歴女に人気の城下町

三重県の城下町・桑名(桑名市)

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「伊勢湾」(いせわん)に注ぐ「揖斐川」(いびがわ)の河口近くに広がる「桑名」(くわな)は、その地形から河川海上交通の要として、古来から重要な位置を占めてきました。時代の移り変わりと共に、港町から城下町、そして東海道の宿場町へ、町の形態が3つに変化しながら、大いに発展していきます。
「東海道五十三次」(とうかいどうごじゅうさんつぎ)のうち、42番目の宿場として、江戸時代に大変賑わっていた「桑名宿」(くわなじゅく/くわなしゅく)。残念ながら現在その町並みは、ほとんど面影を残していませんが、かつては「歌川広重」(うたがわひろしげ)の作品をはじめ、様々な浮世絵にも描かれています。
美術品好きの歴女の方はもちろん、あまり歴史に興味がない方でも、桑名を題材にした浮世絵をご覧になったことがあるのではないでしょうか。それほど桑名の地は、東海地方における交通の要衝だったのです。ここでは、桑名が「水運の町」としてどのように栄えていたのか、現在の見どころと共にご紹介します。

戦国時代の桑名は日本有数の港湾都市

「木曽三川」(きそさんせん)で知られる「木曽川」(きそがわ)、「長良川」(ながらがわ)、「揖斐川」(いびがわ)の河口に位置する「桑名」(くわな)は、古くは室町時代から、その水運を活かした自治都市として発展してきました。

「十楽の津」(じゅうらくのつ)と呼ばれる「自由湊」(じゆうみなと)があり、諸国の商人達による自由な商売が認められ、「」(さかい:現在の大阪府堺市)や「博多」(はかた:現在の福岡県福岡市)、「大湊」(おおみなと:現在の三重県伊勢市)と並ぶ、日本有数の港湾都市として栄えたと伝えられています。

そんな自由都市であった桑名でしたが、「織田信長」(おだのぶなが)の伊勢侵攻によって取り込まれたのち、とうとう武力で支配されるようになっていきます。

雑然とした港町から城下町、さらには宿場町へと変化

本多忠勝

本多忠勝

現在の桑名の町割りがほぼ整えられたのは、徳川四天王のひとり、「本多忠勝」(ほんだただかつ)が藩主となった時代でした。

関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)において、水上交通や漁業などのための、船舶が停泊する交通の要地を整えた功労が認められ、桑名に入封した本多忠勝は、1601年(慶長6年)、揖斐川の河口右岸に、本格的な城郭桑名城」(くわなじょう)の築城を始めます。

桑名城下の町割りを整備し、それまでの雑然とした町人自治の港町を、近世城下町へとつくり変えた「慶長の町割り」と称されるこの偉業は、10年もの長い歳月を費やしたと言われているのです。

本多忠勝が桑名城の築城に着手したのと同じ年、江戸と京都の間に、東海道が設けられました。「五十三次」(ごじゅうさんつぎ)と呼ばれたように、桑名は53ある宿駅のひとつに指定され、その城下町は宿場町としても繁栄していきます。

これにより、物資や人の流れはさらに活発になり、宿の数では、「尾張国」(おわりのくに:現在の愛知県西部)の「宮宿」(みやしゅく:現在の愛知県名古屋市)に次いで、東海道のなかで第2位を誇るまでになりました。

こうして桑名の町は、港町、城下町、宿場町という3つの機能を果たした、海陸共に交通の要地となっていったのです。

東海道の難所 七里の渡し

江戸時代、尾張宮宿と桑名を結ぶ東海道は、陸路でなく海路であり、その距離が「七里」(約28km)あったことから、「七里の渡し」(しちりのわたし)と名が付いています。

この海上ルートは、伊勢湾北部を渡る官道(かんどう:国が管理している道)であり、移動に約4時間を要したのです。

天候や潮の干満などにより、そのコースが変わってさらに時間がかかることもあり、東海道の難所のひとつとされていましたが、陸側の木曽三川を渡ることの方が、さらに困難な道のりだったのです。

七里の渡しの船着場は、「歌川広重」(うたがわひろしげ)の「東海道五拾三次之内 桑名 七里渡口」(とうかいどうごじゅうさんつぎのうちくわなしちりのわたしぐち)をはじめ、様々な浮世絵に描かれています。

東海道五十三次浮世絵東海道五十三次浮世絵
江戸時代に整備された五街道のひとつ、東海道にある宿場を題材に描かれた浮世絵をご覧下さい。

鎮国公として慕われた5代藩主・松平定綱

「本多氏」(ほんだし)の跡を継ぎ、3代、4代の桑名藩主となった「松平定勝」(まつだいらさだかつ)、「松平定行」(まつだいらさだゆき)父子は、新田開発や水道の引き込みだけでなく、尾張の宮宿と桑名を結ぶ七里の渡しの船着場を整備しました。

5代藩主「松平定綱」(まつだいらさだつな)は、そんな父と兄のあとを受けてさらに新田開発に力を注ぎ、鋳物業(いものぎょう)などの工業、そして藩士の教育や農民の保護にも努めていたのです。

少人数のお供を連れ領地を回り、領民との交流にも積極的だった松平定綱。その人柄が滲み出るエピソードのひとつに、松平定綱が城下から約30kmも離れた庄屋の主人に宛てた手紙に残っています。

その手紙には、「秘蔵の古書画を観るためにお供3名を連れて、乗馬にて日帰りで立ち寄るので、麦飯、芋、大根の味噌炊き4人前をお願いします」という旨の文面が記されていました。領民に対して、大変律儀で丁寧な様子がよく伝わってきます。

桑名は、松平定綱の時代から、もっとも栄えたと伝えられており、貴人が亡くなったあと、生前の偉業などを尊んで贈られる名前である「諡号」(しごう)として、「鎮国公」(ちんこくこう)の名が付けられました。このようなことからも、松平定綱が、いかに地域の人々から長く愛され続けていたかが分かります。

薩摩藩士の犠牲により成し得た治水工事

江戸時代、桑名の町は再三の水害に見舞われます。1650年(慶安3年)、藩領の半分を超える田畑6万4,000石が被害を受けた大洪水にはじまり、そののち50年の間に、4度に亘って大洪水が続発。江戸時代初期からの150年間では、大小合わせて100回もの洪水が起こった記録が残っており、人々の暮らしは困窮していきました。

水運により繁栄した桑名でしたが、そのあとも幾度となく洪水に悩まされ、ついに江戸幕府は、1753年(宝暦3年)、木曽川、長良川、揖斐川という木曽三川の治水工事を決意します。

当時、70万石の大藩であった「薩摩藩」(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)にその任務を請け負わせたのですが、これには薩摩の豊かな財政力を弱め、江戸幕府に忠誠を誓わせる企みがありました。この政策は、「美濃国」(みののくに:現在の岐阜県南部)、尾張国、「伊勢国」(いせのくに:現在の三重県の大半)の3国に亘る大規模な工事で、3年余りの期間をかけて無事に完了。

しかし、予想をはるかに超える莫大な藩費を費やしたこと、工事中の病死・自決の犠牲者が80人を超えたことで、指揮を執った薩摩藩の家老「平田靱負」(ひらたゆきえ)は責めを負い、自決してしまいます。

桑名藩では、彼らを「薩摩義士」(さつまぎし)と呼んで敬い、平田靱負と薩摩藩士達を寺に手厚く弔いました。しかし、強制的な幕府の命令によってしたがわされたこのときの薩摩藩の恨みが、のちの「明治維新」へとつながっていったのです。

桑名城下の歴史施設を訪ねる

江戸時代の宿場町として栄えた情景を感じる水船場や、馬と縁の深い古社の伝統的なお祭りなど、桑名城下のおすすめスポットをご紹介します。

七里の渡し跡

「七里の渡し跡」(しちりのわたしあと)は、江戸時代における東海道の渡船場跡です。宮宿と桑名宿を結ぶ道は東海道唯一の海路で、七里の距離があったことから七里の渡しと呼ばれていました。

伊勢国一の鳥居

伊勢国一の鳥居

目印のように建てられている大鳥居は、ここから伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と言われ、江戸の旅人はこれを観ることで、ようやく伊勢国に入ったのだと安堵したのかもしれません。

この大鳥居は、現在も20年ごとに行なわれる「伊勢神宮」の遷宮のたびに、御神木を使用して、建て替えられているのです。

1959年(昭和34年)の伊勢湾台風による防潮壁工事のために、もとの姿は失われ、港としての機能はなくなってしまいましたが、大鳥居と現存する常夜灯や松並木が、わずかに渡船場の跡を偲ばせています。

歴女の皆さんはこちらを訪れて、江戸時代の宿場町がどのような情景であったかを想像するのも楽しいのではないでしょうか。

なお、七里の渡し跡のすぐ近くには、航海の監視として据えられた桑名宿のシンボル「蟠龍櫓」(ばんりゅうやぐら)が復元されています。

九華公園

九華公園

九華公園

九華公園」(きゅうかこうえん)は、桑名城跡に整備された広大な公園で、季節ごとに桜やつつじ、花菖蒲が咲き乱れる花の名所となっています。

桑名城は、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の際にそのほとんどを焼失し、現在では、石垣をわずかに残すのみとなりました。

九華公園全体の約6割が水堀で占められ、堀に架かる赤い橋とのコントラストが趣を感じさせてくれます。特に春には、それらに加えて見事な桜が観られますので、歴女の皆さんもお花見を楽しむと共に、在りし日の桑名城の姿に思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

また園内には、松平定綱と、江戸幕府の老中を務めた「松平定信」(まつだいらさだのぶ)を祀る、「鎮国守国神社」(ちんこくしゅこくじんじゃ)が建てられています。

鎮国守国神社では、毎年5月2日と3日に「例大祭」(れいたいさい:年に1、2回の定められた日に行なう、その神社の重要な祭り)となる「金魚まつり」を開催。この祭りは、松平定信が金魚を愛好していたため、境内で市を立てたことがその起源です。金魚の露店など多くのお店が境内に並び、夜まで参拝客や観光客などたくさんの人で賑わいます。

堀には金魚の灯篭がいくつも放たれ、カラフルな金魚神輿を担いだ子ども達の練り歩きを観ることが可能。地元民にも愛されている金魚が主役のこの祭りは、可愛い物好きの歴女にオススメです。

桑名宗社

桑名宗社」(くわなそうしゃ)は、「春日神社」(かすがじんじゃ)や「春日さん」などの俗称で親しまれている、古来から桑名の総鎮守とされてきた神社です。「桑名神社」(くわなじんじゃ)と「中臣神社」(なかとみじんじゃ)の両社からなる桑名宗社には、寛文年間(1661~1673年)に鋳造された珍しい青銅の大鳥居が残っており、桑名の鋳造技術の高さを物語っています。

また、立派な楼門は、1833年(天保4年)、「松平定永」(まつだいらさだなが)により寄進されましたが、空襲により焼失。現在観られる門は、1995年(平成7年)に再建されました。

石取祭

石取祭

江戸時代初期に始まった桑名神社の「石取祭」(いしどりまつり)は、「山・鉾・屋台行事」として、「ユネスコ無形文化遺産」に登録されています。

きらびやかな装飾で彩られた各町内の「祭車」(さいしゃ:石取祭で引き回される山車[だし])が夏の夜に勢揃いし、旧東海道などを練り歩く様は、実際に訪れて一見する価値があるほどに圧巻。

この30台余りの絢爛豪華な祭車には、「鉦」(かね)や「太鼓」が付けられており、午前0時にそれらを一斉に打ち鳴らすことから、「日本一やかましい祭り」、「天下の奇祭」とも言われています。

多度大社

神馬

神馬

多度大社」(たどたいしゃ)は、5世紀後半頃に創建されたと伝わる、歴史ある古社(こしゃ:古くからある神社)です。

祭神や参詣の立地から伊勢神宮との関係が深く、古くから「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と詠われています。

また、多度大社には白馬が棲む(すむ)と伝えられ、この白馬が人々の願いを神に届ける使者の役割を果たしている「白馬伝説」(しろうまでんせつ)が語り継がれてきました。多度大社の「神馬舎」(じんめしゃ)には、実際に白馬の神馬がおり、その愛らしい姿から参拝客の人気を集めています。

動画サムネイル「多度祭_上げ馬神事」

武者姿の少年騎手が、人馬一体となって絶壁を駆け上がり、年の豊凶を占う神事です。

多度祭 上げ馬神事

さらに多度大社は、その年における穀物の豊凶作を占う「上げ馬神事」(あげうましんじ)が有名。

周辺地区より選ばれた武者姿の少年騎手達が、人馬一体となって2m余りの絶壁を一気に駆け上がります。

合計18回上げ馬を行ない、上がりきった順や頭数で、その先1年の稲作や景気に関する吉凶を占うのです。

この神事が行なわれる「多度祭」(たどまつり)は、三重県の「無形民俗文化財」に指定され、全国から多くの見学者が訪れる一大行事となっています。

三重県無形民俗文化財 多度大社上げ馬神事三重県無形民俗文化財 多度大社上げ馬神事
三重県無形民俗文化財 多度大社上げ馬神事

六華苑

六華苑

六華苑

六華苑」(ろっかえん)は、「山林王」と呼ばれた桑名の実業家である2代目「諸戸清六」(もろとせいろく)の邸宅として、1913年(大正2年)に完成した文化遺産です。

木造2階建ての洋館と併設する和風建築、そして「池泉回遊式庭園」(ちせんかいゆうしきていえん)を持ち、東京の「鹿鳴館」(ろくめいかん)を設計した、イギリス人建築家「ジョサイア・コンドル」が手掛けたことで知られているのです。

現在は、桑名市が所有し一般公開され、映画やドラマのロケ地にもなっています。和洋の様式が調和した明治・大正期を代表する貴重な建造物は国の重要文化財に、美しい回遊式庭園は国の名勝(めいしょう)にも指定されました。

広々とした敷地には、洋館や庭園を眺めながら食事が楽しめるレストランも併設されており、ゆったりと贅沢なひとときを楽しめます。来訪者の満足度が高く、桑名に来た際には、歴女の皆さんにもぜひ訪れて頂きたい名スポットです。

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