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戦国武将の運命を変えた大地震

戦国武将の運命を変えた大地震

大きな地震が起きることは、宿命付けられているような日本。地震に備えて、水や食糧の備蓄、家具の固定、家屋の耐震改修など、個人でもできる事前の準備はたくさんあります。そして、いざ地震が起きたら、まず身の安全の確保を!
このように、地震国で生活する限り、人々は常に地震の脅威と戦っていると言っても大げさではありません。それは現代のみならず、武将達が活躍した戦国時代でも同じでした。突然の大地震に直面した戦国武将は、どのような対応を迫られたのでしょうか。戦国時代の末期から江戸時代初頭に起こった大地震に焦点をあてて見ていきます。

武将達の命運を左右した内陸型の大地震

1585年(天正13年)1月18日「天正地震」

1582年(天正10年)の「本能寺の変」以降から、徳川幕府が樹立された慶長年間(1596~1615年)頃、日本列島はいくつもの大地震に見舞われました。本能寺の変のあとですので、「三英傑」(さんえいけつ)の中でも、「織田信長」だけは大地震に遭遇しなかったのではないかと言われています。

しかし、「豊臣秀吉」と「徳川家康」は、大地震の影響から免れることはできなかったのです。

豊臣秀吉

豊臣秀吉

本能寺の変の翌年、1583年(天正11年)に豊臣秀吉は「大坂城」(大阪城)の築城に着手し、天下統一への歩みを進めていました。その1年後の1584年(天正12年)、豊臣秀吉と徳川家康・「織田信雄」(おだのぶかつ)連合軍との間で「小牧・長久手の戦い」が勃発。さらにその1年後、いまだ世の中が混乱していた時代に、近畿から中部地方を襲ったのが天正地震なのです。

地震の規模はマグニチュード8クラス、最大震度は6弱~6強だったと推定されています。岐阜県の「阿寺断層」(あてらだんそう)、石川県から富山県にまたがる「庄川断層」(しょうかわだんそう)、三重県の「養老・桑名・四日市断層」などが連動して起きた内陸型の地震で、1891年(明治24年)に起こった内陸型地震最大レベルと考えられている「濃尾地震」より被害は広範囲に亘りました。若狭湾や伊勢湾でも津波があったと記録されていることから、海底の断層も動いたと思われます。

この地震で、近江国(現在の滋賀県)の「長浜城」が全壊。「山内一豊」(やまうちかずとよ)の娘が犠牲になり、越中国(現在の富山県)では「木舟城」が倒壊して、「前田利家」(まえだとしいえ)の弟夫妻が命を落としました。

また、織田信雄の居城である伊勢国(現在の三重県)の「長島城」や、尾張国(現在の愛知県西部)の「蟹江城」も壊滅。同じく尾張国の「清洲城」は液状化現象の被害に遭うなど、多数の戦国大名が重大なダメージを負うこととなったのです。

そして、美濃国(現在の岐阜県南部)の「大垣城」も全壊焼失してしまったため、ここを最前線の拠点として徳川家康を攻撃しようとしていた豊臣秀吉のもくろみも、また崩れ去りました。天正地震が起こったとき、豊臣秀吉は「明智光秀」が築城した近江国滋賀郡の「坂本城」にいましたが、安全と思われる大坂城へあわてて逃げ帰ったとのことです。

徳川家康

徳川家康

徳川家康の方も、三河国(現在の愛知県東部)の「岡崎城」が被災しましたが、領国内の揺れは震度4以下だったとのことで、致命的なダメージは受けませんでした。その後、豊臣秀吉と徳川家康は和解に至ります。

もし天正地震が起こっていなかったとしたら、徳川家康は、豊臣秀吉率いる大軍の総攻撃を受けていたはずだと考えられています。当時、紀伊国(現在の和歌山県)や四国まで平定していた豊臣秀吉の方が軍事力で勝っていたため、戦になれば徳川家康は滅ぼされる可能性があったのです。

天正地震は、まさに武将の命運を分けた一大事と言えるでしょう。

災いを復活の契機とした? 加藤清正

1596年(慶長元年)9月5日「慶長伏見地震」

天正地震から10年後の1596年(慶長元年)のこと。9月1日に四国の中央構造線を震源域とする「慶長伊予地震」が発生。マグニチュードは7前後と推定されています。

3日後の9月4日には、豊後国(現在の大分県)で「慶長豊後地震」が起こりました。マグニチュードは6.8~7.8。津波に襲われ、豊後国では多くの家屋が失われたと伝えられています。

さらに、翌9月5日には、山城国伏見(現在の京都府伏見区)付近で慶長伏見地震が発生。マグニチュード7.25~7.75と推定される直下型地震です。たった5日間の間に、大地震が3つ続けて起こるという前代未聞の災害となりました。

慶長伏見地震では、とりわけ京都の被害が大きく、「伏見城」の天守や、「東寺」、「天龍寺」などが倒壊。伏見城内だけでもおよそ600人が犠牲になったのです。

このとき、「加藤清正」がいち早く伏見城へ駆け付け、豊臣秀吉を救い出したとの逸話があります。加藤清正は、「石田三成」の讒言(ざんげん:他人を陥れるため、目上の者に嘘を告げること)により豊臣秀吉の怒りを買って謹慎中だったのですが、豊臣秀吉を救った功績により謹慎を解かれ、のちの戦で活躍してみせるのです。この物語は、歌舞伎の演目「地震加藤」となって、評判を得たと言います。

加藤清正

加藤清正

ですが、実際には地震発生時、加藤清正は大坂にある自分の屋敷に滞在していたと考えられており、すぐさま伏見城へ駆け付けることはできなかったとの見方が有力です。

石田三成と対立していたのは史実で、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では、石田三成に肩入れするのはゴメンだとばかりに徳川家康方の東軍に加わり、九州の戦いで活躍。やがて54万石の大名へと出世を果たします。

その後、加藤清正は「熊本城」や「名古屋城」の築城に携わりました。熊本城は、2016年(平成28年)4月14日に起こった「熊本地震」で甚大な被害を受けてしまいます。現在は、多くの人々の支援と、ひとかたならぬ尽力によって復旧工事が進められ、この復興の様子は、熊本城入口に座す加藤清正像が見守っているとのことです。

一方の名古屋城は、1610年(慶長15年)に徳川家康の命により築城が始められました。徳川家康は、清洲城が液状化現象の被害にあった経験を踏まえて、比較的地盤の強固な「熱田台地」の北西端へ、清洲城の城下町ごと移転することを決定。

これは「清洲越し」と呼ばれるビッグプロジェクトであり、築城場所の選定には、現在の名古屋市中村区出身の加藤清正が深くかかわったと言われています。

築城の現場では、加藤清正は最も重要な天守を支える石垣作りに携わりました。

後世にも活かされる伊達政宗の復興事業

1605年(慶長10年)2月3日「慶長地震」
1611年(慶長16年)11月2日「慶長三陸地震」

1603年(慶長8年)、徳川家康が征夷大将軍に任官し、江戸幕府が開かれます。それから間もない1605年(慶長10年)2月3日に慶長地震が発生しました。

津波による被害が大きく、関東から四国、九州の沿岸地域にまで及び、死亡者数は5,000~1万人に上ったとの記録が残されています。この地震の震源域は、南海トラフだとされていますが、陸上での揺れによる被害の記録がほとんどないことから、より遠方を震源域とする遠隔地津波の可能性もあるとのこと。

この慶長地震もまた、徳川家康が清洲越しを決めるきっかけのひとつになったのではないかと考えられています。

この6年後の1611年(慶長16年)11月2日に起こった慶長三陸地震も、巨大津波を引き起こしました。このときは、現在の宮城県岩手県青森県と、北海道も津波の被害を受けたとの記録があります。震源域は三陸沖北部、マグニチュードは8.1と推定。2011年(平成23年)3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」に迫る巨大地震が、ちょうど400年前にも起こっていたのです。

慶長三陸地震のあと、仙台藩(現在の宮城県仙台市)の藩主であった「伊達政宗」は、様々な復興事業に取り掛かりました。

伊達政宗

伊達政宗

まず、津波で浸水して農地として利用できなくなった場所を塩田として開発。製塩業の発展に努めたため、仙台周辺の沿岸部には「塩釜」をはじめ、「塩」や「釜」の付く地名が多いとのことです。住民を呼び戻すための新田開発も併せて行なわれ、石高を増やしています。

伊達政宗はまた、「名取川」と「阿武隈川」をつなぐ「木曳堀」(こびきぼり)を開削(かいさく)して水運を整備。産業の振興に力を注ぎました。これも震災後の復興事業のひとつと言えます。のちに運河は拡張され、伊達政宗の諡(おくりな:貴人の死後に奉る名)にちなんで、「貞山運河」(ていざんうんが:または貞山堀)と名付けられました。

また、伊達政宗没後の1646年(正保3年)に完成した「奥州街道」も、仙台より北は津波の被災地を避けるように内陸部を通っています。そのおかげで、「東日本大震災」(東北地方太平洋沖地震による災害)後の復興では、奥州街道に沿って作られた東北自動車道や国道4号線から沿岸部へ向けて、くしの歯状に道路を切り開くことができ、緊急車両の通行や支援物資の輸送がいち早く可能になったのです。

慶長三陸地震以降も、1614年(慶長19年)11月26日に、越後国(現在の新潟県)から関東、東海、近畿、四国の広範囲に被害をもたらす大地震が発生しました。しかし、これほどの規模の大きな地震にもかかわらず、震源域や被害の記録がほとんどない、不可解な地震です。

この地震の直後の12月19日、「大坂冬の陣」が始まります。そして、翌1615年(慶長20年)4月、「大坂夏の陣」が開戦。徳川軍に敗北した「豊臣秀頼」と「淀殿」が自害して、豊臣宗家は滅亡しました。

時を同じくして、地震活動も収まり、静穏期に入ります。大地震の発生が減ったこの期間に、徳川家は確固たる支配体制を固めていくのです。

歴史を見つめ、最新の防災情報に留意する

現在の日本は、ふたたび地震の活動期に入ったと考えられています。南海トラフ巨大地震や、首都直下型地震の発生が警戒される昨今ですが、一般人の人が戦国武将から学べることは多くはないかもしれません。

しかし、歴史にしっかりと目を向けて、地震はいつ起こってもおかしくはないと肝に銘じるべきだと、改めて実感することができます。そして、日頃から地震防災の正確な情報を手に入れつつ、備えを怠ることなく心構えは万全に

今からさっそく、非常用持ち出し袋の中身を点検しましょう!

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