歴女に人気の城下町

千葉県の城下町・佐倉(佐倉市)

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千葉県佐倉市の佐倉(さくら)は、江戸幕府で最多の老中を輩出した、佐倉藩があった名門の町。特に、老中「堀田正睦」(ほったまさよし)は、蘭学や西洋医学をいち早く採り入れ、教育にも熱心に取り組んだ人として有名です。
そんな佐倉藩の歴史や歴代藩主達の足跡をご紹介。江戸情緒が色濃く残り、映画やドラマの撮影地に選ばれた、歴女必見の見どころもご紹介します。

土塁と空堀が守るお城、藩士の功績は「居住の制」で格付け

現在の千葉県北部は、江戸城を守る防備の要となった地域です。その鹿島台地の西端にかつて佐倉城がありました。お城の北側は「印旛沼」(いんばぬま)に面し、西と南は崖になっています。その下を流れる鹿島川と高崎川が堀の役割を果たす地形だったので、大規模な水堀を造る必要はなかったのです。

佐倉城の築城が始まったのは、1610年(慶長15年)。「徳川家康」(とくがわいえやす)の命を受けた佐倉藩主で老中の「土井利勝」(どいとしかつ)が、佐倉城の完成に6年の歳月を費やし、居城としました。

角馬出

角馬出

本丸最北端にあった「銅櫓」(どうやぐら)は、「江戸城山里曲輪」(えどじょうやまざとくるわ)から移築した物。3層4階の天守閣がそびえていましたが、石垣はありませんでした。

ただし、お城の出入口には「角馬出」(かくうまだし)と呼ばれる巨大な土塁を築き、その周囲に深さ6mもの空堀をめぐらせることで、敵の侵入を許さない配慮がなされていたのです。

歴女に注目して欲しいのは、佐倉城下には「居住の制」というルールが敷かれ、藩士は禄(現在の給料)によって住む家が定められていたこと。藩への貢献度が高く出世した者ほど充実した住環境が与えられ、それが一目瞭然になってしまうのですから、藩士達は気が抜けなかったに違いありません。その緊張感が佐倉城下に独自の発展をもたらす英気を育んだとも考えられます。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

本佐倉城から始まった佐倉藩の歴史

佐倉城天守跡

佐倉城天守跡

佐倉藩の立藩については、諸説あります。1590年(天正18年)、徳川家康の関東入部の際、家臣だった「三浦善次」(みうらよしつぐ)が1万石を与えられ、「本佐倉城」(もとさくらじょう)に入城して立藩した説がひとつ。

もうひとつの説は、「徳川実紀」(とくがわじっき)に記された「遠江国」(とおとうみのくに:現在の静岡県)久野城主の「久野[久能]宗能」(くのむねよし)が1万3,000石を与えられて立藩したというものです。本佐倉城の趾は、現在の千葉県印旛郡酒々井町(ちばけんいんばぐんしすいまち)に残されています。

そののち、徳川家康の息子達が藩主となったり、関東総奉行が支配する幕領となったりしましたが、1607年(慶長12年)に尾張の犬山城主だった「小笠原吉次」(おがさわらよしつぐ)が、2万8,000石を与えられ再度立藩しました。

佐倉藩史上最高の石高を樹立

小笠原吉次の在任は、わずか2年足らずで終わり、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県・茨城県の一部)の土井利勝にバトンタッチします。

土井利勝は、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の時代に老中として活躍した人物で、一国一城令と武家諸法度の制定を推進。土井利勝が藩主を務めていた時代に、佐倉藩は何度も石高が加増されました。このことからも、土井利勝が評価の高い江戸幕府の重臣だったことが分かります。土井利勝は、佐倉藩史上最高の石高、14万2,000石の記録を打ち立てました。

その土井利勝は、徳川家康から新たなお城を築くよう命じられます。6年かけて完成した佐倉城は、鹿島山の台地に3重の天守閣と2重の銅櫓(どうやぐら)と隅櫓(すみやぐら)、御殿を備えた豪壮な物。その完成に合わせて、地名も「佐倉」と呼ぶようになりました。

名門の堀田氏を襲った事件

佐倉は、江戸時代の藩の中で最多の老中を輩出した城下町。老中を務めた土井利勝から藩政を引き継いだ堀田氏からも2人の老中が出ています。

堀田氏が佐倉藩主として初めて登場するのは、1642年(寛永19年)です。中断はあるものの、258年続いた佐倉藩の歴史の中で約6割にあたる141年の藩政を担ったのが、この堀田家。

最初の藩主になったのは、幕府の若年寄6人衆のひとりに名を連ねていた「堀田正盛」(ほったまさもり)でした。信濃国松本(しなののくにまつもと)から11万石で入封した堀田正盛は、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の覚えがめでたく、めざましい出世を遂げます。しかし、44歳で徳川家光の死に殉じたことから、堀田家の家督を長男「堀田正信」(ほったまさのぶ)が受け継ぎました。

ところが、藩主の座に就いた堀田正信は、ひとつの事件に巻き込まれてしまいます。佐倉藩の領地に住む農民のひとりが、堀田正信の厳しい年貢取り立てに苦しむ農村の窮状を江戸藩邸や老中に直訴し、ついに4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)の行列にも直訴状を差し出したのです。この農民の無謀な行動により年貢は免除されましたが、訴え出た当人は子どもと共に処刑。

この話は歌舞伎などにも脚色されたことから、細部の信憑性については定かではありませんが、当時としては決して許されない行為だったことは確かです。

藩主が起こした狂気の沙汰の顚末とは?

さらにこの事件から7年後、今度は堀田正信自身が事件を起こしてしまいます。幕府を批判する書状を出し、許可なく佐倉城へ帰ってしまったのです。こちらも武家社会では許されない行動。書状には、「幕府の失政が農民や下級武士を苦しめている。自分は領地を返上する」といった内容が記されていました。

本来なら堀田家の家族も処罰の対象となる大罪でしたが、幕閣達は協議のうえ、堀田正信の振る舞いは狂気によるものであると結論付けました。狂人であれば重罪に処する必要がないからです。その温情により、堀田正信は信濃国飯田に預けられることになりました。その後、再び阿波国(あわのくに:現在の徳島県)に移されますが、そこで徳川家綱の死を知った堀田正信も殉死しています。

堀田正信が佐倉藩を去ったあとは、松平氏、大久保氏などが藩主に座りますが、約85年の時を経て、再び堀田氏が返り咲きました。1760年(宝暦10年)、堀田正信の甥の嫡男だった「堀田正亮」(ほったまさすけ)が佐倉に入り、幕末までは6代続けて堀田氏が藩政を担います。

火山噴火や洪水に苦しんだ藩主達

浅間山

浅間山

堀田正亮は、佐倉を12万石以上の藩に育てますが、その跡を継いだ「堀田正順」(ほったまさなり)の時代には、浅間山の大噴火や利根川の洪水などが相次いだことから農民が疲弊し、一揆や打ち壊しに悩まされました。

堀田正順の没後に藩主の座に就いたのは、弟の「堀田正時」(ほったまさとき)です。堀田正順の嫡男の「堀田正愛」(ほったまさちか)が成長するまでのピンチヒッターとして藩主を引き受けた堀田正時は、俳句が好きな自由人の趣を持った人でした。

堀田正愛は成長してようやく藩主の座に就き、藩政改革に着手しますが、大きな成果が得られないまま1825年(文政8年)には、堀田正時の子の「堀田正睦」(ほったまさよし)に藩主の座を譲りました。

先見の明に優れた老中・堀田正睦の藩政

堀田正睦は、江戸幕府の老中となり「水野忠邦」(みずのただくに)と共に「天保の改革」を率いた人です。しかし、改革の成果を出すことができず、老中を罷免されてしまいます。しかし、こののちの堀田正睦は佐倉藩の文化を進化させる藩政改革に情熱を傾け、成功。

1836年(天保7年)には、藩校「成徳書院」を創設し、儒学、武芸、医学、蘭学などの教育環境を整えました。さらに老中を退いたあとは佐倉城下に帰り、蘭学と西洋兵学の研究に力を注ぎます。自らの城下を「西の長崎、東の佐倉」と言われるほどの学都に育て上げていきました。

堀田正睦の功績のなかで特筆すべきは、「旧佐倉順天堂」の創設です。堀田正睦は、江戸で活躍していた高名な医学者「佐藤泰然」(さとうたいぜん)を佐倉に呼び寄せ、医学所で治療を行ないながら後進の指導に当たらせます。学生は全国の各藩から派遣された精鋭の藩士達で、佐倉で学んだことを故郷に持ち帰り、西洋医学の浸透に貢献しました。

しばらくすると、堀田正睦の蘭学や医学への理解の深さは、意外な形で評価をされます。1855年(安政2年)、堀田正睦が老中の座に返り咲くことになったのです。その翌年には「外国御用取扱い」を命ぜられています。1857年(安政4年)に、米国総領事「タウンゼント・ハリス」が江戸城に登城した際、会見したのも堀田正睦でした。

江戸幕府の外交官として「日米修好通商条約」を調印に導き、関税自主権が制限された不平等条約ではあったものの時代の必然を一身に受け止め、開国への道筋を付けたのです。

佐倉城址公園を歩こう

佐倉城は、1813年(文化10年)に盗賊の失火により焼失しました。廃城となり、一時は陸軍の駐屯地となりましたが、現在は、佐倉城址公園として開放されています。天守閣の趾や巨大な角馬出、空堀の中を武士の目線で散策してみるのも一興です。

佐倉城の面影を探して公園をひと巡り

佐倉城址公園

佐倉城址公園

佐倉城址公園で歴女にぜひみて欲しいのは、天守閣趾の脇に立つ樹齢約400年の2本の大きなモッコク。寄り添うように葉を茂らせている様子から「夫婦モッコク」と名付けられ、千葉県の天然記念物に指定されました。

他にも梅、桜、牡丹、花菖蒲、紫陽花など四季折々の花が園内を彩り、秋にはイロハカエデの赤やイチョウの黄色が目を楽しませてくれます。

堀田正睦とタウンゼント・ハリスの銅像

堀田正睦公像

堀田正睦公像

茶室・三逕亭(さんけいてい)の前に建っているのは、凜とした姿で真っ直ぐな視線を投げかける堀田正睦の銅像。

堀田正睦ってどんな人かなと思ったら、ぜひご確認を。なかなかの美男子でした。

また、堀田正睦の銅像の近くには、日米修好通商条約を巡って対峙したアメリカ初代駐日総領事のタウンゼント・ハリスの銅像も設置されています。

タウンゼント・ハリスの名前は、幕末に日米修好通商条約が締結されたことと、現在の日本史の教科書にも出てくるので、知っている方も多いはず。タウンゼント・ハリスも堀田正睦も、今の時代をどのように見ているのでしょうか。それぞれの銅像を観ていると、そんな想像が膨らみます。

三逕亭

三逕亭

三逕亭

二の丸に続く道と「椎木曲輪」(しいのきくるわ)へ向かう道、本丸下をめぐる道の3本が出合う場所に、東京乃木神社から移築復元された茶室があります。

「逕」とは、道を意味する言葉とのこと。日曜日や祝日には呈茶席(ていちゃせき)でお茶とお菓子が楽しめます。

着物で江戸時代にタイムスリップ

市内には着物をレンタルしてくれるNPO法人があります。江戸時代の雰囲気を楽しみたい歴女は、ぜひ着物に着替えて「江戸時代の雰囲気を残した佐倉」の町を散策してみませんか。江戸時代の人になりきって町歩きをすれば、何だかワクワクしてきます。江戸時代を生きた人々の暮らしを感じながら、思い出の写真がたくさん撮れそうです。

藩主が愛した洗練の空間を堪能 旧堀田邸

「旧堀田邸」は、最後の佐倉藩主となった「堀田正倫」(ほったまさとも)が、1890年(明治23年)に建てた邸宅。明治に入ってからの建造物ですが、建物の外観にも内部にも日本の伝統と上級武士の質実剛健な生き方が映し出されています。

玄関棟、座敷棟、居間棟(1階部分)、湯殿と庭園は、一般公開。書斎棟、居間棟(2階部分)、門番所は年に数回の特別公開日に見学が可能です。

歴女におすすめしたいのは、邸宅の前に広がる庭園。愛称は「さくら庭園」で、四季折々の花が咲き競うなかを散策でき、春には見事な桜が咲き誇ります。また、庭園に敷かれた芝生と垣が醸す和洋折衷の趣も独特です。ひととき、居間から庭の風景を眺めるだけでも心が和みます。

佐倉順天堂記念館

「佐倉順天堂記念館」は、藩主・堀田正睦の招きに応じた佐藤泰然が開設した蘭医学の塾。診療も、同時に行なわれていました。佐藤泰然は、当時の蘭医学のパイオニアとして名を馳せた人物です。ここには、全国各地から医学をめざす若者が集まり、習得した知識や技術を故郷に持ち帰って医学の発展に貢献しました。当時の順天堂では、乳がん手術などの先進的な外科手術も、すでに行なわれていたとのこと。

現在残っている建物は、1858年(安政5年)に建てられた物の一部ですが、江戸から明治時代の医者が登場するドラマのロケ地などにも採用されています。また、当時使われた医学書や医療器具などの興味深い展示史料も歴女なら必見です。

サムライの古径を歩こう「ひよどり坂」

ひよどり坂

ひよどり坂

北総台地に広がる城下町・佐倉は、坂道の多い町です。そのなかで、最も趣のある坂道のひとつが、ひよどり坂。

細い道を歩いていると、時代劇のなかに迷い込んだかのような錯覚に襲われます。

坂道のところどころに設えた四ツ目垣や御簾垣(みすがき)、鉄砲垣なども秀逸。鬱蒼とした竹林が続き、江戸時代の旅人になった気分が味わえます。そして、坂道を登り切ると数軒の武家屋敷に辿り着くのです。

歴女にぜひ挑戦して欲しいのが、着物での散策。舗装していないため、道が昔ながらの状態で少々歩きにくいのですが、その感覚を味わうのも歴史旅の醍醐味です。

佐倉武家屋敷

ひよどり坂を抜けると、土塁と生け垣が連なる通りに面した、武家屋敷が集まるエリアに行き当たります。「佐倉武家屋敷」では、「旧河原家住宅」、「旧但馬家住宅」、「旧竹居家住宅」の3棟を公開。

いずれも江戸時代後期に建てられた物で、実際に佐倉藩の武士が暮らしていた住まいです。3棟を見比べると、与えられた禄や身分によって住まいを定めた居住の制による違いもよく分かります。旧河原家住宅は、年5回の特別公開日を除き、通常は外からの見学のみです。

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