます盛んになり、領地を拡大。当時の春日山城下は、京都に次ぐ先進都市を形成していました。

しかし、上杉謙信が急逝し、「豊臣秀吉」が全国統一を果たすと、敵対関係にあった上杉家は海津に転封となります。前述の通り、初代高田藩主は、高田の城下に春日山城下から人も文化も丸ごと移転させました。しかも、高田城下から春日山城までは徒歩で約1時間40分の距離です。城が変わったとしても、土地に根付いた風習や気質はそのまま受け継がれたと考えられます。

再び現代へ時間を戻し、歴女のみなさんが歴史に想いを馳せながら散策できる必見スポットをご紹介。眼下に高田平野を見下ろす春日山には、今でも城跡が残り武家屋敷跡も保存されており、高田城下の歴史を掘り下げるためにも、ぜひ訪れておきたい場所です。

花の名所でもある高田城「高田公園」

高田城跡に整備された広さ約50haの高田公園。園内には、復元された三重櫓(さんじゅうやぐら)や上越市立歴史博物館、日本画の大家の名を冠した「小林古径記念美術館」(こばやしこけいきねんびじゅつかん)、「高田図書館」には、上越市出身の童話作家「小川未明」の業績と作品などを分かりやすく紹介した「小川未明文学館」(おがわみめいぶんがくかん)などが設置され、この地に伝わる様々な文化と触れ合えます。

また、春には約4,000本のソメイヨシノが咲き競い合い、夏には蓮の花がお堀を埋め尽くす花の名所と知られており、それらの開花時期には多くの観光客で賑わいます。「花も大好き!」と言う歴女は、花の季節に訪ねて、ぜひ写真に収めてみましょう。

夜桜も雪も似合う撮影スポット「三重櫓」

高田城 三重櫓

高田城 三重櫓

高田城のシンボルでもある三重櫓を復元。1階と2階は歴史資料の展示室、3階は城下町を見渡す展望室になっています。

桜の季節のライトアップも見事で、「日本三大夜桜」のひとつとして有名。また、真っ白な雪に包まれた櫓の光景も格別です。

この櫓の復元に際しては、昔の絵図や古文書を検討し、発掘調査など詳細な調査と研究が行なわれました。規模は、稲葉正往が藩主だった時代の「高田城図間尺」に記された数値に近付け、外観は「松平光長」(まつだいらみつなが)時代の「本丸御殿絵図」を参考にしています。

屋上デッキから城下町を一望「上越市立歴史博物館」

上越市立歴史博物館は、「越後の都」をテーマに、この地域にまつわる安土桃山時代以降の歴史資料を常設展示。春日山城から福島城を経て、高田城に至る城の変遷と時代背景、それに伴う城下町の発展の様子を知ることができます。

内堀や本丸土塁を望む1階ラウンジや、三重櫓の向こうに広がる妙高山の風景を見渡せる屋上デッキは入館無料。歴女のみなさんも散策途中の休憩に立ち寄ってみてはいかがでしょう。

雪国の知恵を体感「雁木通り」

雁木通り

雁木通り

「雁木」(がんぎ)とは、建物の周りの通路に雪が積もらないよう、庇(ひさし)や家屋の一部を延ばした構造を指します。

少し古風なアーケードといった雰囲気です。豪雪地帯にあった高田の城下町は、冬になると2mを超える雪に覆われることも珍しくなかったとのこと。

江戸時代の紀行文には、正月に飛脚が高田を通りかかったものの、人家が雪に埋もれてしまいどこに町があるのか分からなかったと言う逸話が記されています。困った飛脚が辺りを見回すと、「この下に高田あり」と書いた高札が所々に立てられていたのです。

そんな雪国の人々の知恵から生まれた雁木は、現在の上越市内にも総延長16kmほど残り、日本一の長さを誇っています。この雁木通り界隈は、歴史的建造物が集まる魅力的なスポットでもあり、冬に訪れれば、雪の城下町の情緒を体感できるでしょう。

雁木のこと、もっと知りたい!町家交流館「高田小町」

建物は明治時代に建てられましたが、この地に受け継がれる町家の文化と歴史に触れることができます。往時の様子を物語る吹き抜けや土蔵は迫力満点。雁木に関する情報も展示されています。入館や内部見学は無料。町歩きの案内・休憩所としての利用もおすすめです。

また、ギャラリー1(ギャラリーミセ)には、お菓子やお茶、地酒など、歴女が気になる城下町高田のお土産が揃っています。

十返舎一九も訪れた飴専門店「高橋孫左衞門商店」

江戸時代から約390年にわたり暖簾を守る日本一古い飴の専門店。

創業の1624年(寛永元年)から越後名物の粟飴、翁飴(おきなあめ)、笹飴を一途に作り続けています。水飴と寒天で作った翁飴は高田城主の参勤交代のお土産に使われました。それがきっかけとなって、その名が全国に広まったと言われています。

このお店には、「東海道中膝栗毛」(とうかいどうちゅうひざくりげ)の著者「十返舎一九」(じっぺんしゃいっく)も来訪したと言うから驚きです。十返舎一九が書いた「越後道中・金の草履」には、粟飴や当時のお店の様子が描かれています。

また、「夏目漱石」(なつめそうせき)の「坊ちゃん」に登場する笹飴もこのお店の製品です。歴女なら、飴のおいしさだけでなく、歴史の深い味わいも感じられることでしょう。

上杉謙信の幻影を探す「春日山城跡」

春日山城

春日山城

上杉謙信の居城だった春日山城のことを知れば、高田の城下町の歴史散策はさらに楽しくなります。

春日山城の築城の時期は定かではありませんが、南北朝時代にはすでに存在していたと言われます。

当初は小規模な城だったようですが、上杉謙信、「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)らの手によって現在のような広大な城に整備されました。

自然の地形を巧みに活かした春日山城は、「難攻不落の天下の名城」と謳われたほど。今もなお、空堀や土塁、大井戸などが残り、頑強な山城の特色を伝えています。

春日山城の城下は、約1.2kmにおよぶ惣構え(そうがまえ:城の外郭)で囲まれていました。標高約180mの本丸跡からは、日本海や高田平野が一望できます。上杉謙信もこの景色を眺めていたに違いありません。今は城跡の中腹に立つ上杉謙信像が、訪れた歴女に視線を投げかけてくれます。

城下に時を告げる伝統の音色「時の鐘」(瑞泉寺)

1666年(寛文6年)、高田城下に時刻を知らせるために「時の鐘」が設けられました。

現在、「瑞泉寺」(ずいせんじ)に納められている時の鐘は、当時の藩主・松平光長の母が鋳造させた物で、町年寄「吉田七兵衛」(よしだしちべえ)の屋敷に設置。尺時計(日時計)などで時刻を計り、2時間ごとに昼夜12回打ち鳴らしていたと言われています。

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