歴女に人気の城下町

石川県の城下町・金沢(金沢市)

文字サイズ

石川県金沢市の「金沢」の歴史を象徴する枕詞(まくらことば)と言えば「加賀百万石」(かがひゃくまんごく)。歴女のみなさんもよくご存じの言葉ですが、これは徳川家に次いで裕福な藩であったことを意味しています。
加賀藩の藩祖は、歴史小説やNHK大河ドラマの常連でもある「前田利家」(まえだとしいえ)です。「織田信長」(おだのぶなが)や「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)とは幼なじみで、若いころは槍(やり)の遣い手として知られ、織田信長と豊臣秀吉が天下人となったあとも信頼されていました。さらには、「徳川家康」(とくがわいえやす)にも一目置かれた、稀代の名武将でもあります。
加賀藩の潤沢な財力は、前田利家の才覚によってもたらされたのかも知れません。その財力は、金沢城下の町づくりや文化にどのような影響をもたらしたのでしょうか。城下町・金沢の歴史を辿ってみましょう。

城下町の草創期にはキリシタン大名の高山右近も活躍

城下町が誕生する以前の「金沢」は、浄土真宗(一向宗)の寺院を中心に、周囲を堀や土塁が取り巻く寺内町(じないちょう)でした。しかし、1580年(天正8年)に一向一揆が起こり、これを「柴田勝家」(しばたかついえ)が平定。その直後から柴田勝家の甥にあたる「佐久間盛政」(さくまもりまさ)が築城に着手しますが、約3年後には「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の命を受けた「前田利家」(まえだとしいえ)が統治を引き継ぎ、本格的な城造りを開始しました。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 武将・歴史人のエピソードや、関連のある日本刀をご紹介!

15万坪以上の規模を誇った金沢城

前田利家公像

前田利家公像

金沢に入った前田利家は、天守閣や石垣、堀などの整備を本格的に推し進めます。

完成した「金沢城」は本丸、二の丸、三の丸を備えた9万坪の壮大な規模に達し、のちに造られた堀の外の「兼六園」(けんろくえん)や出丸などを合わせると、その広さは15万坪以上に及びました。

前田利家が金沢の城造りと城下町の造成について頼りにしたのは、キリシタン大名として知られる「高山右近」(たかやまうこん)です。高山右近は、築城技術の知識に長け、政治や軍事にも精通していたと言われています。

当時、加賀藩の支配下にあり、現在は世界遺産に登録された合掌造りの村としても知られる五箇山(ごかやま)で、江戸幕府の目に触れないよう密かに火薬の原料となる塩硝(えんしょう)を作るようになったのも、高山右近の助言によります。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

2本の河川と堀や土塁が守る金沢城下

高山右近が縄張り(町全体の設計図作り)をしたという金沢城を中心とする城下は、浅野川と犀川(さいがわ)という自然の堀によって守られ、防衛の観点からも恵まれた立地にあります。高山右近の目には、2本の河川による防御だけでは十分ではないと映ったのでしょう。町の高台に建つ金沢城は、周囲に堀と土塁が築かれ、さらに厳重な守りで固められました。

前田家の治世のもと江戸に次ぐ10万人都市へと発展

加賀藩は100万石の大きな藩であったことから、他藩と比べて家臣の数も別格。「加賀八家」(かがはっか:重役である年寄衆を代々世襲した家)と呼ばれる重鎮をはじめ、石高が1万を越える武士もたくさんいました。

前田利家は、3,000石以上の上級武士に下屋敷を与え、城の周辺に集め、城下には彼らが暮らす「家中町」(かちゅうまち)を数ヵ所作り、その郊外には中級武士の家が集まる区画が据えられました。現在、観光名所として人気を集める「長町武家屋敷跡」は、中級武士が暮らしていた地区。

一方、町人は城下の北側を走る街道沿いに集められました。城の北側にある尾張町は、経済の中心地として発展し、豪商達がこぞって大店を構えた地区。また、城の南西には庶民にも親しまれた片町や香林坊(こうりんぼう)などの商店街が連なっていました。

こうした城下の町づくりは、前田利家の四男で3代藩主の「前田利常」(まえだとしつね)の代になって完成を迎えます。前田利常は、町割り(区画整理)と道路整備を進め、点在していた寺院を寺町台と卯辰山(うだつやま)に集約し、前田家と縁の深い寺院を小立野台(こだつのだい)に集約させました。また、1631年(寛永8年)に見舞われた大火のあとには、この災害を教訓に辰巳用水を整備し、家屋敷を城外へ移すよう陣頭指揮を執っています。

代々藩主によって育まれた金沢の優雅な文化

藩主が代を重ねるごとに金沢特有の優雅さも培われていきました。藩祖の前田利家は、故郷の尾張から様々な分野の職人を呼び寄せ、国内有数の匠の技を金沢に集積させたのです。さらに、5代藩主の「前田綱紀」(まえだつなのり)は、城に隣接する傾斜地に別荘を建て、蓮池庭(れんちてい)を造成。これが、兼六園の基礎となります。

成巽閣

成巽閣

ところが、この別荘は1759年(宝暦9年)の大火で焼失。これを再建したのは、11代藩主の「前田治脩」(まえだはるなが)でした。

さらに、13代藩主の「前田斉泰」(まえだなりやす)は母の隠居所として兼六園の隣に絢爛豪華な「成巽閣」(せいそんかく)を建てています。

これらの大規模な公共事業が行なわれるたびに庶民の感性も磨かれ、経済が活性化し、文化を愛する気質が育まれていったのです。

城下町の整備や、文化の振興についてもまた、歴女の関心を呼ぶ歴史的要素に違いありません。

徳川将軍家の思惑に応えた加賀藩主達

ここでひとつの疑問が浮かびます。徳川幕府は、なぜ外様大名である前田家に100万石もの禄を与えたのでしょうか。

関ヶ原の戦い」で豊臣・徳川の二手に分かれて戦った前田家は、細心の注意を払って徳川家との関係作りに当たりました。他方、徳川家は、外様大名であっても幕府に忠誠を誓い、その発展に貢献すればここまで出世できるという模範を知らしめる存在として前田家を取り立てたとの見方もできます。幕府の思惑をしっかりと認識していた代々の加賀藩主達は、その思いに応える方策を心得た上で城下を安泰に導いていきました。

前田利家は算盤勘定が得意!

前田利家の人柄のなかに、財を最大限に活かす能力が備わっていたと思わせるエピソードが、いくつか残されています。史実を大切にした歴史小説の名手、「津本陽」(つもとよう)氏のエッセイ「のるかそるか」では、次のような一文と共に前田利家を紹介しています。

「また彼は算勘にも明るかった。兵員の給与の計算、金、銀、米穀等の算用に、器用に算盤を用いた。幅三寸、長さ六寸ほどの算盤を常に具足櫃(ぐそくびつ)に納めていたと言われる」

この算盤(そろばん)は、今も前田育徳会によって管理・保存されています。前田利家の時代には、算盤は先進の数学を日本にもたらした道具でした。そのことからも、金銭に対して論理的に考えようとする前田利家の態度が伺えます。

お金の活きた使い方を伝える前田利家の遺言

前田利家は、正室の「芳春院」(ほうしゅんいん:まつ)から「ケチ」と言われていたそうです。また、死の直前には金を貸していた武将達に借用書を渡したとの逸話も残されていますが、その一方で家族には、次のように言い残しました。

「儂(わし)が死んだのち、大乱が起こったときに味方になってくれた者は、借金は棒引きにしてやれ。そういたせば、味方の数は増えるに違いない」

こうした逸話から、前田利家がお金の威力を十二分に理解していたこと、また引き締めるべきは引き締め、投入すべきときには惜しみなく投入するという金銭感覚が浮かび上がってきます。そのお金や財政に対する姿勢が、加賀百万石の礎(いしずえ)を築き、金沢城下に繁栄をもたらしたのでしょう。金沢城下の歴史を辿ると、お金を活かす使い方を知っていた藩主と庶民の間で、経済の好循環が生まれていたことが分かります。

文武両道に長け、経済にも明るく、良い物を見分ける審美眼を持っていた前田利家。その知性と美学は、後世の藩主達にも受け継がれ、今なお金沢の城下町の個性を形作っているのです。前田利家は、戦国武将としてだけでなく、良き藩主としても、歴女の眼鏡に適うのではないでしょうか。

兼六園と成巽閣

ここからは、前田利家と歴代の前田家当主が築き上げた城下町金沢の今を見ていきます。歴史的な趣きが色濃く漂う金沢の町は、歴女の心を惹き付ける魅力がいっぱいです。

歴代藩主が1世紀以上の歳月をかけ完成させた兼六園

兼六園

兼六園

春の桜、初夏のハナショウブ、秋の紅葉、冬の雪吊りなど四季折々の風景で知られる兼六園は、江戸時代を代表する大名庭園であり、「日本三名園」のひとつに数えられています。

兼六園の名付け親は、書院からの美しい眺めに感動した「松平定信」(まつだいらさだのぶ)でした。

兼六園の礎を築いたのは、5代藩主の前田綱紀です。前田綱紀は、文人大名として名高く、書画、陶器、象嵌(ぞうがん)、蒔絵(まきえ)といった美術や工芸への造詣の深さでも一目置かれる人物でした。

その前田綱紀の陣頭指揮のもとで、1676年(延宝4年)に瓢池(ひさごいけ)と御亭(おちん)が完成し、約20年後に蓮池御亭(れんちおちん)を増設。これが兼六園の前身です。

1822年(文政5年)には、12代藩主「前田齊廣」(まえだなりなが)が兼六園の中央に、約4,000坪の広さを持つ竹澤御殿を建てました。この竹澤御殿の建築にあたっては、前田家お抱えの職人工房である御細工所(おさいくしょ)の匠達が腕を振るったとのこと。

兼六園は、歴代藩主が1世紀以上の歳月をかけて、ほぼ現在の形に造り上げていきました。回遊式を基本とする庭園に様々な時代の特色が見られるのは、そうした歴史によるものなのです。

歴女のみなさんなら、時代による特色をひとつひとつ見付けながら散策するのも面白いですね。

斬新なデザインの成巽閣は13代藩主前田斉泰が母に贈った別荘

成巽閣

成巽閣

1863年(文久3年)には、竹澤御殿の「謁見の間」(えっけんのま)や「鮎の廊下」を移築し、西洋の素材なども採り入れた巽御殿(たつみごてん)が建てられます。

そして、竹澤御殿の跡地は曲水(きょくすい:曲がりくねって流れる小川)や植栽(しょくさい:木を植えること)を加えた回遊式庭園に生まれ変わりました。これは、前田斉泰が母である「隆子」のために作った物です。

巽御殿に入ると、部屋ごとに異なる趣向のデザイン、随所に散りばめた精巧な細工物、大胆にあしらった色彩に目を奪われます。この巽御殿が成巽閣と名前を変え、現代へと受け継がれました。

金沢城は石垣の博物館だった

金沢城 石川門

金沢城 石川門

前田利家の時代。天守閣のあった場所に、金沢城の遺構が再現されています。

金沢城公園の入口にある石川門は、大火で全焼したのち、1788年(天明8年)に再建された江戸時代の建造物で、重要文化財に指定。

他に、石川門と並んで「金沢城三御門」と呼ばれた橋爪門、河北門が平成の時代に復元されました。

また、金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれるほど、多彩な石垣が見られるスポットです。江戸時代からの堅牢な姿を今に伝える園内の石垣を巡ると、出入口や庭園など、用途や場所に応じて工夫を凝らしていることが、歴女のみなさんならすぐに分かります。

3代藩主の前田利常が作庭に着手し、その後も歴代藩主が手を加えながら育てた、独創的な内庭「玉泉院丸庭園」(ぎょくせんいんまるていえん)も再現され、兼六園とはひと味違う武家らしい趣きを楽しめるとのことです。

出格子と石畳が続く粋な茶屋街 ひがし茶屋街

ひがし茶屋街

ひがし茶屋街

卯辰山(うたつやま)の麓にあるかつての茶屋街で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

「木虫籠」(きむすこ)と呼ばれる出格子(でごうし)と石畳が続く風情は金沢ならではのものです。

金箔や加賀友禅などを扱う土産物店やカフェが軒を連ね、観光客の賑わいが絶えることはありません。1820年(文政3年)に町割りを改めた際に、茶屋が集められた地区のひとつで、金沢には他にも2ヵ所の茶屋街があります。

ひがし茶屋街で最も大きなお茶屋は「懐華楼」(かいかろう)です。ここは今も現役の茶屋として営業しており、夜は「一見さんお断り」を貫いていますが、カフェもあり、昼間は見学が可能。

江戸時代の姿を残すお茶屋「志摩」は営業していませんが、国の重要文化財指定の建造物として公開されています。歴女のみなさんが何気なく歩いていたら街角で着物姿の芸妓さんと遭遇。茶屋街では、そんな驚きもありそうです。

武士の暮らしぶりを今に伝える土塀の町 長町武家屋敷跡

繁華街として知られる香林坊から少し南下すると、前田家の治世時代にタイムスリップしたかのような、土塀に囲まれた長町武家屋敷跡に行き当たります。ここは、加賀藩の中級武士達が暮らしていた地区です。

冬には雪から土塀を守るための「こも掛け」が施され、寒い季節の風情も格別。土塀に沿って流れる大野庄用水の風景は、時代劇のワンシーンのようです。

この界隈には、加賀藩の奉行職を歴任した野村家があり、建物と庭園が公開されています。また、足軽屋敷を移築して再現した「金沢市足軽資料館」などがありますので、各階層の武士の生活に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

和菓子王国・金沢の繊細さに触れる金沢菓子木型美術館

織田信長」(おだのぶなが)や豊臣秀吉の盟友であった前田利家は、彼らの影響を受けて茶の湯に親しんだ武将のひとりでした。その思いはのちの藩主達にも受け継がれ、3代藩主の前田利常は京都から茶葉の栽培技術を導入し、5代藩主の前田綱紀は「千利休」(せんのりきゅう)の末裔(まつえい)を茶道奉行として招いたとの記録が残っています。

そして、藩主の奨励のもとで、茶の湯は金沢の商人や職人の間にも広まっていきました。茶の湯が普及するにつれ、菓子の文化も発展。金沢を含む石川県は、今も全国で1、2を争う和菓子の消費量を誇っています。

お菓子好きな歴女の方に味わって欲しい、金沢を代表する和菓子のひとつが「長生殿」(ちょうせいでん)です。3代藩主の前田利常の命を受けた菓子店「森八」の3代目が編み出した銘菓として知られ、のちに「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)や徳川将軍家にも献上されました。

長生殿は、和三盆と紅花を使った紅白の干菓子で、上品かつシンプルさを極めた逸品です。長方形の菓子に型押しされた「長生殿」の文字は、茶の湯の大家で数々の名庭園の作庭家(さくていか)としても名高い「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)の筆によるものと伝えられています。

この森八には、和菓子の製造に使われた木型を展示する美術館が設けられており、展示されている木型の数は、なんと1,000点以上。金沢に伝わる文化と美学の奥深さが感じられ、歴女なら歴史も和菓子もますます好きになるスポットです。

石川県の城下町・金沢(金沢市)

石川県の城下町・金沢(金沢市)をSNSでシェアする

「石川県の城下町・金沢(金沢市)」への交通アクセス

全国各地から当施設への交通アクセス情報をご覧頂けます。
「経路検索」では、当施設への経路・当施設からの経路を検索することが可能です。

交通アクセス情報を見る 交通アクセス情報を見る

「石川県の城下町・金沢(金沢市)」近くの生活施設を探す

「石川県の城下町・金沢(金沢市)」周辺(半径1km以内)の生活施設を一覧でご覧頂けます。

施設周辺の生活施設を見る 施設周辺の生活施設を見る

「石川県の城下町・金沢(金沢市)」近くの施設情報

「石川県の城下町・金沢(金沢市)」近くの観光名所

「石川県の城下町・金沢(金沢市)」近くの飲食店

「石川県の城下町・金沢(金沢市)」近くのショッピング施設

「石川県の城下町・金沢(金沢市)」近くの宿泊施設

石川県の刀剣施設情報

石川県にある刀剣施設情報をご紹介します。

  • 金沢市
  • 七尾市
  • 小松市
  • 輪島市
  • 珠洲市
  • 加賀市
  • 羽咋市
  • かほく市
  • 白山市
  • 能美市
  • 野々市市
  • 能美郡川北町
  • 河北郡津幡町
  • 河北郡内灘町
  • 羽咋郡志賀町
  • 羽咋郡宝達志水町
  • 鹿島郡中能登町
  • 鳳珠郡穴水町
  • 鳳珠郡能登町
すべてを見る

刀剣・日本刀に秘められた幾多の魅力を皆様にお届けするサイト、バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」のコンテンツ「歴女に人気の城下町」です。城下町は、お城と共に栄えた町並みを、食事や買い物と合わせて楽しめる観光地として知られています。「歴女に人気の城下町」は、地域別に検索することができますので、お城めぐりや観光の際にぜひご活用下さい。
バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」の掲載内容は、刀剣・甲冑(鎧兜)の基礎知識をはじめ、日本刀の歴史や雑学、日本刀にまつわる歴史人や合戦、名刀を生み出した名工達の紹介など盛りだくさん。日本刀に関する各種アプリゲーム、刀剣・お城川柳、四文字熟語といった楽しむコンテンツも充実。刀剣や甲冑(鎧兜)に関する様々な情報を、あらゆる角度からバーチャルの世界でお楽しみ頂けます。

もっと見る▼

注目ワード

注目ワード