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稀代の業物鑑定家・山田浅右衛門

稀代の業物鑑定家・山田浅右衛門

「下手人[げしゅにん]は、打ち首獄門に処す!」。時代劇などの「お白洲」(おしらす:裁判を行なう法廷)において、町奉行が犯罪者に刑罰を申し付けるシーンで、よくこのような言葉が出てきますよね。「打ち首」は首を斬られること。そして「獄門」は、斬られた首を獄門台に晒すことですから、死刑だということはよく分かります。では、そんなむごい刑を執行するのは誰なのだろう?そんな疑問を抱いている方もいるのではないでしょうか。その答えは「山田浅右衛門」(やまだあさえもん)。今回は、江戸時代から明治初期にかけて、死刑執行人として知られていた山田浅右衛門にまつわるお話です。

山田浅右衛門とは

山田浅右衛門の別名は「首斬り浅右衛門」

すなわち、江戸時代から明治時代にかけての死刑の手段だった斬首刑の執行人でした。首は人体の枢要部である頭部を支えるため、細かくて硬い骨が密集している部位であり、スパッと斬り落とすことができなかった場合には、大量出血や、死刑囚が苦痛でのたうち回る地獄絵図が展開されてしまうことにもなりかねません。

そのため、斬首刑を滞りなく行なうには、執行人にかなりの剣術の腕が要求されていました。そこで、剣術の達人でもあった初代・山田浅右衛門「貞武」(さだたけ)が選任されたのです。

山田浅右衛門の直前までこの役を担っていたのは、幕臣の「山野久英」。しかし久英の死後、その子に斬首刑を行なえるだけの剣術の腕がなかったため、世襲することなく、任を解かれたと言われています。

以後、明治時代に斬首刑が廃止されるまで、9代に亘って山田浅右衛門がこの役割を担うことになりました。

このことから分かるように、山田浅右衛門は特定の誰かを指す名前(氏名)ではありません。誤解を恐れずに言えば、山田浅右衛門という名前自体が苗字のような物だったのです。

なお、「山田浅右衛門家」の身分は武士ではなく浪人でした。

公儀御様御用

山田浅右衛門には、死刑執行人とは別の顔もありました。それが「公儀御様御用」(こうぎおためしごよう)と呼ばれる役割。

簡単に言うと、日本刀(刀剣)の切れ味を確かめるための試し斬り役です。戦場などにおいて、日本刀(刀剣)が武器として使用されていた時代には、武士がその切れ味を体感する場所はたくさんありました。

しかし、天下泰平の江戸時代には、日本刀(刀剣)を武器として使用する機会は皆無に。そのため、入手した日本刀(刀剣)の切れ味を知るため、各大名(武士)はこぞって公儀御様御用の任を受けた山田浅右衛門に試し斬りを依頼したのです。

試し斬り

試し斬り

依頼を受けた公儀御様御用は、試し斬りを行ない、その日本刀(刀剣)の切れ味について「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)、「大業物」(おおわざもの)、「良業物」(よきわざもの)、「業物」(わざもの)の4ランクに分けて評価をしていました。

ちなみに業物とは、よく切れる日本刀(刀剣)を意味する言葉です。

この他、試し斬りを行なった日本刀(刀剣)の切れ味を示す言葉としては「三ツ胴」などがあります。当時は試し斬りの際に罪人の死体を用いることが多く、その日本刀(刀剣)によって、重ねた死体を何体まで斬り落とすことができたのかを示す言葉。

重ねた数が多いほど切れ味が鋭いことを示し、7体重ねた死体を斬り落とした「七ツ胴」程度までの記録が残っています。

この山田浅右衛門の著書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)では、「虎徹」(こてつ)で知られる「長曽祢興里」(ながそねおきざと)や、「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)、「三善長道」(みよしながみち)ら14人の刀工が最上大業物として認定されています。

そののち出版された「古今鍛冶備考」では、懐宝剣尺の内容を追加訂正。さらに多くの日本刀(刀剣)が、山田浅右衛門による「業物鑑定」の結果として記録されています。

そうして山田浅右衛門に認められた日本刀(刀剣)を制作した刀工「ブランド」は、当然のように人気を博しました。

山田浅右衛門と日本刀

山田浅右衛門と日本刀(刀剣)のかかわりを語る上で、外せない1振が国宝「小竜景光」(こりゅうかげみつ)。元々は鎌倉時代末期に活躍した「楠木正成」(くすのきまさしげ)が佩刀していたとされる太刀です。

しかし、そのあとは行方不明となり、次に日の目を見たのは江戸時代、天保年間(1831~1845年)頃でした。「河内国」(かわちのくに:現在の大阪府)の農家で発見された小竜景光は、紆余曲折を経て山田浅右衛門のもとへ。

そののち、一旦「井伊家」に召し上げられましたが、1860年(安政7年)の「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)で「井伊直弼」(いいなおすけ)が倒れると、山田浅右衛門のもとに戻されます。

小竜景光

小竜景光

小竜景光は、磨上げ([なかご]部分を切り詰めて刀身を短くすること)られているため、生ぶ(うぶ:制作当時と同じ姿)姿がどのような物であったかについては、想像するしかありません。その手がかりとなるのが、山田浅右衛門から依頼を受けた江戸時代後期の刀工「固山宗次」(こやまむねつぐ)の手によって制作された写しの存在です。

宗次は、1847年(弘化4年)と1862年(文久2年)の2度、写しを制作していますが、前者については、刀身に彫られた「倶利伽羅竜」(くりからりゅう)が「」(はばき)から覗き見ているように見える現存の作とは異なり、倶利伽羅竜の彫り物が鎺に隠れません。このことから、小竜景光の生ぶ姿を復元した1振であると考えられるのです。

その後、小竜景光は、山田浅右衛門から当時の東京府知事を通じて「明治天皇」に献上され、現在は「東京国立博物館」が所蔵しています。

最後の斬首刑

明治時代になると、刑法が制定・施行され、それまで死刑の主流だった斬首刑に代わって、絞首刑で死刑が執行されることになりました(刑法第11条第1項)。

これに伴って、山田浅右衛門家も「首斬り役」の任を解かれます。

日本における最後の斬首刑が行なわれたと言われているのは、1879年(明治12年)1月31日。執行を受けたのは、強盗殺人などの罪を犯し、死刑が確定した「高橋お伝」(たかはしおでん)でした。

高橋お伝

高橋お伝

お伝の本名は「でん」。1850年(嘉永3年)に「上野国」(こうづけのくに:現在の群馬県)で生まれました。最初の夫と死別(病死説が有力です)後、内縁関係だったと言われる夫の金銭問題で、知人に借金を申込みます。

しかし、情交を条件に承諾した相手が、翌朝になってそれを反故にしたことで逆上。剃刀で喉を掻き切って殺害し、金銭を奪って逃げた罪に問われました。

処刑当日。お伝は夫の名前を叫び続けるなど、激しく抵抗したと言われています。これに平静を乱されたのか、執行役だった山田浅右衛門が1度ならず2度までも斬首に失敗。3度目でようやく首を斬り落とすことができたとも伝えられています。

山田浅右衛門と言えば、代々、斬首役の勤めを果たしてきた「斬首職人」。お伝が激しく抵抗したとはいえ、2度も失敗したという話は、にわかには信じられません。この逸話が本当であるとすれば、お伝は、山田浅右衛門をもってしても、心を惑わされる「何か」を持っていたのかもしれません。

山田浅右衛門由縁の日本刀

刀 銘 陸奥大掾三善長道
刀 銘 陸奥大掾三善長道
陸奥大掾三善長道
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
72.1
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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