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武士と日本刀のニッチなルール

武士と日本刀のニッチなルール

時代劇に登場する武士といえば、腰に大小の日本刀を帯び、背筋を伸ばして常に凛々しく、ときには快刀乱麻を断つ活躍を見せてくれます。この威風堂々たるスタイルこそ武士のあるべき姿と言えるでしょう。しかし、フィクションではない武士達は、このスタイルを保つために細かく定められたルールに従い、努力を続けていたことをご存知でしょうか。なかには「え、ホント!?」と思えるような事実さえあります。ここでは、時代劇ではなかなか描かれない、武士と日本刀にまつわる豆知識をご紹介します。

逆走厳禁! 武士はかならず左側を歩くべし

日本刀同士の鞘当てが大事件に!

日本刀は武士の魂と言われるほど、ほとんどの武士にとって神聖な物でした。

でも実は、「日本刀といえば武士」という図式が定着したのは、江戸時代以降なんです。

きっかけとなったのは、徳川幕府を開いた「徳川家康」の日本刀に対する姿勢にあったと伝えられています。家康自身も剣術の達人でした。それは奥義を極めるほどのずば抜けぶり。日本刀への関心もひとかたならず、家臣達へも剣術の腕を磨くように命じるくらい、徹底しました。

やがて家康の教えは歴代将軍へと受け継がれていきます。もともと、身分にかかわらず一般庶民でも許されていた日本刀の大小帯刀を、武士限定と決めたのは5代将軍「徳川綱吉」でした。この政策により「日本刀の大小帯刀=武士」というイメージが完成。武士と日本刀の関係が特別なものとしてみなされるようになったのですね。

この特別感は格式となり、厳格な作法が定められ、日本刀はますます神聖視されるに至った訳です。

徳川綱吉

徳川綱吉

武士は日本刀にとりわけ敬意を払っていました。他者の日本刀を跨ぐなどという無礼はもってのほか。切り捨てられても文句は言えません。また、道を歩いているとき、すれ違いざまに日本刀の鞘と鞘がぶつかると、互いが相手をとがめて、斬り合いにまで発展する事例もあったそうです。

ささいな出来事からけんかになることを、今も「鞘当て」と言いますね。

こうした無用の争いを避けるために、日本刀は左腰に差し、右手で抜くことが決められました

では、左利きの武士はどうしたのでしょう?生まれつき左利きの場合は、幼いころから右利きへと矯正されたのです。つまり左利きの武士はいなかったということになります。

さらに、武士は普段から道の左側を歩くよう徹底されました。こうすれば互いの鞘と鞘がぶつかることは物理的にありえません。

左側通行の利点は、もうひとつあります。利き手である右側の空間を広く取ることで、不意に敵に襲撃されたとしてもすぐさま反撃できるのです。利き手ではない左側は敵から遠くなり、防御という観点からも大変合理的です。

現在でも日本の道路が左側通行なのは、この武士のルールが由来であると考えられています。

「春雨じゃ、濡れて……参るしかないのじゃ!」

雨が降っても走らない、でも決して日本刀は濡らさない

武士は左側通行と決められ、逆走は厳禁でした。ですが実際は、逆走どころか走るのも武士のたしなみとしてはNGだったのです。

走ってはいけないとは、どういう訳でしょうか。

武士が走っても良いのは、「お家の一大事」、「自然災害」、「事件勃発」という非常事態に限られていました。たいした理由もなく走った場合、切腹を命じられることもあったといいます。もちろん、雨が降ったくらいで走ってはいけません。雨宿りをしてもいけません。傘をさしてもいけません。頭に手ぬぐいをかぶるなんて、とんでもない。

武士は突然の大雨でも、あわてず騒がず、悠然と歩まなければなりませんでした。

雨が降っても走らず、日本刀を濡らさない

雨が降っても走らず、日本刀を濡らさない

これは、特に中級・上級の武士が格式を重んじていたためです。日常生活における所作や作法も厳しく定められていて、走ることを禁じた以外にも、外出時には袴を着用して大小の日本刀を帯びることは当然、道で知り合いに出会っても立ち話をしてはいけないなどの規則がありました。とりわけ多くの人の目にふれる外出先では、社会の支配階級としての権威と格式を示す必要があったのです。

雨が降っても濡れるがままだった武士ですが、日本刀だけは例外でした。

柄の部分を袖で覆ってカバーしたり、手ぬぐいをかけたりして濡れないように気を配ったそうです。これは、武士が日本刀を神聖視していたからにほかなりませんが、それだけでなく、「刀身に雨水がしみると錆などの原因になる」、「柄に使用している鮫皮がふやける」、そしてなにより「柄が雨で濡れると、いざ戦いになったときに手が滑ってしっかり握れない」という現実的な理由によるものでした。

日本刀が芝居小屋の忘れ物に

平和な証と言えども、武士の威厳はどこへやら

いつどこで戦が起こってもおかしくはない戦国時代ならいざ知らず、泰平の世が長く続いた江戸時代ともなると、「日本刀は武士の魂」とはあまり思わない武士も出てきました。

そんな武士の、人間味あふれるエピソードを教えてくれるのが、武士達が書き残した日記の数々。例えば、尾張徳川家家臣「朝日重章」(あさひしげあき)が記した日記「鸚鵡籠中記」(おうむろうちゅうき)には、船の渡し場や芝居小屋に日本刀を置き忘れた同輩の失敗談が出てきます。重章自身も人のことを言えたものではなく、町の辻で大道芸に見入っている隙に脇指の刀身をすり取られて、気付いたときには鞘だけを腰に差していたという体たらく。自分自身で暴露しています。

また、現在の埼玉県行田市にあった忍藩(おしはん)に仕えた「尾崎隼之助」「石城日記」(せきじょうにっき)には、日本刀を料亭の部屋の片隅に放り出して、酒宴で盛り上がる武士達の姿が描かれています。余談ですが、この尾崎隼之助は下級武士ながら高い教養があり、交友関係も広かったとのこと。石城日記には、挿絵がふんだんに盛り込まれていて、当時の暮らしぶりが窺えます。

さらに時代が進むと、日本刀を売り払い、お金に換えてしまう武士も現れるようになりました。1765年(明和2年)~1840年(天保11年)に刊行された川柳集「誹風柳多留」(はいふうやなぎだる)には、貧乏のあまり、日本刀を質に入れることになった武士の作品が載っています。

例えば、「質屋に持ち込まれた日本刀を番頭がずらりと抜いて値踏みをする」様子や、「日本刀の中身を売ってしまって今は竹光なので、抜くに抜けない」状況をよんだ川柳には皮肉と不本意感がたっぷりです。

一方、幕末ともなると自ら進んで日本刀を手放す武士も出始めました。新しい蘭学を学ぼうと志す若い武士達です。欧米列強から開国を迫られていたという時代背景もあり、世界というものを意識せざるを得なかったのでしょう。

蘭学医師「佐藤泰然」(さとうたいぜん)によって開かれた「順天堂」などの私塾には、意気盛んな若者達が集まり、先進的な西洋の医学を学びました。彼らは日本刀の大小1組だけを残して、あとは売却したと伝えられています。しかもそれで得たお金は、宴会費用として使ったということです。

学費にしなかったのは何とも意外な気もしますが、もし日本刀を武士の魂と考えていたならば、これを売り払い、まして宴会費用などにはしなかったはず。新しい時代の到来を見越していたからこそ、彼らは日本刀とは少し距離を置いて見ていたのでしょう。

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