滋賀県長浜市の「長浜」(ながはま)と聞けば、「ガラスの町」としてブランド化した地域であることを思い浮かべる歴女も多いのではないでしょうか。「黒壁スクエア」を中心にガラスが町を潤し、人を寄せ、たくさんのモノとコトが交流する町として発展しています。
歴史軸で見てみると、長浜は「豊臣秀吉/羽柴秀吉」(とよとみひでよし/はしばひでよし)が城を構え、城下町としての基礎を築いた町でもあるのです。豊臣秀吉のあとにも何人かの武将が在城しましたが、やはり豊臣秀吉のイメージが強いのは、豊臣秀吉が天下人、つまり経営者としての才覚を表わした最初の拠点だったから。現代の長浜がガラス文化の町になっていることを思えば、城下町の歴史とは、なんとも面白いものに思えてきます。
ここでは、長浜城が築城されてから現代まで、およそ450年の時空を、歴女のみなさんと一緒に旅してみましょう。
「長浜城」(ながはまじょう)は残念なことに、わずか41年の短い命で廃城しています。天変地異や政治変動の波にのまれ、数奇な運命を辿った城と言えるでしょう。ある意味、戦国の世を生き抜くのには向かない、ガラスのように脆く儚い城だったのかもしれません。ここでは、長浜城の歴史をご紹介します。
長浜城本丸跡
「長浜」(ながはま)と言う地名になる前は、「今浜」(いまはま)と呼ばれていたこの地域。
もともとは、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将で、足利政権の立役者として知られる「佐々木道誉」(ささきどうよ)が室町時代のはじめに出城を築いたのが、長浜城の起源と伝えられています。
そののち、家臣である今浜氏(いまはまし)や上坂氏(こうさかし)が守将(しゅしょう)として在城しました。
ときは「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)に移り、戦の功績があったことから、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)は湖北三郡を与えられます。1574年(天正2年)に、小谷にあった城を今浜へと移し、同時に地名を今浜から長浜へ変更。一説によると、「織田信長」(おだのぶなが)の1字を貰って、長浜と命名したとも言われています。そののち、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)では、長浜城を拠点にして大勝利。織田信長の1字を貰ったおかげか、織田信長の後継者としての立場を揺るぎないものにしたのです。
長浜城が築城されたときの逸話が残されています。長浜随一の美女と呼ばれた女性が、人柱になったと言うのです。強固な城を築くための人柱として、若く聡明で美しい女性が選ばれたとのことですが、どんな人物であっても人柱にするなど、現代ではとても考えられません。湖北地方の繁栄を願って自らの命を捧げた女性は、「おかね」と言う名で、天守閣跡に眠っていると伝えられています。「おかね堀」と呼ばれたお堀もありました。
そののち、長浜城は、豊臣秀吉の家臣である「山内一豊」(やまうちかつとよ/かずとよ)が6年間在城します。ところが「天正の大地震」(てんしょうのおおじしん)で城は崩れ、山内一豊はひとり娘である「与袮」(よね)をわずか6歳で亡くしてしまいました。
江戸時代になると、「徳川家康」(とくがわいえやす)の家臣である「内藤信成」(ないとうのぶなり)が入城し、その息子である「内藤信正」(ないとうのぶまさ)が摂津国高槻(せっつのくにたかつき:現在の大阪府)に移るタイミングで廃城となります。1615年(元和元年)のことでした。長浜城の歴史は全国的に見てもかなり短く、わずか41年間です。この儚さもまた歴女の心をくすぐるのでしょう。現在の長浜城は、1983年(昭和58年)に桃山城を模して再建された城郭で、城郭様式の歴史博物館となっています。
豊臣秀吉
長浜城は、琵琶湖に面しており、湖水に石垣が面し水際に建っていた城。
城内の水門から直接船が琵琶湖に出入りできるように工夫されていました。
豊臣秀吉が経営者としての才覚をはじめて発揮したのが長浜だと言われますが、長浜城の造りにもその手腕が発揮されたと言えるでしょう。
古絵図などを参考にして作られた構造推定復元図によると、長浜城は二重の外堀と内堀に囲まれた水城(みずき)で、本丸は東の琵琶湖に面した部分にあり、そこに御殿と天守閣があったと予想されています。その周りを港が囲み、南に二の丸、北に三の丸と家臣達の屋敷、そして陸側である東に城下町が広がっていました。
まさに水に囲まれた要害(ようがい:地形の険しく、敵を防ぎやすい所)だったと言えます。琵琶湖は、波が穏やかで水害の危険も少なく、豊臣秀吉はこの地で、攻められにくい城造りと、発展しやすい城下町の設計を実現したのです。
豊臣秀吉ファン、お城ファンの歴女ならずとも興味をかき立てられる工夫があったと言えます。
江戸時代のはじめに廃城となった長浜城は、建物と石垣の大半が彦根城の築城のために移されました。彦根城に現在も残る天秤櫓(てんびんやぐら)や三重の隅櫓(すみやぐら)は、長浜城の遺構(いこう:昔の構築物)だと言われています。この他、長浜市内にある大通寺(だいつうじ)の台所門、知善院(ちぜんいん)の表門も、長浜城の遺構です。
石垣や柱、礎(いしずえ)となった石や船着場などの遺構も一部見つかっていますが、詳細については解明されていないことも多く、長浜城全体の実態は分かっていません。ただし、少なくとも近隣の歴史的建造物の一部には、長浜城の資材が使われていることは確かです。国宝のひとつである彦根城にも、長浜城の命が宿っていることを考えれば、長浜城遺構を巡る歴史の旅は、歴女のみなさんも興味が尽きないのではないでしょうか。
長浜城の主であった豊臣秀吉は、日本刀コレクターとしても良く知られており、刀剣ワールド財団にも豊臣秀吉が所持した短刀が所蔵されています。
本短刀の制作者である「長義」(ながよし/ちょうぎ)は、日本刀中興の祖と称される名工「正宗」の高弟10人のひとりでした。豊臣秀吉は、長義らしい豪壮な姿を備えたこの短刀を、家臣であり親しい間柄でもあった「前田利家」(まえだとしいえ)に譲与。以来、前田家の家宝として、同家に長く伝来したとのことです。
「北国街道」(ほっこくかいどう)とは2つあり、米原(まいばら)から琵琶湖の東側の岸を北へ向かい、福井県南越前町を経て新潟県直江津(なおえつ)に至る街道と、長野県北部から新潟県直江津で北陸街道に合流した道のことを言います。
この北国街道は、日本海側の越前と京都を、そして越前と江戸を結ぶ重要な交通路でした。ここでは、長浜を通る「東近江路」と呼ばれた前者の北国街道についてご紹介します。
琵琶湖
琵琶湖畔は、湖を中心に東西南北のエリアに分かれており、それぞれが競うかのように発展を遂げていますが、そのうちの湖北と湖東を縦断し、彦根で中山道に合流する南北の道として栄えていったのが北国街道です。
中河内(なかのかわち)、椿坂(つばきざか)、柳ヶ瀬(やながせ)、中之郷(なかのごう)、木之本(きのもと)、高月(たかつき)、速水(はやみ)、酢(す)、曽根(そね)、長浜、高橋、長沢、米原を経て鳥居本宿で中山道に入りました。
長浜城が琵琶湖畔の東にあり、さらにその東に現在のJRが南北に通り、その先に北国街道がJRの線路や琵琶湖と並走するように通っています。もちろん、JRは北国街道よりものちの時代の物であるため、北国街道が長浜の中心となる通りであったことは間違いありません。
日本海側からは、鯖が京都に運ばれていたこともあり、北国街道は別名「鯖街道」とも言われています。このルートで運ばれた鯖が、京都の名物である「鯖の押し寿司」になったのです。長浜は、その中間地点にあったこともあり、長浜でも鯖は名物料理の材料として使用されており、有名な料理に「焼鯖そうめん」などがあります。
北陸から京都へと続く北国街道は、琵琶湖の南側を通っています。単純に距離的な問題で言えば、琵琶湖の北側を通っても京都には抜けられますが、なぜ北国街道は南側を通ったのでしょう。不思議に思った歴女は、かなりの通(つう)と言えます。
それは、北側を行くと、京都には北にそびえる山々を抜けて洛中へと入らなければいけないのに対し、南側を行くと比較的平地を歩けること、東海道や伊勢参りの道と合流するポイントがあることからです。
つまり、長浜が城下町としての役割を江戸時代前期にすでに終えているにもかかわらず、城下町然とした発展を見せたのは、琵琶湖の東に位置していたことと、北国街道沿いにあったことが大きな要因でした。
長浜がガラスの町として認識されるほど、長浜はガラスをテーマにした町づくりに成功。その発祥となったのは、黒壁スクエアです。その歴史を辿ってみましょう。
1900年(明治33年)の明治後期。国立第百三十銀行の長浜支店が北国街道沿いに完成します。その洋館風の建物の壁が黒漆喰であったことから、市民からは「黒壁銀行」という名で親しまれました。その後、同建物は明治銀行になったり、長浜カトリック教会になったりします。
そして昭和の終わり、1987年(昭和62年)に、その建物がカトリック教会の移転により売却が決定。長年、長浜の代表的な建築物として親しまれてきた建物を取り壊したくないという思いから、地元で有志が結成され、この建物を活かすことと保存することを目的として第3セクターが設立されます。その名も「株式会社黒壁」。
ガラス工房
設立メンバーらによる広島やヨーロッパへのガラス事業の視察を経て、年号が新たになった1989年(平成元年)、ガラスの工房、ビストロ、体験教室などを合わせた黒壁スクエアがオープン。
そののち、周辺にガラス関連の施設やショップが次々とオープン。ガラス作家も集まってきました。
ちょうど町づくりが全国的にブームになった頃で、あちこちから自治体の視察があったと言います。
2000年(平成12年)代になると、海外からもガラス作家が訪れるようになるなど、長浜はガラス文化を求める内外の観光客で賑わうようになりました。名古屋市、岐阜、京都、大阪、兵庫近辺からのバスツアーで、ちょうど日帰りができる距離というのも功を奏したと言えます。ガラス作品のコンペティションやテーマごとの展覧会は、年間を通じて数多く開催されており、まさに日本のガラス文化の中心地になりつつあるのです。
黒壁スクエアの歴史を辿り、現代へと目を向けたところで、ここからは長浜の今を見ていきましょう。現代の街並みを注意深く巡れば、そこかしこに息付く歴史が感じられます。歴女のみなさんは、どのように長浜の町を楽しむのでしょうか。
黒壁スクエア
江戸から昭和初期にかけて建てられた街並みが今も残るエリアが、長浜の観光の中心的な存在である黒壁スクエアとして整備されています。
名前の通り、黒い壁の洋館がその目印。ここは元銀行だった建物で、現在は黒壁ガラス館となっています。
この他、長浜の観光資源であるガラスをテーマに、ガラス工房、ギャラリー、ガラス体験施設、カフェ、レストランなどが建ち並び、歴女のみなさんには親しみやすく、懐かしい気持ちにさせてくれる空気感も魅力です。
龍遊館
フィギュア制作で有名な「海洋堂」(かいようどう)は、実は長浜が本拠地。
フィギュアの制作工程を知ってもらい、フィギュアの魅力に触れてもらうため、世界初のフィギュア専門ミュージアムとなる、海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館を2005年(平成17年)にオープンしました。
実物大の動物や恐竜などが展示されていたり、懐かしいアニメのヒーローに出会えたり。そのリアルな再現性と、フィギュアが持つ夢の世界観を楽しむことができます。
1階のミュージアムショップは、フィギュアファン必見。ついついお財布の紐が緩んでしまいそうな、魅力的なグッズが揃っています。
長浜城歴史博物館
1983年(昭和58年)に桃山城の城郭を模して新しい城が復興され、城郭様式の歴史博物館としてオープンしました。
長浜城歴史博物館の2階は、豊臣秀吉と長浜をテーマに、3階は「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)の世界観や織物など長浜の文化を、湖北を一望できる5階の展望台では、戦国時代における長浜という拠点の重要性が分かりやすく展示されています。長浜がお気に入りの歴女には、足を運ぶ価値が大いにあります。
滋賀県の刀剣施設情報
滋賀県にある刀剣施設情報をご紹介します。