「西美濃の要衝」と言われた大垣城ですが、その築城年代や築城主は明確になっていません。
1500年(明応9年)に土豪「竹腰尚綱」(たけこしひさつな)が築いた説と、1535年(天文4年)に美濃国(現在の岐阜県)守護で土岐氏一族の「宮川安定」(みやがわやすさだ)が築いた説があり、築城当時の名称は「牛屋城」でした。
当初は、本丸と二の丸のみという控えめなお城でしたが、1563年(永禄6年)に「氏家直元[卜全]」(うじいえなおもと[ぼくぜん])により拡張工事が行なわれたのち、1583年(天正11年)には池田恒興によって本格的な整備が施されます。
1596年(慶長元年)、「伊藤盛景[祐盛]」(いとうもりかげ[すけもり])による改修を経て、4重4層の壮大な天守が築かれました。
1600年(慶長5年)、大垣城は水堀を幾重にも張り巡らせた堅城として、「関ヶ原の戦い」で西軍の本拠地に据えられます。
当時、大垣は美濃と近江(現在の滋賀県)を結ぶ最重要拠点であり、かつては「斉藤道三」と織田信秀(おだのぶひで:織田信長の父)が大垣を巡って戦った地でもありました。
「石田三成」は、大垣城におよそ1ヵ月滞在したあと、東軍「徳川家康」が大坂へ向けて進攻したとの報せを受け、大垣城から関ヶ原へ移動。西軍が敗れると、大垣城は東軍「水野勝成」(みずのかつなり:徳川家康の側近で三河刈谷藩初代藩主)らに攻め入られて落城。
大垣城の城主はその後、徳川家康の家臣「石川康通」(いしかわやすみち)や、譜代大名「久松松平氏」などを経て、1635年(寛永12年)に徳川家康家臣「戸田氏鉄」(とだうじかね)の代で安定します。
戸田氏鉄は、新田開発や治水・治山の整備に力を入れる他、儒学書を自ら著すなど教育の面においても優れた藩政を展開。戸田氏はその後、11代に亘って大垣藩を治めました。
1873年(明治6年)、廃城令が下されたために大垣城は廃城となりますが、天守などは取り壊されることなく残され、1936年(昭和11年)に国宝に指定されます。
しかし、1945年(昭和20年)の空襲によって城郭のほとんどを焼失。1959年(昭和34年)、大垣市民の声により天守が復元されたあと、乾櫓(いぬいやぐら)、東門なども復元されました。
大垣城西側に整備された「大垣公園」内には、大垣の基礎を築き上げた戸田氏鉄の功績を称えて「戸田氏鉄公騎馬像」が建てられています。
大垣城内は、博物館となっているため、各階に貴重な史料の他、関ヶ原の戦いにおける東軍と西軍それぞれの紹介パネルや解説文、大垣城に由縁がある人物の武具を展示・紹介。
「紫糸素懸威紋柄袖二枚胴具足 七十二間 小星 兜」(むらさきいとすかけおどしもんがらそでにまいどうぐそく しちじゅうにけん こぼし かぶと)は、大垣藩の藩士「戸田源五兵衛」が所用していたと言われる甲冑。
「忠臣蔵」の名称で知られる赤穂事件で、赤穂への使者として戸田氏が派遣された際、有事に備えて持参した甲冑と言われています。
「打刀 武蔵大禄是一」(うちがたな むさしだいじょうこれかず)は、江戸時代の刀工「石堂是一」(いしどうこれかず)が作刀した日本刀。「武蔵」とは武蔵国のことで、現在の東京都・埼玉県・神奈川県東部から成っていました。
新刀備前伝の刀工一派「石堂派」は新刀期に全国に分布しており、江戸で作刀した石堂一派を「江戸石堂派」と呼び、大坂で作刀した石堂一派を「大坂石堂派」と分類しています。
是一は、江戸石堂派の中心人物であり、作風は備前伝の「丁子乱れ」の他、新刀の焼出しが見られない点が特徴。
「薙刀 穴沢主殿盛秀」(なぎなた あなざわとのものもりひで)は、江戸時代初期の武術家「穴沢主殿助[盛秀]」(あなざわとのものすけ[もりひで])が所持していたと言われる薙刀(なぎなた)です。
穴沢主殿助(盛秀)は、穴沢流薙刀術の祖であり、「豊臣秀吉」の三男「豊臣秀頼」に仕えながら、豊臣秀頼の薙刀術の師範としても活躍していました。
「大坂夏の陣」に出陣した際には「上杉景勝」が率いる軍勢と衝突。穴沢主殿助(盛秀)は、上杉軍に甚大な被害をもたらしましたが、討ち取られます。
江戸時代に著された「武将感状記」では、穴沢主殿助(盛秀)の活躍を「薙刀術が戦場において活躍した最後の場面」と評しており、穴沢流薙刀術は穴沢主殿助(盛秀)が没したあとも仙台、名古屋、鹿児島など全国的に広がりを見せ、薙刀術の最大流派となりました。