歴女に人気の城下町

岡山県の城下町・備中高梁(高梁市)

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江戸時代、現在の岡山県高梁市に築城された「備中高梁城」(びっちゅうたかはしじょう)。このお城の正式名は「備中松山城」(びっちゅうまつやまじょう)、同じく藩の名称も「備中松山藩」(びっちゅうまつやまはん)が正式な藩名です。しかし、「備中高梁藩」(びっちゅうたかはしはん)の呼び名も浸透しており、明治時代になると高梁藩に改称されました。
ここでは、「現存12天守」に名を連ね日本三大山城に数えられる天下の名城・備中高梁城、そしてその城下町にまつわる歴史や魅力、オススメの観光スポットを歴女の皆さんにご紹介します。

備中高梁に今も流れる品格の歴史

備中高梁城(備中松山城)

備中高梁城(備中松山城)

鎌倉時代にあたる1240年(延応2年/仁治元年)、「秋庭氏」(あきばし)が臥牛山(がぎゅうざん/がぎゅうさん)に砦を築いたことが、「備中高梁城」(びっちゅうたかはしじょう)の始まり。

臥牛の名は南から山を観ると、老いた牛の姿のようであることから付けられましたが、その正式名は「備中松山城」(びっちゅうまつやまじょう)。

また、地元では「お城山」(おしろやま)の愛称でも呼ばれています。

戦国時代には、このお城をめぐって「毛利氏」(もうりし)と「三村氏」(みむらし)が火花を散らし、「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)の活躍により、備中高梁城は毛利氏の手中に収まりました。

しかし、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)では毛利氏が豊臣方にしたがったことから、「備中高梁」(びっちゅうたかはし)の領主の座には、「徳川家康」(とくがわいえやす)が就くことになったのです。

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日本の城 備中松山城 YouTube動画

「備中松山城」現存12天守

備中高梁の代官を引き継いだ青年・小堀遠州

そののち、備中高梁は江戸幕府の直轄地になります。その理由のひとつは、備中高梁の地が、銅や硫化鉄鉱石と言った鉱物の産出地だったこと。関ヶ原の戦いの勝敗が決まった直後、江戸幕府は「小堀正次」(こぼりまさつぐ)を、備中高梁城の城番(じょうばん:お城の警護にあたる者)として送り込んでいます。

小堀遠州(小堀政一)

小堀遠州(小堀政一)

それから15年後に小堀正次が急死。そこで息子の「小堀遠州/小堀政一」(こぼりえんしゅう/こぼりまさかず)が、城番の任務を継ぐことになったのです。

少年時代の小堀遠州は、もともと父と共に「大和郡山城」(やまとこおりやまじょう)に入り、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の弟「豊臣秀長」(とよとみひでなが)の小姓(こしょう:貴人の側に仕え、様々な雑用を任されていた者。多くは少年が務めていた)として仕えていました。

小堀遠州は、武将でありながら茶の湯の愛好家でもあった豊臣秀長のもとで、「侘び茶」(わびちゃ)を完成させた「千利休」(せんのりきゅう)や、軍師として名を馳せた「黒田官兵衛[黒田孝高]」(くろだかんべえ/くろだよしたか)らとも親交があったと伝えられています。

また、小堀遠州は豊臣秀長の死後、豊臣秀吉の直参(じきさん:主君に直接仕えた家臣)として京都の伏見に移り、茶人武将として知られる「古田織部」(ふるたおりべ)に、茶の湯を学んでいました。つまり少年時代の小堀遠州は、文化や芸術などにおける「第一人者」とも言える人物から、その道の英才教育を受けていたのです。

29歳から39歳までの青年期を備中高梁で過ごした小堀遠州は、荒れ果てていた砦跡に白壁の美しい天守閣を築造し、自らが政務を執った「頼久寺」(らいきゅうじ)の山門には、城郭と見紛うばかりの壮大な石垣を造り、作庭(さくてい)も手がけました。「鶴亀の庭」(つるかめのにわ)と呼ばれる頼久寺の枯山水(かれさんすい:水を使わず、石や砂などで風景を表現する庭園の様式)は、後世、小堀遠州の初期における代表作として、高く評価されています。

そんな小堀遠州は、城下町の整備にも熱心に取り組みました。陣屋を臥牛山の麓(ふもと)に設け、小高下谷川(ここうげだにがわ)の南側には「本町」を配し、山と川が守る城下町の基礎を築いたのです。

現代まで残ってきた武士の風習をご紹介します。

高瀬舟で鉱石を運搬

備中高梁藩/備中松山藩」(びっちゅうたかはしはん/びっちゅうまつやまはん)の立藩は、1617年(元和3年)になってからのこと。初代藩主の座に就いたのは、小堀遠州から治世を引き継ぎ、因幡国(いなばのくに:現在の鳥取県東半部)と伯耆国(ほうきのくに:現在の鳥取県西半部)の2国を領していた「鳥取藩」(とっとりはん)から、6万5,000石で入封した「池田長幸」(いけだながよし)。「池田氏」(いけだし)の藩政が2代続いたあと、藩主となった「水谷勝隆」(みずのやかつたか)は、備中高梁の城下町の充実を図りながら、殖産興業を積極的に推し進めていったのです。

城下町の北、備中高梁城の麓にある陣屋を守るように武家屋敷を配し、小高下谷川の南に「石火矢丁」(いしびやちょう:現在は同音で[石火矢町]と表記する)などを置き、さらに強固な防御を備えました。そして、高梁川(たかはしがわ)近くに整備した本町や「新町」などの道筋には、商家を集めていたのです。

当時の備中高梁城下には独自の規則があり、武士にかかわりの深い区域には「丁」の字を使い、商人の生活圏は「町」で表して区別していたと伝えられているのですが、現在は町で統一されています。

また、水谷勝隆は高梁川において「高瀬舟/高瀬船」(たかせぶね)専用の水路を設け、新田開発や砂鉄の産地である「千屋」(ちや)の鉄山業振興にも取り組んでいました。高瀬舟は、日本全国で用いられていた川船の一種。その発祥は、この高梁川など山陽地方の川にあると言われているのです。

2代藩主「水谷勝宗」(みずのやかつむね)は、日常的な居館兼政庁として尾根小屋を建て、弟「水谷勝能」(みずのやかつよし)には、備中高梁城の修復にあたらせており、現在も観られる同城の天守は、この時代に造られたと考えられています。

また、町の西側の「寺町」も復興させ、藩主の居館を中心に300軒の武家屋敷と700軒ほどの町屋、そして20の寺社を配し、備中高梁の城下町を完成に導きました。町の砦の役割も果たしていた頼久寺の北側には、今も武家屋敷が並び、往時の姿を伝えています。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

備中高梁を救った山田方谷の藩政改革

江戸時代後期において、備中高梁藩の藩政を担ったのは、「板倉氏」(いたくらし)でした。「寺社奉行」(じしゃぶぎょう:寺社やその領民の管理を行ない、訴訟の受理などを担当した江戸幕府の職名)となった「板倉勝政」(いたくらかつまさ)は、藩校として「有終館」(ゆうしゅうかん)を創設。ところが、板倉勝政の2代あとに藩主となった孫の「板倉勝職」(いたくらかつつね)は、少々遊びの度が過ぎる人物だったようで、藩の財政が傾いてしまいます。

その窮地から備中高梁藩を救ったのが、伊勢国桑名(いせのくにくわな:現在の三重県桑名市)からやって来た「板倉勝静」(いたくらかつきよ)。板倉勝静は、「寛政の改革」(かんせいのかいかく)で偉業を成し遂げた、老中「松平定信」(まつだいらさだのぶ)の孫ですが、跡継ぎのいなかった板倉勝職の養子となり、備中高梁藩の藩主となったのです。板倉勝静は祖父の才覚を受け継ぎ、人を見る目も持っていました。

山田方谷

山田方谷

例えば、板倉自身の補佐役として、農民出身の陽明学者「山田方谷」(やまだほうこく)を元締役兼吟味役に抜擢し、有終館の学頭(がくとう:学校長のこと)にも取り立てています。

山田方谷は論理的な分析に基づき、借財の整理と殖産興業を中心とした藩政改革を推し進める一方で、町人や農民であっても優秀な者は藩士に取り立てる教育改革も行なっていました。

藩士のなかには、山田方谷の急進的な手法に反発を抱く者も多かったのですが、藩主である板倉勝静は、「山田方谷の言うことは、私の言葉である」と全幅の信頼を置いていたと伝えられています。

山田方谷による藩政改革の結果、備中高梁藩の財政は好転。徹底した利他の精神で改革に取り組んだ山田方谷は、今でも高梁の人々からの尊敬を集めているのです。

このような山田方谷の人間性を見抜いていた板倉勝静は、「奏者番」(そうじゃばん/そうしゃばん:江戸幕府において、将軍に謁見する大名の取次などを行なった役職)から寺社奉行へと出世を果たし、そののち、1861年(万延2年/文久元年)と1865年(元治2年/慶応元年)の2度に亘り、老中の座に就いています。

歴女必見!ぜひ巡りたい観光スポット

長い歴史を持つ備中高梁の城下町には、魅力的な観光スポットがたくさんあります。雲海に包まれたお城や小堀遠州が手掛けた庭園など、美しい町並みを眺めながら城下町を散策してみませんか。

備中松山城(備中高梁城)

備中高梁城下の北の端には、標高約480mの臥牛山がそびえています。4つの峰からなるこの山の頂に建てられているのが、備中高梁城です。

そして、標高430m辺りにある天守は、江戸時代に築造されたと考えられ、「現存12天守」のひとつに選ばれており、お城好きの歴女の皆さんから注目を集めています。

城郭のなかには「天守」の他、「二重櫓」(にじゅうやぐら)や「三の平櫓東土塀」(さんのひらやぐらひがしどべい)も現存しており、これらは1941年(昭和16年)、旧国宝(現在の重要文化財に相当)に指定された遺構です。また、1994年(平成6年)から重要文化財を中心に、本丸の復元整備も行なわれ、南御門や東御門、路地門、五の平櫓、土塀などが忠実に復元されています。

備中松山城展望台(雲海展望台)

雲海に浮かぶ備中松山城

雲海に浮かぶ備中松山城

「備中松山城展望台」(びっちゅうまつやまじょうてんぼうだい)は「雲海展望台」(うんかいてんぼうだい)とも呼ばれ、雲海のなかに浮かぶ幻想的な備中高梁城が望める展望台です。

雲海が発生する時期は、9月下旬~4月上旬の明け方から午前8時頃。10月下旬~12月上旬の早朝には、とりわけ濃い朝霧が期待できます。雲海が出やすい気象条件は、早朝に天候が良く、朝と昼の寒暖差が大きい日。

この美しく幻想的な備中高梁城の佇まいを写真に収めたい歴女の皆さんは、お出かけ前に天気予報をしっかりチェックしましょう。また展望台周辺は、国の天然記念物に指定された野生の猿の生息地。遭遇しても興奮させないように注意が必要です。

石火矢町ふるさと村

臥牛山の麓には、備中高梁の城下町が広がっています。そのなかの「石火矢町ふるさと村」(いしびやちょうふるさとむら)は、武家町として発展した保存地区です。

現在も格調高い門構えの武家屋敷が、250mに亘って軒を連ね、路地の両側には白壁の長屋門や土壁が続き、時代劇のなかに迷い込んだかのような町並み。武家屋敷のなかには、内部が公開されている家屋があり、ゆっくり見学することが可能。

さらに同地区に設けられた資料館には、備中高梁藩ゆかりの武具なども展示されています。

武家屋敷

旧埴原家(きゅうはいばらけ)
江戸時代中期から後期にかけて、藩主の側に仕えた「近習」(きんじゅ)役や、警備の責任者である「番頭」(ばんがしら)を務めた武士の住宅です。寺院建築や数寄屋(すきや)風の要素を採り入れた造りが特徴。「山田方谷資料室」(やまだほうこくしりょうしつ)も併設されています。
旧折井家(きゅうおりいけ)
天保年間(1831~1845年)に建てられた武士の住まいです。「書院造」(しょいんづくり)の母屋と長屋門からなり、中庭の池や庭石、踏み石などが往時のままの姿で残されています。

紺屋川筋

備中高梁城の外堀の役割も果たしていた高梁川。紺屋川(こうやがわ)は、その支流です。桜と柳の美しい河畔(かはん:河のほとり)の並木道に沿って、「新島襄」(にいじまじょう)が布教に訪れた岡山県内最古の教会「高梁キリスト教会堂」(たかはしきりすときょうかいどう)や、山田方谷が学頭を務めた藩校の有終館跡などが点在し、散策にぴったりの穏やかな風景が続きます。桜の名所としても人気が高く、「日本の道100選」にも選ばれている観光スポットです。

高梁市商家資料館・池上邸

豪商が軒を連ねていた本町通りに、江戸時代中期の享保年間(1716~1736年)に建てられた商家が残されています。この地で小間物屋を開いた「池上氏」(いけがみし)は、両替商、高瀬舟の船主を経て、醤油製造を営んでいました。無料の休憩所もあるので、歴女の皆さんも、城下町巡りの途中に立ち寄ってみるのがオススメです。

頼久寺庭園

頼久寺庭園

頼久寺庭園

頼久寺は、1339年(暦応2年)に「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が建立した禅寺。

このお寺の鶴亀の庭と呼ばれる、「禅院式枯山水蓬莱庭園」(ぜんいんしきかれさんすいほうらいていえん)は、若き日の小堀遠州が、備中高梁藩の代官を務めていた時代に手掛けた、初期の代表作と言われている作品。

頼久寺庭園」(らいきゅうじていえん)では5月頃になると、青海波(せいがいは)を表現した大刈り込みのサツキが一斉に咲き始め、小堀遠州が目指した「綺麗さび」の世界が眼前に現れます。

足利尊氏のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

吹屋ふるさと村

ベンガラ色の町並み

ベンガラ色の町並み

「ベンガラ漆喰」(べんがらしっくい)と「石州瓦」(せきしゅうがわら)の赤褐色が、独特の雰囲気を醸す町。

江戸時代末期から明治時代にかけて、この吹矢地区の豪商達が「石州」(せきしゅう:現在の島根県西半部)から宮大工の棟梁を招いて、統一した方針に基づく町並みを整備しました。

吹屋は、銅と共に硫化鉄鉱石の産地。「ベンガラ」とは、硫化鉄鉱石を酸化・還元させて作った外壁用の塗装材。吹屋は日本全国で、初めてベンガラを生産した町なのです。

町全体が見事なアート作品のようであると同時に、生活している人々の息遣いが感じられる「吹屋ふるさと村」(ふきやふるさとむら)の町並みは、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に認定されています。

郷土館・旧片山家住宅

旧片山家住宅

旧片山家住宅

石州の宮大工「島田網吉」(しまだつなよし)が、1879年(明治12年)に建てた住宅。

家の主は、ベンガラ窯元「片山家」(かたやまけ)の総支配人を務めた「片山嘉吉」(かたやまよしきち)です。

敷地には店構えと母屋、ベンガラ製造に使った付属屋が並び、往時のベンガラ商家の様子を伝えています。

ベンガラ館

ベンガラ館

ベンガラ館

日本で初めてベンガラが生産されたのは、江戸時代中期の1707年(宝永4年)のこと。

明治、大正と時代が移るにつれ、ベンガラ生産はますます盛んになり、吹屋の町並みの基礎を築いていきました。

今も観られるベンガラ館の建物は、明治時代のベンガラ工場を復元して造られています。

笹畝坑道

笹畝坑道

笹畝坑道

平安時代の807年(大同2年)に銅山が発見されて以来、この地域は銅の産出地として知られるようになりました。

戦国時代には、「尼子氏」(あまごし)と毛利氏が争奪戦を繰り広げ、江戸時代になると、その価値を重要視した徳川家康によって江戸幕府の直轄地になっています。

この「笹畝坑道」(ささうねこうどう)は、江戸時代から大正時代まで操業した銅山を復元しており、坑内に入って見学することが可能。内部の温度は、年間を通して15℃前後と快適です。

江戸時代には、ここから掘り出された銅や硫化鉄鉱石を馬に乗せ、高梁川の高瀬舟に積み変えて、現在の倉敷にあった「玉島港」(たましまこう)へと行き、そこから海路で大坂の銅役所に運ばれていました。

広兼邸

広兼邸

広兼邸

「いつか、どこかで見たような……」この豪邸の前に立つと、そう感じる人もいるはず。

実はこの邸宅、映画「八つ墓村」(やつはかむら)の舞台となった場所なのです。

それに加えて、1977年(昭和52年)に公開された同映画のオリジナル版と、1996年(平成8年)のリメイク版の2度に亘って、そのロケ地として用いられています。

豪壮な「楼門」(ろうもん)と石垣を持つこの邸宅の持ち主は、吹屋地域で庄屋を務めた「広兼氏」(ひろかねし)で、今も観られる離れ以外の建築物は、江戸時代末期に造られました。広兼氏は、享和年間(1801~1804年)及び文化年間(1804~1818年)に銅山とローハ(ベンガラの原料)の製造で財を成した名士として知られています。

映画を観た歴女の方は、圧倒されること間違いなしの観光スポットです。

岡山県の城下町・備中高梁(高梁市)

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