歴女に人気の城下町

青森県の城下町・弘前(弘前市)

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「弘前城」(ひろさきじょう)は、全国に12箇所ある「現存天守」(げんぞんてんしゅ:江戸時代以前に建造され、現存している天守)のひとつです。弘前城下の町割りは、1603年(慶長8年)に初代藩主「津軽為信」(つがるためのぶ)が着手し、1611年(慶長16年)には、2代藩主の「津軽信枚」(つがるのぶひら)が完成させました。
江戸時代後期になると、海を挟んだロシアに対する国防の拠点としての役割まで任されるようになり、他藩にはない特徴が加わっていきます。弘前城下を散策する歴女は、様々な歴史ミステリーに出会えそうです。

城下町弘前の発展をリードした津軽氏

戦国時代までの津軽地方は、「南部氏」(なんぶし)の一族が覇権を握っていましたが、その流れが変わった1588年(天正16年)に南部氏間で内紛が勃発すると、南部氏から郡の管理を任されていた、弘前藩初代藩主「大浦為信」(おおうらためのぶ)のちの「津軽為信」(つがるためのぶ)が主の隙を突いて津軽地方を統一しました。

太閤豊臣秀吉への根回し

豊臣秀吉

豊臣秀吉

大浦為信は、以前から上洛しては「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に馬や鷹、津軽の特産品などを献上することで、天下人と関係を築きつつ、好機をうかがっていたのです。

統一を果たした大浦為信は、これを機に姓を「津軽」に改めます。

そして、1590年(天正18年)の「小田原の役」(おだわらのえき)では、豊臣秀吉に加勢。その褒美として津軽3郡を領地として与えられます。

これは、津軽為信が大名として独立を果たしたことを意味し、かねてからの望みどおりに、南部氏の家来から脱却することができたことを表していたのです。領主となった津軽為信を中心とする津軽の一族は、野心が旺盛なだけでなく、弘前の地を繁栄に導こうとする強い意志が感じられます。

そののち、津軽為信は「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では徳川側につき、その功が認められて4万7,000石を与えられました。そして1603年(慶長8年)には、津軽平野の水運の良い中心部で城下町の町割りを開始したのです。

津軽為信は、城下町の完成を観ることなく京都で亡くなりますが、2代藩主で三男の「津軽信枚」(つがるのぶひら)がこれを引き継ぎ、1611年(慶長16年)に5層の大天守を持つお城を完成させます。このお城が、現在の「弘前城」(ひろさきじょう)ですが、当時はまだ弘前の地名はなく、「高岡城」または「鷹岡城」と呼ばれていました。

弘前城

弘前城

弘前城の天守は、1627年(寛永4年)に落雷によって焼失してしまいましたが、6つある「郭」(くるわ)や、「辰巳」(たつみ)「未申」(ひつじさる)「丑寅」(うしとら)の3つの「櫓」(やぐら)、5ヵ所に配した「城門」は、現存しています。

現存する3層の天守は、1810年(文化7年)に9代藩主の「津軽寧親」(つがるやすちか)が本丸の辰巳櫓を改築した建造物です。

津軽信枚は、父の津軽為信が始めた町割りを発展させ、家臣の住む区域や商工業に携わる町人の区域を決め、街道も整備。新田開発も積極的に進め、青森県に港を開き、領内で収穫された米を江戸に運ぶ航路も開発しています。豪雪地帯の弘前が発展していくためには、従来通りの農業だけでは不十分であるため、産業の振興が不可欠だったのです。

2004年(平成16年)に設置された、弘前城東門近くの「弘前文化センター」正面入口前に建つ津軽為信の銅像から、「弘前の原点」を感じ取る歴女もいるかもしれません。

日本の城 弘前城 YouTube動画

「弘前城」現存12天守

代々受け継がれた進取の気風

3代藩主「津軽信義」(つがるのぶよし)も、先人達と同様に、進取(しんしゅ:自ら進んで物事をすること)の気風に富んだ人物だったと言われています。

その象徴が新参者の「船橋半左衛門」の起用。その試みは、古参の家臣達の反感を招き、一時は藩内で津軽信義を排斥しようという動きが出たと言われています。しかし、津軽信義が考えを変えることはなく、船橋半左衛門の助力を得て、治水や金山の経営など、次々に新たな取り組みを行ない、大きな成果に結び付けたのです。

一方、弘前藩の学術向上に貢献したのは、4代藩主「津軽信政」(つがるのぶまさ)でした。津軽信政は、一流の学者や技術者を招くなど、積極的に学術向上行政に関与。55年に及んだ津軽信政の時代には産業が発展し、文武も盛んになっていきました。

また、津軽信政は先代が手がけた治水事業の承継や、津軽平野の日本海側に40kmに及ぶ防風林の植栽など、藩政の確立・発展に尽力。これらの積極政策によって、弘前藩は最盛期を迎えたのです。

もっとも、それは長くは続かず、1695年(元禄8年)、餓死者を3万人も出した最悪の大飢饉に見舞われたことをきっかけに、弘前藩は衰退してきました。

飢饉、財政難と闘い続けた藩主達

現代に残る伝統的建造物保存地区

現代に残る伝統的建造物保存地区

そののちの藩主達も凶作や飢饉、それに伴う財政難という負の連鎖には悩まされ続けました。

こうした問題に立ち向かったのが、8代藩主「津軽信明」(つがるのぶあきら)。

実験的な試みとして、藩士に帰農土着を奨励したのです。津軽信明は、武士が城下に住むのが当たり前の時代にあって、希望者を募り、身分は武士のままにして農業に従事させました。

しかし、武士と農民の間でいざこざが頻発し、試みは約10年で頓挫。津軽信明に限らず、藩主達は、手をこまねいていた訳でなく、様々な方策を講じますが、なかなか抜本的な解決には至りませんでした。

大規模な惣構えと寺町

弘前は、壮大な規模の惣構え(そうがまえ:土塁などで囲み城下を守ること)を誇る城下町として有名です。大天守を頂く本丸を守る堀。その外側には、二の丸、三の丸と続きます。これは、外様大名としては異例とも言える規模ですが、そこには江戸幕府の思惑が絡んでいました。

また、城下町には大規模な寺町が存在し、弘前城の大規模な惣構えと、寺町は外敵からの防衛の最前線でもあったのです。

蝦夷地とロシアを見据えた砦

弘前城 模型

弘前城 模型

江戸幕府は、各藩のお城の規模や構造について、詳細に管理していました。

特に、外様大名の城郭建設には神経を尖らせており、大規模な弘前城の建設を認めたのは異例と言えますが、その裏には特別な事情があったのです。

江戸幕府は、弘前を国防の重要拠点であると考えていました。弘前の北には、津軽海峡を挟んで蝦夷地(えぞち:現在の北海道)があるため、弘前藩には隣の盛岡藩と共に、蝦夷地の松前藩を支援する役割を担わせたのです。

さらに、江戸時代後期になると、ロシアが南下政策に意欲を示し始め、1792年(寛政4年)には、ロシア使節が漂流民の「大黒屋光太夫」(だいこくやこうだゆう)を送り届けるとの口実で、根室に来航する事件が発生。

その際、江戸幕府は弘前藩と盛岡藩に松前藩の警固を命じています。盛岡藩は、弘前藩初代藩主の津軽為信に裏切られた(離反された)南部氏が牛耳る藩。言わば宿敵同士が国(日本)を守るために共同戦線を張っていたのです。

防御の最前線として機能

弘前の城下町の、もうひとつの大きな特徴は、規模の大きな寺町の存在です。弘前城下の「西茂森」(にししげもり)には、33の寺院が密集している地域があります。ここは宗教施設に止まらず、外敵から町を守る出城のような役割を担っていたのです。

町の防衛のためであれば、お城を築くのが最も妥当な方策ですが、城の管理は「武諸法度」(ぶけしょはっと)により、厳しく規制されていました。そこで、考え出されたのが寺町を作る策。現在とは違い、当時の寺院はお城のような建物と機能を備えていました。そのため、外敵が攻撃してきた場合には、「砦」(とりで)としての役割を果たすことができたのです。

また、城下に住む武士や町民は、どこかの寺の檀家となり、「宗門人別帳」(しゅうもんにんべつちょう)に記載されることを義務付けられていました。これは、現代の戸籍と同様の記録。寺院が町役場のような機能を果たしていたことになります。つまり、寺町に配置された寺院は、外敵からの防衛と領民の管理と言う2つの役割を担っていたのです。

今では穏やかな風情が漂い、歴女の散策コースとしても人気が高い弘前の寺町ですが、津軽氏の菩提寺である「長勝寺」(ちょうしょうじ)を中心に、河川に挟まれた高台に並ぶ寺院群を町の防衛という観点で見直せば、頼りになる要塞であったことに気付かされます。

弘前城下町を散策する

ここでは、弘前の城下町に広がる桜の名所や歴史ある寺町など、歴女の皆さんに訪れて欲しいおすすめのスポットをご紹介していきましょう。

弘前公園

弘前藩は、明治維新後の廃藩置県によって終焉を迎えます。もっとも、弘前城の天守や城門、櫓は保護され、1895年(明治28年)からは市民の憩いの場となる「弘前公園」(ひろさきこうえん)として開放されました。

桜と水面を覆う花筏

桜と水面を覆う花筏

お城自体も見応えのある観光スポットですが、本州北端の桜の名所としても有名。例年、4月下旬頃から約2,600本の桜が一斉に花を開かせます。

ひとつの花芽からいくつもの花を咲かせる桜は、青森の特産品である「林檎」の選定方法から生まれたとのこと。

弘前公園内には由緒ある桜も多く、日本最古の「ソメイヨシノ」、1715年(正徳5年)に津軽藩士が、京都から持ち帰った「カスミザクラ」など、趣の異なる50種類の桜が咲き競います。

圧巻は外堀を埋め尽くす桜並木ですが、堀の水面を覆う花弁の花筏(はないかだ:水面の花弁が連なりながら流れている様子を筏に見立てた言葉)の美しさも格別。

弘前公園の桜は、長く厳しい冬を乗り越え、春の到来を喜ぶ津軽の人々の思いが投影されているかのような風情を漂わせており、歴女ならずとも心躍る風景です。

禅林街

1610年(慶長15年)、2代藩主の大浦信枚により造られた曹洞宗の33ヵ寺が連なる寺町。弘前城の南西にあり、風水による裏鬼門の方角の砦と考えられていました。

長勝寺

長勝寺

長勝寺

禅林街の中心をなす、津軽家最初の菩提寺が長勝寺です。

山号は「太平山」(たいへいざん)で、1528年(享禄1年)の創建当時は、別の場所に建てられていましたが、1610年(慶長15年)の弘前城築城と共に、2代藩主の津軽信枚が、この地に移したとされています。

8室からなる本堂は、曹洞宗の本堂としては最古の部類のひとつ。

また、「庫裏」(くり)は「大浦城」(おおうらじょう)の台所を移築したと伝えられており、その他、鎌倉時代の「梵鐘」(ぼんしょう)や歴代藩主の「霊廟」(れいびょう)、「五百羅漢」(ごひゃくらかん)などがあり、境内は厳かな雰囲気に包まれているため、訪れた歴女も厳粛な気持ちになれそうです。

最勝院

最勝院 五重塔

最勝院 五重塔

最勝院」(さいしょういん)は、3代藩主の津軽信義によって1656年(明暦2年)に着工され、1667年(寛文7年)に完成した寺院。

釘を使用することなく建てられた31.2mの「五重塔」は、江戸時代の建造物。

藩祖である津軽為信が、津軽を統一するために戦った戦で命を落とした兵士達を供養するために建立したと伝えられ、重要文化財に指定されています。

「東北一美しい」と称されている五重塔には、「火の丸」という名の太刀が納められた伝説が存在しており、火の丸という号も、この不思議な伝説に由来しています。

火の丸伝説

昔、毎晩自分の居間で草鞋や草履を作っていた下男が、小雪のちらつくある晩も作業を行なっていました。

主人は、その下男の居間から明かりが漏れているのを見て、何気なくなかを覗き込んだところ、明かりのないはずの居間のなかが、非常に美しく輝いて見えたのです。

不思議に思った主人が「火もなく焚き火もない部屋でお前が仕事をしていると言うのも不思議なことだが、奇しくもこのように美しく輝いているのはなぜか」と問いただすと、下男は「私の太刀を抜いて部屋の隅に立て掛けて置けば、火も焚き火もいりません。不思議な光に部屋は明るく、暖こう御座います」と答えた。

現在、その太刀の所在は不明ですが、最勝院は不思議な力に包まれた「パワースポット」として有名。歴女ならずとも気になるスポットです。

旧岩田家住宅

築城当時、弘前城の「追手門」(おうてもん)として使われていた北門(亀甲門:きっこうもん)の周辺には、お城の防御のために配されていた武士が暮らすエリアの面影が色濃く残されています。

その一画には、いわゆる侍町であった仲町地区があり、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定。ここに居並ぶ4棟の武家住宅には、式台構えの玄関を正面に備え、内部には接客用の座敷や居間として使われていた「常居」(じょい)などがあり、質実剛健を旨とした江戸時代後期の中級武士の暮らしぶりを今に伝えているのです。

旧岩田家住宅

旧岩田家住宅

なかでも茅葺き屋根の「旧岩田家住宅」(きゅういわたけじゅうたく)は、いつまでも座っていたくなるような心地良さにあふれています。敷地面積は約700平方メートル。

畳敷きの部屋が5つあり、三方に縁側が設けられています。

岩田家は、200~500石の中流武士でしたが、10代当主の岩田平吉は函館戦争の折に、津軽部隊の参謀を務めた強者でした。弘前の激動の歴史が詰まっているスポットであると言えます。

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