歴女に人気の城下町

愛媛県の城下町・大洲(大洲市)

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愛媛県大洲市の「大洲」(おおず)は、「伊予の小京都」と呼ばれるとても小さな城下町。その歴史は古く、8~9世紀頃には、集落ができ始めていたとのことです。小高い山と山の間にある盆地で、古人(いにしえびと)達が仲睦まじく助け合い、大切に文化を紡いでいたのでしょう。肱川(ひじかわ)から立ち上る朝霧の風景は清々しく、この城下町の気質を象徴しているかのようです。
大洲の歴史を紐解くと、そこには「毛利輝元」(もうりてるもと)、「藤堂高虎」(とうどうたかとら)、「中江藤樹」(なかえとうじゅ)、「坂本龍馬」(さかもとりょうま)などの国史を彩る、歴女から人気の高い大物達が次々に顔を覗かせます。そんな大洲の城下町には、歴女の好奇心を刺激するエッセンスが凝縮されているのです。

藤堂高虎が手がけた城郭が守る町

大洲城

大洲城

蛇行する肱川(ひじかわ)を自然の外堀に利用した「大洲城」(おおずじょう)は、小高い丘に建つ4重4層の天守を備えた平山城。

近世城郭としての築城の時期は、1592~1615年(文禄元年~慶長20年)頃で、城造りの名人と呼ばれた「藤堂高虎」(とうどうたかとら)が藩主のときに始まり、次の藩主「脇坂康治」(わきざかやすはる)が完成させたと言われています。

18もの櫓(やぐら)を備えた特色ある城郭は、城下の人々が誇りを持って見上げる存在だったに違いありません。しかし、明治時代に入ると近代化の波に洗われ、いくつかの櫓を残すのみで、天守などは取り壊されてしまいました。

城下町は、本町、中町などが、碁盤の目と言うよりは、短冊を並べたような長方形で整然と配置されています。柳並木が続く「枡形通り」(ますがたどおり)や、藩校の「止善書院明倫堂」(しぜんしょいんめいりんどう)、「武家屋敷」など、大洲市街の随所に城下町らしい風情が残されているのです。山に向かって少し坂道を上がれば、250年以上に亘り藩主を務めた「加藤氏」(かとうし)の菩提寺「龍護山曹渓院」(りゅうごさんそうけいいん)があります。

また、小学校の敷地に大洲藩(おおずはん)の支藩である「新谷藩」(にいやはん)の陣屋として使われた「麟鳳閣」(りんぽうかく)の遺構が残っていたり、高校の敷地の一隅に「中江藤樹」(なかえとうじゅ)の邸跡があったり、歴史が現代の教育環境に溶け込んでいる様子は、大洲城下の気質を物語るものです。

取り壊された大洲城の天守も2004年(平成16年)に木造で蘇り、往時の雄々しい姿で城下町を見下ろしています。

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果たして大洲城の前身とは?

平安時代の歴史書「日本三大実録」によれば、かつての大洲周辺は「喜多郡」(きたぐん)と呼ばれていたとのこと。その喜多郡は3つの郷からなり、そのなかの「久米郷」(くめぐん)の中心地が大洲だったのです。

喜多郡は稲作が盛んな地域で、この地に備蓄されていた朝廷用の穀米が海賊に狙われた逸話も残されました。

大洲城の前身については、諸説あります。そのひとつは、1185年(文治元年)に平家の武将として仕えた田内一族が、喜多郡の「比志城」(ひしじょう)を攻めたとの記録があり、この比志城が大洲城の前身だという説。

一方、「足利直義」(あしかがただよし)の書状「宇都宮文書」には、1331年(元徳3年)に伊予の守護職を任じられた「宇都宮豊房」(うつのみやとよふさ)が、大津地蔵ヶ嶽(おおずじぞうがだけ)に築城したとの記述があることから、これが大洲城の前身で、大津は大洲の旧名だという説もあります。

さらに、1333年(元弘3年)に「宇都宮貞泰」(うつのみやさだやす)らが喜多郡根来山に城を築き、戦いを繰り広げたとの逸話から、この根来山城が大洲城になったとの説も見逃せません。その真相は明らかになっておらず、歴史家による解明が待たれるところですが、戦国時代から江戸時代初期まで大洲城は「大津城」と呼ばれていたことは、ひとつの手掛かりです。

歴史に詳しい歴女のみなさんなら、どの説に賛同するでしょうか。歴史資料に学びながら、自分なりの仮説を立ててみるのも、歴史好きならではの楽しみです。

大津城から大洲城に改名

豊臣秀吉

豊臣秀吉

戦国時代の大津城を巡っては、土佐の「長宗我部氏」(ちょうそかべし)、宇和の「西園寺氏」(さいおんじし)、道後の「河野氏」(こうのし)、中国の「毛利氏」(もうりし)らが争奪戦を繰り広げました。

これを平定したのが「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)です。

豊臣秀吉は、土佐の「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)を制圧すると、伊予の平定を「毛利輝元」(もうりてるもと)に命じました。

すると、毛利輝元は家臣の「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)を大津城に送り、ここを拠点にしていた「大野氏」(おおのし)を降伏させます。そして、大津城には小早川隆景の家臣「河野道直」(こうのみちなお)が城代(じょうだい:城主の留守に城と領土の守備を任された家臣)として入りました。

1595年(文禄4年)には、藤堂高虎がこの地を支配し、城代に「渡辺勘兵衛」(わたなべかんべえ)を任じています。江戸時代に入ると、1609年(慶長14年)には淡路国洲本(あわじのくにすもと:現在の兵庫県洲本市)から脇坂康治が入封し、立藩しました。初代藩主となる脇坂康治のもとで大洲藩の歴史が始まったのです。

大津が大洲と改められた時期については、この立藩のときという説と、そのあとの、2代目「加藤泰興」(かとうやすおき)の時代という説がありますが、ここでは立藩以降を大洲と呼ぶことにしています。

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文教に力を注いだ加藤氏の藩政

ここからは、加藤氏による治世を辿ってみます。「脇坂氏」(わきざかし)による藩政が2代続いたのちの、1617年(元和3年)に加藤氏が大洲に入城しました。その後、廃藩置県までの250余年間の藩政を加藤氏が率いることになります。

加藤氏は、代々教育と文化育成に力を注いだとされる藩主です。その藩政に大きな影響をもたらしたのが、日本における「陽明学」(ようめいがく)の創始者と呼ばれる中江藤樹でした。

中江藤樹の祖父は、加藤氏の初代藩主となった「加藤貞泰」(かとうさだやす)の家臣。その祖父に連れられて9歳の中江藤樹も大洲の住人となったのです。そして、15歳のときに祖父が亡くなると、中江藤樹は元服をして藩士となります。

しかし、27歳のとき、郷里の近江(おうみ:現在の滋賀県)にいる母を心配し、辞官を申し出ますが許されることはなく、自ら地位を捨てる形で近江に帰ってしまいました。当時の武士にとって脱藩は決して許されない行為であったため、追っ手を放たれることもあったと言います。母を想うあまり脱藩した中江藤樹の心情について、理解できる歴女の方も多いでしょう。

中江藤樹は、一時期京都に身を潜めていたのですが、その後は無事郷里に着き、私塾を開きました。大洲藩と中江藤樹の縁もそこで途切れた訳ではなく、5代藩主「加藤泰温」(かとうやすあつ)は、陽明学者「三輪執斎」(みわしつさい)を信奉し、その高弟だった「川田雄琴」(かわだゆうきん)を招いて、中江藤樹の教えに基づく領民の教育に取り組んでいます。

加藤泰温の志を引き継いだ6代「加藤泰衑」(かとうやすみち)は、1747年(延享4年)に伊予国(いよのくに:現在の愛媛県)では初の藩校となった止善書院明倫堂を創設。加藤家の歴史書「北藤緑」の編纂を命じ、15年を経て上梓(じょうし:書物を出版する)しています。

一方、9代「加藤泰候」(かとうやすとき)は、藩の財政再建のために磁器生産の道を模索し、「砥部焼」(とべやき)を地場産業として興しました。この砥部焼は、近隣の山から産出する砥石屑を碾(ひ)いて陶土として使っており、厚手の白磁に青い呉須(ごす:色の顔料のひとつ)で絵付けされています。大洲藩の支藩である新谷藩の領地だった伊予郡砥部町(いよぐんとべちょう)では、この焼き物文化が連綿(切れ目なく続く様子)と受け継がれているのです。

また、10代「加藤泰済」(かとうやすすみ)は、「文政法令」を公布して倹約をすすめ、士風の刷新と新銀札の発行によって藩の財政再建と改革を成功に導いています。

幕末の藩主となった「加藤泰祉」(かとうやすとみ)と「加藤泰秋」(かとうやすあき)は、勤王を支持し、1868年(慶応4年)の「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)の際には「明治天皇」の身辺護衛にあたり、明治の新時代を迎えました。

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大洲城下の観光スポットを巡る

ここからは、現代の大洲城を中心に、歴女が見逃せない歴史的な建物や、大洲の美しい風景をご紹介します。ぜひ訪れてみたい、興味深いスポットが目白押しです。

大洲城

明治時代に取り壊された4層4階の天守の大洲城は、2004年(平成16年)に木造で復元。明治時代の記録写真や、「天守雛形」(てんしゅひながた)と呼ばれる江戸時代の木組み模型などに基づき再建されたのは、重要文化財の「台所櫓」(だいどころやぐら)や「高欄櫓」(こうらんやぐら)とL字型に「多聞櫓」(たもんやぐら)で連結された複連結式天守です。

城内には、2代藩主である加藤泰興の肖像画や甲冑、幕末に大洲藩が所有していた蒸気船「いろは丸」の航海日記などの複製品を展示。甲冑の試着体験もできるので、歴女のみなさんも大洲城をバックに記念写真を撮影することができます。

歴女がお茶を満喫できる、臥龍山荘

臥龍山荘

臥龍山荘

臥龍山荘」(がりゅうさんそう)は、肱川流域を望む3,000坪の広大な山荘です。

1592~1596年の文禄年間には、藤堂高虎が城代として送り込んだ渡辺勘兵衛が広大な屋敷を構えていた場所でしたが、この地をこよなく愛した3代藩主「加藤泰恒」(かとうやすつね)が、吉野の桜や龍田の楓を移植して庭園の風情を整えたことから、歴代藩主の憩いの場として愛用するようになりました。

加藤泰恒がここから望む蓬莢山(ほうらいさん)を「龍の臥す姿に似ている」として、「臥龍」と名付けたのです。

一時は顧みられることなく荒廃してしまいましたが、明治時代の貿易商「河内寅次郎」(こうちとらじろう)が10年をかけて「臥龍院」(がりゅういん)、「不老庵」(ふろうあん)、「知止庵」(ちしあん)を建築。この3棟は国の文化財に指定されています。呈茶(ていちゃ)のサービスがあるので、冨士山(とみすやま)を借景にした庭園を眺めながら、ゆっくりと抹茶を味わうことが可能です。

おはなはん通り

伊予の小京都の町並み

伊予の小京都の町並み

肱川近くに残る古い町並みで、江戸時代から明治時代の面影を色濃く残しています。

1966年(昭和41年)に放映されたNHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」のロケがこの一帯で行なわれたことから、この名が付けられました。

城下町によく見られるT字路やL字路、袋小路などが残り、商家と武家屋敷の境界にある通りでは、そぞろ歩きの歴女も、江戸時代から明治時代への移り代わりのなかに立っているような気分に浸れます。

腰板張りの武家屋敷やなまこ壁の土蔵などが並び、「伊予の小京都」と呼ばれる風情も満載。水害対策として一段高いところに建てられた土蔵など、大洲ならではの特色も見られます。

藩主の末裔が建てた邸宅は歴女必見 お殿様公園

旧加藤家住宅

旧加藤家住宅

大洲城の三の丸南隅櫓や「旧加藤家住宅主屋」がある歴史公園です。

南隅櫓は、現存する大洲の櫓のなかで最も古く、1722年(享保7年)に火災で焼失したものの、1766年(明和3年)に再建されました。

一方、旧加藤家住宅主屋は、大正時代に旧藩主・加藤氏の子孫が建築した建物です。

2階の3方向にガラス障子が使われ、大名屋敷の格調と西洋風のモダンな雰囲気が調和しています。映画「男はつらいよ」の舞台にもなり、映像のなかに正面玄関や正門、裏門が登場しました。

冨士山公園

大洲盆地中央にそびえる「冨士山」(とみすやま)は、文字の通りその姿が富士山に似ていることから名付けられた標高320mの山です。

山頂は大洲盆地と肱川を一望できる、歴女に人気の絶景スポット。

陽春に訪れたい伊予の小さな富士山では、毎年4月下旬~5月に6万3,000本のツツジが見事に咲き、山頂がピンク色に染まります。

歴女も幻想的な自然現象にうっとり!雲海展望公園

こちらは、秋から冬に訪れたい絶景スポットです。朝晩と昼の寒暖差が大きくなると神秘的な雲海が見られます。町のなかの小高い丘に登るだけで絶景と出会えるチャンスがあり、時間帯は日の出から午前9時ぐらいが狙い目とのことです。

坂本龍馬脱藩之日記念館

歴女のファンも多い「坂本龍馬」(さかもとりょうま)は、現在の大洲市河辺町辺りで脱藩を決意し、自由人としての第一歩を踏み出したと言われます。

坂本龍馬が通過した河辺町の峠や谷の様子を写真パネルで紹介しながら脱藩ルートを体験できるコーナーもあり、脱藩を決意した坂本龍馬の心情を知る手がかりが探せます。

坂本龍馬のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

坂本龍馬の道に残る心をつなぐ浪漫八橋

長州(現在の山口県)の下関に向かう坂本龍馬が通った道沿いに、8ヵ所の橋が残されており、そのなかの「御幸の橋」(みゆきのはし)は、1773年(安永2年)に架設されましたが、明治時代の大洪水で流出したあとに再建。

天神社」(てんじんじゃ)の祭礼に間に合わせるため、氏子が総出で再建に当たりました。橋にはケヤキ材が使われ、屋根は杉皮葺(すぎかわぶき)。釘は1本も使われていません。

また、「三嶋神社」(みしまじんじゃ)の参道に架かる「三嶋橋」(みしまはし)には、神様への信仰心を表すために屋根を設けたと言われています。

架設費用はもちろんのこと、そのあとの維持管理も地元の人々の浄財(じょうざい:慈善寄付)で賄われているとのことです。

肱川あらし展望公園

肱川あらし

肱川あらし

「肱川あらし」とは、世界的にも珍しい冷気に霧を伴った自然現象。この現象は、秋から冬の朝、一定の気温気圧の変化が重なったときに発生します。

肱川上流の大洲盆地から海に向かって霧を伴う冷気の強風が川に沿って下り、冷気と水温の温度差が蒸気の霧を発生させながら一気に海へ流れ出すのです。

霧が町を包み込みながら海へと扇状に広がる光景は、まさに自然の驚異。展望台からは瀬戸内海に浮かぶ島々や最古の道路橋「長浜大橋」(ながはまおおはし)なども一望できます。

また、夕陽の名所としても知られ、日没時の風景も格別。歴史とは直接かかわりはありませんが、歴女も1日に何度も訪れたくなるスポットです。

大洲肱川の鵜飼を楽しもう!

大洲の肱川は、岐阜県の長良川や大分県の三隅川と並ぶ3大鵜飼の名所。

かがり火を焚いた鵜舟を屋形船が取り囲み、鮎などの魚を獲る鵜を見物するのは、肱川ならでは。約2時間の川下りを楽しみながら、船のなかでゆっくりと川魚料理を味わったあとに、鵜飼が始まります。

烏帽子に腰蓑を着けた鵜匠さんの手さばきは実に鮮やかです。

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