歴女に人気の城下町

大阪府の城下町・岸和田(岸和田市)

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300年の歴史を誇る「だんじり祭」でも有名な大阪府の「岸和田」(きしわだ)は、戦国時代から一向一揆が懸念された「紀州征伐」(きしゅうせいばつ)の拠点となった城下町です。
江戸時代に入ってからは「紀州街道」の開通に加え、善政を敷いた岸和田藩(きしわだはん)藩主「岡部氏」(おかべし)が登場したことにより、人・物・金の行き来が盛んになり、城下町に発展をもたらしました。だんじり祭には、岸和田ならではの威勢の良さと繊細さが象徴されているのです。
昭和になって再建された「岸和田城」(きしわだじょう)は、今も岸和田城下の人々の絆を結ぶ存在として親しまれています。お祭り好きの歴女には特になじみ深い、岸和田の歴史と現在の姿を見ていきましょう。

岸の和田氏が統治したことから「岸和田」に

岸和田市の地名は、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が統治した建武の新政期に「楠木正成」(くすのきまさしげ)が、一族の「和田高家」(わだたかいえ)に、この地を治めさせたことにちなんで名付けられたと言われます。

和田家には、吉野(現在の奈良県南部)に住む一族もいたことから、区別するために、「岸」と呼ばれた海の近くを統治した和田高家を「岸の和田」と呼んだのが始まりです。このとき、和田高家が築いたお城は、現在とは異なる場所にありました。

「和田氏」(わだし)のあとは、「山名氏」(やまなし)の家臣だった「信濃氏」(しなのし)が引き継いでいます。この頃のお城は、現在の二の丸近くにあったと言われ、当時は海岸線がごく間近に迫る立地でした。

そして、「細川氏」(ほそかわし)、「三好氏」(みよしし)へと統治が渡ったのちに、岸和田へ入った「松浦氏」(まつうらし)が現在の場所にお城を移したと伝えられています。しかし、この時代のお城については詳細が明らかになっていません。

紀州の一揆に睨みを利かせる防衛拠点

豊臣秀吉

豊臣秀吉

岸和田は、「織田信長」(おだのぶなが)の時代から紀州の根来衆(ねごろしゅう)、雑賀衆(さいかしゅう)による一揆を抑え込むための拠点となっていましたが、本格的に城郭が整備されたのは、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の時代になってからです。

1585年(天正13年)には豊臣秀吉自身も、紀州征伐のため岸和田城に入城したと言われ、その戦が収束すると、荒廃していたお城と城下を立て直す目的で豊臣一門衆の「小出秀政」(こいでひでまさ)を岸和田城主に任じました。

小出秀政は、1598年(慶長3年)頃に5層の天守を完成させています。江戸時代以降も、岸和田は紀州に睨みを利かせる重要拠点に位置付けられ、譜代大名によって統治されました。

1619年(元和5年)に岸和田藩主となった「松平康重」(まつだいらやすしげ)は、城下町の境界線に堀や土塁を張り巡らせた「惣構え」(そうがまえ)を整備。そののち、1623年(元和9年)に破却された「伏見城」(ふしみじょう:現在の京都府京都市)の櫓など遺材が与えられ、さらに頑強なお城へと変貌を遂げています。

また、お城の修築とほぼ同時期に紀州街道が整備されたことから、岸和田の城下町は飛躍的な発展を遂げたのです。堺口門、内町門、伝馬口門が建てられ、お城の表玄関として北大手門が整備されました。そののち、岸和田浜町も整備されています。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

岸和田藩は足の裏の飯粒?

岡部宣勝

岡部宣勝

徳川幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)時代の1640年(寛永17年)、「高槻城」(たかつきじょう:現在の大阪府高槻市)から「岡部宣勝」(おかべのぶかつ)が入城し、藩政を引き継ぎました。

岡部宣勝は、松平家と縁戚関係にあり、徳川家光からの信頼も厚かったのです。

徳川家光は、紀州藩主「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)の叛意(はんい:背こうとする意思)を心配していたとのことで、岡部宣勝はそれを抑える役割も担っていたとも言われています。

岸和田の岡部宣勝と紀州の徳川頼宣が、「江戸城」(東京都千代田区)で出会った際の逸話が伝えられています。

徳川頼宣が「貴殿が和泉に居るのは、我らの抑えのためだと聞き及んでいるが」と問うと、岡部宣勝は「大身[大きな藩]の貴殿を抑えるなど、とんでもないことです。せいぜい足の裏に飯粒が付いたくらいのことしかできません」と答え、徳川頼宣を唖然とさせました。小さいながらも足の裏に付いた飯粒は気分の悪い物。絶妙な比喩で岡部宣勝は小藩の意地を見せたのです。

このように武将のセンスが垣間見える逸話も、歴女の興味をそそるのではないでしょうか。

藩主・岡部氏に受け継がれた善政の系譜

岡部宣勝は岸和田に入る際、108ヵ村の農民からの訴えに応じて夫役(ぶやく:強制的に課す労役)などの負担を減らし、一揆を未然に防いでいます。

岡部宣勝の嫡男「岡部行隆」(おかべゆきたか)は、家督を相続するとすぐに藩札を発行して、流通する貨幣量を増やすことで藩の財政を立て直しました。その子「岡部長泰」(おかべながやす)も、父の方針を継いで贅沢を戒め、健全な財政を維持したのです。

岡部長泰のあとは、「岡部長敬」(おかべながたか)、「岡部長著」(おかべながあきら)へと藩主の座が受け継がれますが、この頃から財政が傾きはじめます。そのため、父祖伝来の家訓や藩規に即して、家中の文武奨励、倹約奨励などを17ヵ条にまとめた「長著公享保之条目」を発令しました。

この条目は、「岡部長住」(おかべながすみ)から「岡部長修」(おかべながなお)へ引き継がれています。岡部長修は、条目の要点を分かり易く噛み砕き、「孝行と家族の親和」、「農業出精」、「倹約と家名の維持」を「大慈公三ヵ条の御触書」にまとめ、そののちの岸和田における農村統治の規範を作りました。

時代が下って幕末になると、他藩と同様に岸和田藩でも教育への取り組みが強化されていきます。1850年(嘉永3年)に藩主となった「岡部長発」(おかべながゆき)は、藩校として「講習館」を開き、領民の就学を許可しました。

そして「岡部長寛」(おかべながひろ)が藩主の座を引き継いだのちの1866年(慶応2年)には、講習館を増築して「修武館」と名を改めます。

さらに、1869年(明治2年)には、その分校として「文学館」を開設。これらの藩校は、明治以降も若者達の教育を担い、時局に対応する学力向上に取り組みました。

庶民の活力がみなぎる城下町

江戸時代の岸和田城は、7万2,000坪の広さを誇り、10万石の大名が持つお城に匹敵すると謳われたほどで、内堀のなかには、5層の天守と小天守がそびえていたのです。

また、内堀と中堀の間が二の丸となっており、そこに藩主の屋敷や政治を執り行なう建物、家老の屋敷などが置かれました。中堀と外堀に囲まれた三の丸には、重臣の屋敷が約80戸建ち、現在も、わずかながら侍屋敷の遺構を観ることができます。

そして、お城の北西を通る紀州街道沿いには、藩の御用商人達が軒を連ね、岸和田の城下は、岸和田町、岸和田浜町、岸和田村に分かれていました。岸和田城下における世帯の構成を観ると、侍屋敷が1,068軒に対して、庶民は岸和田町に約480軒、岸和田浜町に約320軒、岸和田村に約200軒の計約1,000軒です。侍屋敷と庶民がほぼ同数暮らしていたことから、庶民の勢いがあった城下町であることが分かります。

本町の町並み

本町の町並み

今でも、南町、本町、魚屋町(うおやまち)辺りには古い町家が点在し、「塗籠」(ぬりごめ:柱や軒などの木部の外壁まで土壁で覆う工法で造られた個室のこと)や「袖塀」(そでべい:門の両側にある低い塀)など独特の町並みを観ることが可能です。

また、1703年(元禄16年)には、当時の城主である岡部長泰が京都の「伏見稲荷」を城内三の丸に勧請(かんじょう:神仏の分霊を迎えて祀ること)して「稲荷祭り」を行なうようになりました。

だんじりを奉納するのが盛んになったのもこの頃だと言われ、現在に受け継がれている祭りの起源とされています。

しかし残念なことに、1828年(文政11年)の落雷で当時の岸和田城天守は焼失してしまいました。江戸時代の天守は5層でしたが、1954年(昭和29年)に、3層の天守と2層の小天守として再建されています。

このとき、お城の庭園として造られた「八陣の庭」(はちじんのにわ)は、伝統と斬新な意匠が調和する昭和の名作です。作庭したのは、庭園文化の研究家としても知られる「重森三玲」(しげもりみれい)氏。現代人と城下町の新たなかかわり方を示唆しているかのような「枯山水」は圧巻です。晴れた日には淡路島を望む天守から庭を見下ろすと、見事な砂紋を俯瞰できます。

岸和田城とだんじり祭が結ぶ城下町の絆

岸和田城の歴史を辿り、時代が下ったところで、現代の岸和田へと目を向けてみましょう。現代の感性と、歴史の趣きが巧みに織り込まれた岸和田の街並みは、歴女の心をくすぐる見どころが満載です。ゆっくりと散策し、城下町の人情に触れてみることをおすすめします。

岸和田城

岸和田城

岸和田城

岸和田城の現在の天守閣は、1954年(昭和29年)に建造された3層3階です。その脇には2層の小天守が肩を並べています。

天守のてっぺんからは、口を開けた「阿形」(あぎょう)と、口を閉じた「吽形」(うんぎょう)のしゃちほこが訪れた歴女を見守り、天守の内部には図書館などが設置されているのも魅力です。

また、多聞櫓や隅櫓は、ギャラリーやイベント会場として使われ、ときにはウェディング会場としても活用されています。

興味のある歴女の方はチェックしておきましょう。ここでは、現代の城下町に暮らす人々とお城の新たな交流の姿が見られるのです。

八陣の庭

八陣の庭

八陣の庭

岸和田城の天守の前には、昭和に活躍した作庭の名人・重森三玲氏が設計した広大な枯山水が造られています。

庭園のテーマは「諸葛孔明」(しょかつこうめい)の八陣法(はちじんほう)。中世城郭の縄張り図を現代風にアレンジし、3重の屈曲線で仕切られた上・中・下の3段で構成されています。

上段の中央には「大将」を表す石組みが置かれ、中・下段には大将を守るように8組の石組みを配置。これらの石組みは、「虎」、「風」、「天」、「地」、「雲」、「竜」、「鳥」、「蛇」の各陣を表し、360度どの方角からも鑑賞できる点が特徴です。石材には、和歌山県沖ノ島の結晶片岩が使用されています。

また、天守の展望室から見下ろすひと味違う庭園の景色も人気。この庭園は国の名勝に指定されています。ここは、歴女必見の風景として、写真に収めておきましょう。

岸和田だんじり会館

岸和田だんじり会館

岸和田だんじり会館

「だんじり」を漢字で書くと「地車」。屋台を乗せた「山車」(だし)のことです。山車を曳く祭りは全国各地にありますが、スピード感と威勢の良さにおいて、岸和田のだんじりは群を抜いています。

この祭りが始まったのは、300年ほど前の江戸時代中期。そののち、岸和田の城下町で生まれ育った庶民によって脈々と受け継がれてきました。

祭りそのものの迫力もさることながら、屋台に施された彫り物と呼ばれる彫刻の繊細さから「走る芸術作品」と呼ばれる山車も見応え十分。

昼間には迫力満点の「やりまわし」を披露するだんじりが、夜になると200張もの提灯を掲げて情緒たっぷりに練り歩きます。この岸和田だんじり祭のすべてが分かる体験型資料館が、「岸和田だんじり会館」です。

岸城神社

岸城神社

岸城神社

南北朝時代に京都の「八坂神社」(やさかじんじゃ)を勧請し、小出秀政が岸和田城を築いたとき、八幡大神を合祀したことから、代々の城主と城下町の人々の信仰を集めてきました。明治維新を迎えたのち、「岸城神社」(きしきじんじゃ)と改名。

毎年9月、敬老の日の前日に行なわれる岸和田だんじり祭の宮入りには、坂を駆け上るだんじりの姿をひと目見ようと、多くの人で賑わいます。

まちづくりの館

岸和田城の北から西に走る紀州街道沿いには、昔ながらの民家や商家が並ぶ一画が残り、現在は「まちづくりの館」として、観光客の休憩所に開放されているので、歴女のみなさんも散策の途中にぜひご利用を。情緒たっぷりの城下町の雰囲気に浸りながら、ほっこりとできます。

天性寺

蛸絵馬

蛸絵馬

岸和田が紀州の根来衆や雑賀衆の一揆に悩まされていた1573~1586年(天正年間)頃、攻め込まれた岸和田城は、落城寸前まで追い込まれてしまいました。

すると、大蛸に乗ったひとりの法師と数千の蛸(たこ)がどこからともなく現れ、凄まじい勢いで敵をなぎ倒し、お城を危機から救い出したのです。

この逸話には、歴史に詳しい歴女のみなさんも驚かれたのではないでしょうか。

その数日後、お城のお堀から矢や鉄砲の玉による無数の傷を負った地蔵を発見。城内に大切に収められたとのことです。さらに数年経って、この地蔵は「天性寺」(てんしょうじ)にある日本一大きな地蔵堂に移されました。

境内には、蛸を一切食べずに願をかける一風変わった蛸絵馬が無数に奉納されており、参道入口の石標(せきひょう)にある「たこちそう」の文字は、江戸時代の著名な書家「池大雅」(いけのたいが)の筆によると伝えられています。

大威徳寺

多宝塔

多宝塔

大威徳寺」(だいいとくじ)は、「役行者」(えんのぎょうじゃ)が開創したと伝わる修験道の山岳寺院。

室町時代に建てられた境内の「多宝塔」は、国の重要文化財に指定されています。

秋のもみじ狩りの名所としても有名です。

豊臣秀頼、淀殿とのゆかりが伝わる積川神社

積川神社

積川神社

牛滝川(うしたきがわ)上流の水の神様として、庶民の信仰を集めて創建された「積川神社」(つがわじんじゃ)。

中世以前には、和泉国(いずみのくに:現在の大阪府南西部)で有数の大社を構え、和泉5社のひとつに数えられていました。

本殿は、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)によって再建されたと言われ、「正面千鳥破風」(しょうめんちどりはふ)と「檜皮葺き」(ひわだぶき)の屋根を備えた「三間社」(さんげんしゃ)の建物は、国の重要文化財に指定されています。

ご神体は鎌倉期に作られた木造男女神像8体で、「熊野街道」に面して建てられた鳥居の木造篇額(へんがく:横に長い額)は、「白河院」(しらかわいん)の筆によると伝えられています。また、豊臣秀吉の側室「淀殿」(よどどの)が寄進したと言われる神輿(みこし)も収められています。

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