歴女に人気の城下町

埼玉県の城下町・川越(川越市)

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埼玉県川越市のほぼ中央にあり、蔵造りの町並みが美しい川越は、今も城下町の面影を色濃く残した、江戸情緒あふれる町として歴女にも人気のスポットです。都内からのアクセスもよく、東京発の日帰り旅行を気軽に楽しむこともできます。
かつては幕府の直轄地で、「小江戸」と呼ばれるほどに発展した川越。地理的な要衝の地でもあったことから、歴代藩主達はいずれも親藩・譜代大名で、その多くは幕政を担う重臣達でした。
川越の歴史をたどると、幾度となく火事に見舞われた記録が残っています。しかし、川越に暮らす人々はそのたびに名将のもとで、より強固な町づくりを達成し続けてきました。川越が商業の町として大成したのは、転んでもただでは起きない、町の人々の気質に負うところが大きいのです。

江戸の北方という好立地から重要視された要衝の地

川越城本丸御殿

川越城 本丸御殿

川越は将軍のお膝元・江戸の北西部に位置し、その地理的な要因から江戸城の北方を防衛する軍事上の重要拠点でした。

関東の覇権をめぐって戦国大名による激しい争奪戦の舞台となったのち、1580年(天正8年)、「徳川家康」(とくがわいえやす)の家臣「酒井重忠」(さかいしげただ)によって川越藩が成立。

三河譜代であった酒井重忠は川越城の城主となりました。「江戸の大手は小田原城、搦手[からめて]は川越城」という当時の一節が残っていますが、この言葉も川越がどれほどの要衝(ようしょう:軍事・通商・交通において重要な地点)の地であったかを示しています。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

川越城の東側は低湿地、城下町は西へ

関東中央部の武蔵野台地にそびえたつ平城の川越城は、江戸城を築いたことで知られる「太田道真」(おおたどうしん)、「太田道灌」(おおたどうかん)父子により、室町時代の1457年(長禄元年)に築城されました。

舌状(ぜつじょう)に延びた台地の北東の外れにあり、川越城の東側に広がった荒川と入間川による低湿地は、自然の要害の役割を果たしたと言います。反対に、城の西側は頑丈な地盤であったため、川越城下町は城をぐるりと囲む形ではなく西側に広がるように造営されました。

なお、太田道灌はたいへん優れた築城家でしたが、実は江戸城も同じように舌状の地で、川に囲まれた天然の要害を有する地形。さらには太田道灌の居住した屋敷も、小規模ではあるものの似たような立地だったことが書物に記されています。

この時代の城と言えば山城が定石です。しかし、これに倣わず、平地のいわゆる「太田道灌好みの立地」に城を築いたこのエピソードから、太田道灌の突出した才能が垣間見えます。

城下の3分の1を焼失した大火と再整備

1638年(寛永15年)、城郭の大部分と城下の3分の1を焼失する大火がありました。翌年、新たに藩主となりこの危機に対応したのは、3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の側近であった「松平信綱」(まつだいらのぶつな)です。松平信綱は城の再建と城下町の復興に奔走します。

はじめに、川越城の西側に曲輪(くるわ)などの郭を拡張し、13の城門や富士見櫓など3つの櫓を備えて、326,000平方メートルあまりの近世城郭としての形態を整えました。そして、城下には「十ヶ町四門前」(じっかちょうしもんぜん)の町割りを敷きます。

町割りとは、武家・町人・寺社と身分により居住区域を定めるものでした。川越の町割りは、城の南北に武家屋敷を配置し、町人町ではもっとも人通りのある「札の辻」(ふだのつじ:法令の制札を立て民衆に周知する道)を中心に、商人町の上五ヶ町、職人町の下五ヶ町の10町と加えて4つの門前町から構成。この町人町を守るように、寺社地の多くは意図的に西部に集められました。

伊豆の官職であったことと、頭脳明晰を表す「知恵出づ」をかけて「知恵伊豆」の愛称を持つ聡明な松平信綱は、このようにして見事に川越を再建します。川越の近世城下町としての規模・機能を整え、さらに城下町を発展させていくのです。

川越が小江戸と称されるほど大きく発展した理由とは?

江戸時代の未曾有の大火という困難を乗り越え、川越城と城下町の拡張に成功した松平信綱は、他にも荒川と入間川の治水や、深刻な水不足を解消する野火止用水の開削、勧農政策による農業の発展など、その手腕を随所で発揮していきます。

最も川越を発展させたと言われているのが、舟運(しゅううん)の開設です。ゆるい流れが蛇行する新河岸川(しんがしがわ)を改修して舟運を整えたことにより、江戸との物流がたいへん活発になりました。

川越方面からは「米」、「麦」、「穀物」、「さつまいも」などの農産物や木材を運輸。江戸方面からは、肥料類や日用雑貨などの物資だけにとどまらず、江戸の文化が川越に運ばれました。

そののち、「川越夜船」と呼ばれる便が生まれ、これを利用すれば一晩で江戸へ行けるまでに発達。その輸送力は、かなりのものであったと推測できます。また、陸路で江戸までを結ぶ川越街道の整備もなされ、川越は水陸両道が開かれた交易の要となり、商業の町として関東物流の拠点となっていきました。

こういった背景から川越と江戸は強く結び付き、江戸時代後期の領地は松平信綱入封時の6万石から17万2,000石にまで広がります。まさに、小江戸の名にふさわしい発展を遂げたと言えるのです。

川越の建造物と文化

重要地として発展し現代に続く川越。江戸からの影響を色濃く受けた情緒あふれる町として歴女にも人気の城下町をご紹介します。

喜多院

喜多院は「川越大師」の別名で知られる、徳川家とゆかりの深い天台宗の古刹(こさつ:古い寺のこと)です。住職を務めたのは、徳川家康の信任が厚かった「天海僧正」(てんかいそうじょう)でした。

江戸時代に起こった川越大火では、現存の山門を除き、堂塔をすべて焼失してしまいます。このとき、天海僧正の年齢はなんと105歳という高齢。天海僧正を慈父と仰ぐ江戸幕府の3代将軍・徳川家光は、加賀守「堀田正盛」(ほったまさもり)を造営奉行とし、ただちに大火からの復興を命じました。

江戸城から客殿に「徳川家光誕生の間」を移築し、書院には乳母であった「春日局化粧の間」(かすがのつぼねけしょうのま)を移築。これは、天海僧正が慈しんだ喜多院の再興の助けとなるようにという徳川家光の強い思いがあったとも言われています。

また、書院に面する小さな庭園は遠州流で「曲水の庭」(きょくすいのにわ)と呼ばれており、格式高い美しさを堪能できます。

喜多院の五百羅漢

喜多院の五百羅漢

喜多院のもうひとつの見どころとなっているのが、境内の一角に並ぶ540体もの「五百羅漢石像」です。これは「喜多院の五百羅漢」と言って、「日本三大羅漢」のひとつに数えられています。

「羅漢」とは、「阿羅漢」(あらかん)の略称で、尊敬や施しを受けるにふさわしい聖者のこと。人間の喜怒哀楽を表現している喜多院の羅漢様達は、ひとつとして同じ表情、しぐさがないと言われ、その豊かな表情に心が和むと、歴女をはじめとして多くの人々が見学に訪れます。

大沢家住宅

大沢家住宅

大沢家住宅

大沢家住宅」は、重厚な建具と黒漆喰の建物が軒を連ねる「蔵造り」の町並みの中でも、小江戸・川越の風情が感じられるいちばんの観光スポット。

蔵造りとは、火災の際に類焼を防ぐための巧妙な耐火建築のことで、江戸の町屋形式として発達した建築様式です。

川越に残る大半の蔵造りは、明治時代に入ってから建てられましたが、大沢家住宅は大火の焼失を免れ、川越最古の蔵造りとしてのちに国の重要文化財に指定されました。

大沢家住宅は1792年(寛政4年)、呉服太物屋を商う近江屋半右衛門の店として建てられた店舗蔵です。現在では「小松屋」を屋号として1階では川越の民芸品を販売し、2階はギャラリーとして使用。

界隈の蔵と比較すると地味な印象の外観ですが、築200年を超えている貴重な建造物の装飾は、実際に見学すると迫力があり、古い建造物が好きな歴女の心を掴むこと間違いなしです。

時の鐘

時の鐘

時の鐘

「時の鐘」は、地元では「鐘撞堂」(かねつきどう)と呼ばれ親しまれている川越のシンボル。

約400年前に3代目藩主「酒井忠勝」(さかいただかつ)が城下多賀町(現在の埼玉県川越市幸町)に建てた建造物です。

そののちの度重なる火災で幾度か建替えられ、1733年(享保18年)には火の見櫓が付け足されました。

現在の鐘楼は4代目。1893年(明治26年)の川越大火の翌年に建替えられた建造物で、木造3階、高さ約16mの江戸時代当時の構造を模した造りとなっており、1日に4回(6・12・15・18時)鐘が鳴らされます。

亀屋本店(山崎家住宅)

1783年(天明3年)の創業から230年余りの歴史をもつ、川越の老舗和菓子屋の名店「亀屋本店」。蔵造りの建物が並ぶ、現在の仲町にあるこのお店は、代々、川越藩の御用を賜り歴史ある銘菓を作り続けています。

現在の建物は、1894年(明治27年)に5代目主人が建てた建造物で、その総工費は現在の価格で約2億円。店蔵の横には小さな袖蔵が並び建ち、その重厚で豪華な蔵造りの外見がたいへん目を引きます。

亀屋は、創業当初から本物の砂糖を使用した「上物主義」の菓子作りで、庶民にはまったく手が届かず、顧客と言えば武士や豪商、豪農などの富裕層ばかりでした。その品質に一切妥協を許さない姿勢が功を奏し、3代目当主のときに川越藩の御用達となったのです。

「御用商人」として出入りを認められるようになり、さらには京都の「嵯峨御所」にも菓子を献上。亀屋は、川越における確固たる地位を得ました。なお、明治時代初期に5代目当主が創案した芋せんべい「初雁焼」は、今なお川越みやげとして大人気。お菓子好きな歴女であれば、一度は食べておきたい銘菓です。

三芳野神社

三芳野神社

三芳野神社

三芳野神社」(みよしのじんじゃ)は、約1,200年前の平安時代に創建された神社。

1638年(寛永15年)の川越大火により行なわれた川越城の拡張整備に伴い、三芳野神社は城内に取り込まれ、川越城の鎮守となりました。

これにより庶民の立ち入りはできなくなりましたが、川越藩では大祭と七五三のお祝いに限り、境内への一般参拝を許します。

耳馴染みのあるわらべ唄の「通りゃんせ」は、その発祥地に諸説あるものの、最も有力だと言われているのが、この三芳野神社の参拝を描写した唄だという説。

城の敷地内に庶民が入るため、警備しやすいよう参道を狭くしたことを「天神様の細道」と謳い、「御用のないもの通しゃせぬ」として、まず入場時に怪しい者がいないか参拝者を確認。さらに「行きはよいよい、帰りはこわい」という表現からは、機密書類の持ち帰りがないか、退場時の身体検査はことさら厳重であったことが推測できます。

少し謎めいている歌詞ですが、まさにこの三芳野神社の背景と合っているため、童謡やわらべ歌が好きな歴女に特におすすめの観光地です。

川越まつり

川越まつり

川越まつり

氷川神社の秋の例大祭で、1648年(慶安元年)、知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が神輿や獅子頭、太鼓などの祭礼具を寄進し、祭礼を奨励したのが「川越まつり」のはじまりです。

当初は、十ヶ町の町民達が中心となって、仮装行列などの練りものの附祭(つけまつり)を運営しましたが、新河岸川の舟運により江戸の文化が伝わるようになってから、川越商人達の経済力もあいまって祭礼は次第に発展していきました。

1698年(元禄11年)には、江戸祭礼の花形・踊り屋台が初披露されるなど、江戸の天下祭の様式や風流が随所に取り入れられ、川越独特の特色を残しながら現在に受け継がれています。

毎年10月に行なわれている川越まつりは、絢爛豪華な山車の競演が大きな盛り上がりをみせ、1年で最も観光客の集まる一大イベント。370年もの間続く江戸の天下祭の様式や風流を伝える貴重な都市型祭礼として、「川越氷川祭の山車行事」は国の重要無形民俗文化財にも指定されています。

徳川家光も所有した1振

千姫

千姫

太刀は、本多忠刻(ほんだただとき)の愛刀です。本多忠刻は、伊勢桑名藩初代藩主を務めた「本多忠勝」(ほんだただかつ)の孫で、誰もが振り返るほどの美男子として知られており、徳川家康の孫で絶世の美女とも言われていた「千姫」と結婚します。

しかし、本多忠刻は結核を患い31歳の若さで逝去。本多忠刻亡きあとは、妻の千姫が形見として将軍家(徳川家光)の元へ本太刀を持ち帰ったことがきっかけで、将軍家の蔵刀となりました。

そののち、徳川綱吉より松平忠周(まつだいらただちか)が拝領し、信州上田藩松平家にて家宝として伝わるなど、本太刀は歴史上で名を馳せる人物達に受け継がれてきた名刀として広く知られることとなります。

本太刀の制作者である刀工「手掻包永」(てがいかねなが)は、大和伝の大和五派のひとつであり、大和鍛冶の中で最も刀工数が多い手掻派の祖と言われる刀匠。本太刀以外にも重要文化財に登録されている太刀が複数あり、現存している物のほとんどは無銘磨上げとなっています。

太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
包永(金象嵌)
本多平八郎忠為
所持之
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
71.8
所蔵・伝来
本多忠刻→
千姫→徳川家光→
徳川綱吉→松平忠周→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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