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いつの時代もニャンとも可愛い!猫にメロメロだった日本の偉人達

いつの時代もニャンとも可愛い!猫にメロメロだった日本の偉人達

空前の猫ブームが巻き起こっている現代の日本。ペットとして飼われているのはもちろん、毎日のようにたくさんの猫の写真や動画がSNSに上げられていたり、猫カフェに多くの人達が訪れたりしています。日本に初めて猫が入って来たのは、8世紀頃。奈良時代あたりに中国から仏教が伝来した際、ネズミによる食害から仏典を守るため、船に乗って一緒に連れて来られたことが通説とされており、日本の歴史に名を刻んだ偉人達の中にも、現代の私達と同じように猫好きだった人達がいたのです。彼らと猫はどのような関係にあったのか、それぞれにゆかりのあるスポットと共にご紹介します。

日本で最初のツンデレ猫ブロガー!?宇多天皇

日本で猫がペットとして飼われていたことが窺える記述が登場するのは、平安時代中期に完成した「清少納言」(せいしょうなごん)の「枕草子」(まくらのそうし)や、「紫式部」(むらさきしきぶ)の「源氏物語」(げんじものがたり)などの随筆や小説。

しかし、それより少し前に、第59代天皇「宇多天皇」(うだてんのう)が書いた日記である「寛平御記」(かんぴょうぎょき)に、自身が飼っていた黒猫についての描写があるのです。

宇多天皇

宇多天皇

宇多天皇は、父「光孝天皇」(こうこうてんのう)により「臣籍降下」(しんせきこうか:皇族がその身分を離れて、臣民[しんみん:君主に支配される人民]となること)させられて源氏姓を賜り、朝廷に出仕して官僚生活を送った珍しい経歴の持ち主。

そののち皇籍復帰し、887年(仁和3年)に父の崩御に伴って即位すると、実権を独占していた「藤原氏」(ふじわらうじ/ふじわらし)による摂関政治(せっかんせいじ)の影響を削ぐため、同氏とは関係の離れた学者であった「菅原道真」(すがわらのみちざね)を「蔵人頭」(くろうどのかみ/くろうどのとう:天皇の側近として、訴訟や機密文書などを担当する役職)に登用。のちに「寛平の治」(かんぴょうのち)と称される善政を敷いた名君です。

道真と共に政治改革を行ない、その主導力を発揮していた宇多天皇でしたが、子孫に読ませる前提で書いた自身の日記で、飼い猫の溺愛ぶりを存分に表現

それが読めるのは、先述した寛平御記の「寛平元年二月六日」(新暦:889年3月11日)のページ。1匹の猫のことを様々な物に例えて詳しく描写し、その素晴らしさを述べている内容のほんの一部を引用します。

朕閑時述猫消息曰。驪猫一隻。大宰少貳源精秩満来朝所献於先帝
(暇なので私の猫について書いてみよう。この1匹の黒猫は、源精[みなもとくわし:宇多天皇のいとこおじ]が太宰府の次官を辞めて都へ帰ってきたときに、先帝=光孝天皇に献上した猫である。)

まずは、その猫を飼うまでのいきさつが語られています。ここから淡々と猫の描写が続くかと思いきや……?

愛其毛色之不類。餘猫猫皆淺黑色也。此獨深黑如墨。爲其形容惡似韓盧
(めったにない毛色をしていて本当に可愛い。他の猫はぼやけた浅黒色だけど、うちの子は墨のように真っ黒。その姿はまるで韓盧[かんろ:中国戦国時代の韓の国から出た黒い名犬]のようだ。)

猫の毛色を描写するだけなのに、韓の国生まれの猟犬の名前で、足が速く頭も賢い名犬の代名詞でもあった韓盧という言葉を用いたのです。

傍から見ると少々誇張しているようにも思えてしまいますが、宇多天皇にとってはそれほど美しい猫だったということですね。

長尺有五寸高六寸許。其屈也。小如秬粒。其伸也。長如張弓
(体長は1尺5寸[約45cm]、背の高さは6寸[18cm]ぐらい。屈むと黒黍[くろきび]の粒のように小さくなるけれど、体を伸ばすと張った弓のように長くなる。)

このあとも、「目の輝きは針のようにキラキラとしていて、耳は匙[さじ]みたいに真っ直ぐ立っているが折れることはない」、「猫座りしている姿は、黒い玉器が鎮座しているみたいで、音も立てずに歩く様は、雲の上の黒龍のよう」と言う風に、飼い猫を褒めちぎる表現がとことん続くのです。

そしてこの日記には、宇多天皇が先帝からこの黒猫を賜って5年が経ち、毎朝乳粥(ミルク粥)を餌として与えていることが記されています。牛乳は、当時の人々にとってはかなりの贅沢品

それを毎朝欠かさずあげていた訳ですから、宇多天皇が、この黒猫をどれほど可愛がっていたのかが伝わってきますね

しかし宇多天皇は、ここまでその黒猫をどれだけ愛しているかを語っておきながら、途中で人に読まれる日記だと思い出したのか、一応こんな言い訳も書いています。

豈啻取材能翹捷。誠因先帝所賜。雖微物殊有情於懐育耳
(この黒猫が特別優れているから世話をしている訳ではないよ。先帝が下さった猫だから、どんなに小さくても大切にしなくてはと思って面倒を見ているだけなのだからね。)

先ほどまでは打って変わって、なかなかのツンデレぶりです。

天皇という高貴な身分でありながら、どこか親近感すら沸いてきます。猫の可愛さには天皇も敵わなかったのかもしれません。

宇多天皇ゆかりの猫スポット:仁和寺

仁和寺

仁和寺

仁和寺」(にんなじ:京都市右京区)は888年(仁和4年)、宇多天皇によって創建されました。1994年(平成6年)には、「古都京都の文化財」として、世界遺産に登録されています。同寺には宇多天皇にちなみ、黒猫の「招き猫守り」があり、こちらには魔除けの意味があるのだそう。この招き猫守りには他にも、白猫や斑猫(ぶちねこ)の物もあり、そのひとつひとつが手作り

お気に入りを探しに、お参りに訪れてみてはいかがでしょうか。

猫が原因で弟子を破門!?歌川国芳

宇多天皇に負けないほど、日本の歴史において無類の猫好きとして知られているのが、江戸時代末期に活躍した人気浮世絵師「歌川国芳」(うたがわくによし)。

国芳は、猫を擬人化した役者絵を手がけて大ヒットを飛ばすなど、猫への溢れる愛を自身の作品に投影させていました。

明治時代中期頃に著された「浮世絵師歌川列伝」には、

「関根只誠[せきねしせい:江戸時代後期から明治時代の演劇研究家]氏曰く、国芳は愛猫の癖ありて、常に五六頭の猫を飼いおきたり。採筆のときといえども、猶[なほ=なお:やはり]懐中[かいちゅう:ふところの中]に一二頭の子猫を入れおき、ときとして懐中の子猫に物語りして、きかせしことなどあり」

との記述があり、国芳がいつも多くの猫を飼い、例え仕事中であっても片時も離れないほど、ベタ惚れであったことが窺えます。

ちなみに国芳は、多いときには十数匹の猫を飼っていたのだとか。

「浮世よしづ久志」の一部

「浮世よしづ久志」の一部

また国芳は、自身の名前の一部である「芳」(よし)の読みをモチーフにして、世の中の「良いこと」をたくさん集めた「浮世よしづ久志」(うきよよしづくし)という作品を描いていますが、この浮世絵の隅のほうに、猫を抱いて「よしよし」しながら、背中をこちらに向けて座っている国芳が見られます。

猫と一緒にいる自分の姿が、国芳にとってはいちばん自然体だったのではないでしょうか。

そんな国芳ですから、猫にまつわるエピソードには事欠きません。

国芳のもとへ弟子入りした者には、最初に猫のスケッチから学ばせたり、亡くなった猫を弔うために専用の仏壇を設け、位牌にはそれぞれの戒名を刻み、歴代の飼い猫のことを記す「過去帳」なる物を用意したり。

そんななかで最も強烈な国芳の「愛猫」エピソードとして語り継がれているのは、猫をきっかけにして、ある弟子を破門にしたこと

その弟子とは、優れた色彩感覚を持っていたことから、師の作品に「色差し」(いろざし/いろさし:色を付けること)を行なっていた国芳の高弟「歌川芳宗」(うたがわよしむね)。

国芳は、亡くなってしまった愛猫の亡骸(なきがら)を、「回向院」(えこういん)というお寺まで運んで和尚に供養してもらうように、芳宗に頼みます。

ところが芳宗は道中で気が変わったのか、橋の上からその亡骸を投げ捨て、国芳に持たされたお布施を使い、朝まで遊郭で遊んでしまいました。翌朝、国芳に猫の戒名を尋ねられたことから芳宗の悪事が発覚。芳宗は国芳に大目玉を食らい、そのまま破門を言い渡されたのです。

とは言っても、もともと破天荒な性格であった芳宗。これを含めて十数回に亘り、師の不興を買って破門となっていますが、そのたびに許しを得て、芳宗がその生涯を閉じるまで、国芳との師弟関係は続いています。

愛猫の亡骸を捨てられた国芳の気持ちを想像すると胸が痛みますが、国芳の猫への愛がどれだけ深いものであったかが分かるエピソードです。

このような国芳の愛猫精神は弟子達にも受け継がれ、大小9匹の猫を寄せて化け猫の顔を形作った「歌川芳藤」(うたがわよしふじ)の「五拾三次之内猫之怪」(ごじゅうさんつぎのうちねこのかい)など、多くの傑作が生まれています。

歌川国芳ゆかりの猫スポット:回向院

回向院

回向院

芳宗とのエピソードにも出てきた回向院は、東京都墨田区にあるお寺。同寺の歴史は、1657年(明暦3年)にまで遡ります。この年に起きた「明暦の大火」(めいれきのたいか:別称[振袖火事][ふりそでかじ])では、10万人以上の犠牲者が出ました。

しかし、その多くの身元が不明であったため、当時の江戸幕府将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)の命により、無縁仏となったご遺体を手厚く葬る「万人塚」(ばんにんづか)と呼ばれる墳墓が設けられたのです。

その冥福を祈るために建立された念仏堂が、回向院の始まりとされています。「生あるものすべてに仏の慈悲を説く」という理念に基づき、1923年(大正12年)に起こった「関東大震災」(かんとうだいしんさい)の犠牲者などを埋葬しているだけでなく、犬や猫、小鳥、そしてオットセイの供養塔もあり、人間も動物も関係なく、平等に弔われているのです。

そんな回向院の名所のひとつが、国芳の愛猫達も供養された「猫塚」(ねこづか)。

こちらの由来には、日頃からある魚屋に可愛がられていた猫が、病にかかって働けなくなったご主人のため、どこからともなく小判2枚を銜えて来て助けたという、「猫の恩返し」(ねこのおんがえし)と称される物語が伝えられています。

あるときからその猫が姿を現さなくなり、魚屋は心配していましたが、実はその小判はある商家から猫が持ち出していた物。そこの奉公人に見つかり、猫は殴り殺されてしまっていたのです。

回向院の猫塚は、この猫を弔うために築かれたとされています。国芳の愛猫達が眠るこちらに訪れることで、国芳の猫を想う気持ちを感じ取れるかもしれません。

猫に救われた!?神社や寺まで建てた戦国武将達

天下を取るため勇猛に戦う戦国武将と、自由気ままに暮らす愛らしい猫。正反対のイメージを持つ両者ですが、激動の戦国時代にも、猫を可愛がっていた武将はいました。なかには、猫への愛情や感謝の気持ちが深すぎて、神社やお寺まで建立した人達も。

それほどまでに猫を愛した武将のなかでも、特に有名な2人にまつわるエピソードについて見ていきます。

戦場で大活躍!?島津義弘と7匹の猫

島津義弘

島津義弘

薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県西半部)「島津氏」(しまづし)の第17代当主であった「島津義弘」(しまづよしひろ)。

その生涯で大小合わせて50以上に及ぶ戦に参加し、武勇に優れていたことから「鬼島津」(おにしまづ)との異名を取った戦国時代有数の猛将として知られています。

そんな義弘が、ある合戦の場に7匹もの猫を引き連れていたのです。その戦いとは、豊臣政権において、1592年(文禄元年)と1597年(慶長2年)の2度に亘って勃発した「文禄の役」(ぶんろくのえき)「慶長の役」(けいちょうのえき)、いわゆる「朝鮮出兵」

義弘は、その戦いのひとつである「泗川の戦い」(しせんのたたかい)に、猫と共に海を渡って出向いたのです。

しかし、同じ愛玩動物でも、訓練された軍用犬などであれば理解できますが、どうして猫だったのでしょうか。

その理由は、猫の瞳孔にありました。猫をよく観察したことがある方ならご存じかもしれませんが、猫の瞳孔には、時間帯によってその開き具合が変わる性質があります。戦場での時刻を把握するために、猫を活用したという訳です。

義弘は従わせた7匹の猫を、自身の部隊にそれぞれ配置。これにより、食事や出陣の時間を兵士達に知らせていたのでした。

この猫達は、戦いにこそ参加はしませんでしたが、立派に義弘の役に立っていたのですね。

余談ですが、同じく朝鮮出兵に参加していた秀吉の家臣「加藤清正」(かとうきよまさ)には、自身の陣営の付近に出没し、兵士や馬に危害を加えていた虎を、果敢に退治した伝説があります。

猫と虎、大きさは違えど同じネコ科である動物が、一連の戦いにかかわっていたなんてニャンとも面白い偶然!?

島津義弘ゆかりの猫スポット:仙巌園・猫神神社

仙巌園

仙巌園

朝鮮出兵で義弘に従軍した7匹の猫のうち、「ミケ」「ヤス」、2匹の猫が無事に生還。ヤスのほうは、義弘の次男「島津久保」(しまづひさやす)が可愛がっていたことからその名が付けられました。

また、ヤスの柄が、黄色と白の2色の波紋であったことから、茶トラなど同じような種類の猫のことを鹿児島では今でも「ヤス猫」と呼んでおり、義弘と7匹の猫の伝説が、義弘の地元である鹿児島では現代に至るまで根付いていることが窺えます。

そんな2匹が祀られているのが、島津氏の別邸跡「仙巌園」(せんがんえん:鹿児島県鹿児島市)の一角にある「猫神神社」(ねこがみじんじゃ)。

戦場で時間を知らせる役割を担っていた2匹にちなみ、「時の記念日」である6月10日には、毎年時計業者が集まって例祭が開かれ、猫の供養祭長寿祈願も行なわれているのです。

また、すぐ隣にある「猫屋」(ねこや)には、ミケとヤスのイラストが描かれた猫絵馬や猫のお守り、創作猫人形など、様々な猫グッズが置かれています。

愛猫家の方にはぜひ訪れて頂きたいスポットです。

まさに招き猫!太田道灌と1匹の黒猫

猫のなかでも黒猫は、「前を横切ると縁起が悪い」、ときに不吉なことが起こるシンボルとして扱われることがあります。

しかし、そんな黒猫に助けられたエピソードを持つのが、武蔵国(むさしのくに:現在の東京都、埼玉県、及び神奈川県北東部)を拠点とした「扇谷上杉家」(おうぎがやつうえすぎけ)の家宰(かさい:家長に代わり、家政を取り仕切る職責のこと)職を務めていた「太田道灌/資長」(おおたどうかん/すけなが)。

道灌は、江戸城の築城に携わるなどして関東一円にその勢力を広げ、また歌人としても名を馳せていた文武両道の優れた名将でしたが、あるときピンチが訪れます。

それは、1477年(文明9年)に道灌と「豊島泰経」(とよしまやすつね)とのあいだで起こった「江古田原・沼袋の戦い」(えごたはら・ぬまぶくろのたたかい)でのこと。

緒戦(しょせん/ちょせん:戦争の初めの段階)に敗れ、追い詰められた道灌が道に迷って途方に暮れていたところを、1匹の黒猫にある寺まで案内され、絶体絶命の危機から逃れることができたのです。

そのあと、盛り返した道灌は、勝利を収めたことからその黒猫を連れ帰り、大切に可愛がったと伝えられています。

道灌に福をもたらした「招き猫」と言える、この黒猫との偶然の出会いがなければ、道灌の行く末は別の運命を辿っていたかもしれません。

太田道灌ゆかりの猫スポット:自性院

自性院

自性院

道灌が黒猫に導かれ、一夜を過ごしたというお寺が「自性院」(じしょういん:東京都新宿区)。同寺は、黒猫と道灌の伝説から、招き猫発祥の地のひとつとされているのです。

また、この黒猫が亡くなったあと、道灌がその冥福を祈って奉納した「猫地蔵尊」(ねこじぞうそん)が安置されており、「猫寺」の愛称でも親しまれています。

この猫地蔵尊は秘仏とされ、ご開帳は年に1度、2月3日に行なわれる「節分会[猫地蔵まつり]」の1日のみ。

このお祭りでは、年男が扮した七福神の舞姿が町内を練り歩く行列や、豆まきなどが催されており、猫地蔵尊を拝観するため、毎年多くの人々が参詣に訪れているのです。

現代の私達とは、生きる時代も身分もまったく異なる偉人達。しかし、猫の可愛さとその神秘的な魅力に心を奪われていたのは、同じだったように思えます。

彼らが後世に語り継がれる功績を残せたのも、猫達から貰った「癒し」のおかげだったのかもしれません。

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